カメラで撮るということへの挑戦 | 旅の準備
旅の記録をどう残していこうか、最近考えている。わたしは忘れてしまうことが怖いので、できるだけ日記を書いたり(noteもそう)、iPhoneで写真を撮ったりする。今回、その中の大事なツールのひとつである写真について。この度、我が家に新たな旅のお供を迎え入れた。いわゆる、コンデジというやつ。
カメラのことは全く詳しくない。でもなんとなくカメラというものは身近で、好きで、そして憧れもある。そう思うルーツは多分、わたしの祖父たち、父方の祖父も、母方の祖父もカメラが好きだったことにあるような気がしている。
一緒に住んでいた父方の祖父は、なんでもない日に写真を撮った。学校に行く前、なんでもない休日、庭の杏子の花が咲いた日、天気がいい日、など。祖父はわたしたちを家の前に立たせて、何度もシャッターを切った。結婚式の準備をしていると、同じ画角で違う日の写真が何枚もあった。時間ごとに並べて見てみると、確かに流れていたそこにある時間に触れられるような感覚がした。家に溜まったいくつものフィルムケースはわたしたちが生きた証だったのだと思う。
母方の祖父はいつも遠くから、誰も知らないうちに写真を撮っていた。大きな一眼レフカメラを持って、みんなから少し離れたところを歩いていた祖父。いつの間にか撮られていた数々の写真を見返すと、愛された記憶が蘇る。母と手を繋いで歩いたこと、みんなが笑っていたこと、歯を食いしばった日のこと。そのどの瞬間の忘れていた気持ちをなぜか思い出す。あぁ、わたしはひとりで生きてきたわけじゃない、と思う。いつも誰かといた。守られてきたんだ、と。
ふたりの祖父の写真の撮り方はそれぞれだったけれど、それぞれがくれたたくさんの記憶がいつもわたしを鼓舞してくれる。
そんなわけで、今回の旅の日々を写真に残す、ということはとても重要なのではないかとなんとなく考えていた。しかし、全く分からない。どんなカメラがいいのか、どれくらいのスペックが必要なのか、全く分からずにいたとき、偶然にもカメラ好きな友だちが持っていたとあるカメラと出会った。RICHOが出している「GR III」。
理由なしにビビッときた。欲しいと思った。そのコンパクトさとフォルム、トンマナが一目で気に入った。カメラの機能としてどんなことが優れているのか、どんな欠点があるのか全く分からなかったけれど、それでもこのカメラが欲しいとなんとなく思った。その友人のことを信頼していたこともあるような気がする。
しかしもう生産していないらしい。フリマサイトではかなりの高額で売られていた。落胆しつつも、粘り強く探していた。
それからしばらく経って、その友人から連絡が入った。「もしよかったら譲ろうか?」とのこと。新しい機材が必要なので、資金調達のために売りに出そうと思っているとのこと、それであれば大事に使ってくれることが分かる人に譲りたいとのこと。友人は撮ることを生業にしている。彼から買うことは、彼の仕事を応援することにも繋がるはずだ。そう思い、彼から譲ってもらうことにしたわけである。
そうして届いたわたしたちのカメラ。君のこと、世界中に連れ回すよ、よろしく頼むね、とつぶやいた。
iPhoneのカメラでも十分な画質でたくさんの写真が撮れるけれど、そうではなく、カメラで撮る。そこにかかる手間を愛したいのだと思う。愛せるかはまだ分からないのだけれど、でもきっと一枚、一枚に馳せることができる想いは、どうしたって大きくなるはずだと思うのだ。その一瞬のことを今よりもっと、愛してみたい。焼き付けてみたい。撮るということの本質に触れてみたい。想いや記憶や時間を残すということが、どういうことなのか知ってみたい。カメラのレンズを通してでしか、見えないものがあるような気がしてならないのだ。
無くさず、壊さず、一緒に帰ってこられますように✨
慶ちゃん、譲ってくれてありがとう。慶ちゃんの写真に対する想いを見てきたから、だからわたしも撮るということに挑戦してみたいと思うのかもしれない。知識や技術はないけれど、慶ちゃんのカメラで撮るんだもん、いい写真が撮れそう、という感覚だけはちゃんとある。これからも撮り続けてね📷