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何よりも引きとめる〔前編〕

 
 
 
「この世に生を受けたからには、致死率は100パーセント。例え長かろうと短かろうとも。その運命からは、誰も逃れる事は出来ない」
 
 ──曽野木そのぎは、もうかなり前から薄々感じていた。自分の身体は、程なく限界を迎えるのであろう、という事を──
 

 
 今後は、単発の仕事以外、継続的なものは引き受けられないと勤め先に伝え、それまでに引き受けていた依頼は完了した。私的な手続きや処理も全て終わらせ、わずかな着替えだけを持ち、曽野木はひとり、この町に降り立った。
(……静かでいいところだ。最期を迎えるに相応しい)
 心の中で呟き、道筋を記した紙切れを開くと終の棲家となるはずの家へ向かう。とりあえず荷物を置き、この町での主治医となる医師に会いに行かねばならない。東京で主治医だった医師・矢内やないの旧友なのだそうで、紹介状も用意してくれた。
 曽野木自身は、既に医者にかかる必要性など感じていなかったが、その意見はあっさりと却下された。長時間経過してから、変死体として発見されたら周囲の方が迷惑する、と。
 その意見はもっともで、反論の余地はなかった。
 ともすれば歯に衣着せぬ、言いたい放題の医師ではあったが、率直で嘘偽りない言動は曽野木にとっては心地好いものでもあった。
 であればこその信頼を寄せていた医師は、曽野木の余命についても、一切、隠し立てをする事はなかった。

「治療の事だけでなく、何でも相談するといい。顔の広い男だし、生活するに当たってのツテもほとんど持っている」
 主治医のその言葉通り、家具付きの手頃な一軒家を押さえてくれたのも、どうやら新しく主治医となる男らしい。
(……そうなると、礼くらい言いに行かなければならないな……)
 薄曇りの灰色の空の下、人通りがほとんどない道を歩いていると、彼方の高台にそれなりの規模の建物が見える。
(あれが病院か……)
 そこまでは行かずに道を折れると、緩やかな登り坂。高台と言うほどではないが、その坂を登り切ったところが、曽野木がこれから住む家であった。
『掃除も済ませてあるし、水道も電気もガスもすぐにも住めるようにしてある。ただし、買い出しは自分でしてくれ。中古だが、自転車も用意しておく……だそうだ』
 昨日までの主治医には、そう説明を受けている。曽野木は鍵を取り出し、中へと足を踏み入れた。
 
 古い洋風の二階建て。ひとりで住むには広すぎるが、説明通り綺麗に掃除されているし、水も電気も通っていた。
 二階に上がって窓を開けると眺めも良く、これから向かう病院も見える。庭を見下ろせば、隅に小さな小屋のようなものがあり、自転車が停められているのもわかった。
(休みたいところだが……さっさと挨拶を済ませて来るか……)
 今度は鍵をかけ、用意してくれていた自転車に跨ってみる。すると、何年も乗っていないわりに、身体はしっかりと感覚を覚えている事に気づく。
「……初めての町だし……最初くらい歩くか……」
 乗れた事で気が大きくなり、急に思い立った曽野木は自転車をしまい、病院に向かって歩き出した。──が、5分も経たないうちに後悔し始める。思ったよりも距離があったのだ。
 そして何より、別件の不安までがこみ上げて来る。
(……ひと気もなければ、店一軒ある気配がないが……買い出しってどこですればいいんだ?)
 降り立った駅の周辺にも、スーパーなどがあるようには見えなかった。決して料理が出来ない訳ではなかったが、時には惣菜で済ませたい事もある。だが、惣菜を売っている店どころか、肝心の食材を売っている店すら見当たらない。
(……はやまったか……)
 都会の生活に慣れた身が、早くも怖気づきかけていた。
(死ぬのは怖くないのに、空腹は怖いなんておかしな話だ……)
 ひとり苦笑いしながら、病院への坂道をひた歩くと、ようやく入り口が見えて来た。近くで見ると、さらに立派な建物である。
「……え〜と……?」
 メモを見ると、正面入口ではなく、建物を周った出入り口から入れ、とあった。その方が、新しい主治医・神屋(かみや)のいるところに近いのだ、と。
 指示通りに周回し、それらしき入り口から足を踏み入れると、そこには静かな空間が広がっていた。
 思いもよらないその雰囲気に立ち尽くす。
「何か御用ですか?」
 突っ立っていると、看護婦と思しき女性に受付のカウンターから声をかけられた。
「……東京の矢内先生の紹介で、神屋先生に……」
「ああ!お聞きしてますよ。今、先生を呼んで来ますね」
 それだけでわかったらしく、看護婦は奥へ入って行った。

 病院施設の一部であろうに、ひとりの患者の姿も見えない待合室。曽野木はシートに腰かけ、辺りを見回した。
(……ここは何の診療科なんだ?)
 壁には、医療に関係ありそうなポスターなども特に貼っておらず、むしろ病院の待合室には見えない。
「お待たせしました」
 その時、先程の看護婦と共に壮年の男が姿を現した。ラフに羽織った白衣がなければ医師なのかわからない。
「矢内先生からご紹介戴きました……曽野木です」
「神屋です。矢内とは大学が同期で、研修も一緒と言う腐れ縁ですが、経緯(いきさつ)は伺ってます」
 立ち上がり、軽く会釈する曽野木を扉の方へ促す。話す様子を見ても、その外見同様に気さくであった。矢内とは少しタイプが違うが、曽野木にとっては好ましい雰囲気を感じさせる。
「住まいの手配までして戴いて助かりました。ありがとうございました」
 診察室で向かい合い、曽野木は一番の目的を終わらせた。
「いや、いろんな患者さんが見えますのでね……ありがたいと言おうか、ありとあらゆるツテが付いて来るんですよ」
 ツテは患者なのか、と思わず笑いがこみ上げる。が、すぐに切り替えた神屋は、紛れもなく『医師』の顔であった。
「……状態は、おわかりなんですね?」
 曽野木の顔を覗う。確認を取るために。
「……はい……」
 短い返事の中に、曽野木の覚悟も含まれているのを感じ取ったのか、神屋は静かに頷いた。そのまま、カルテと紹介状に目を落とす。
「薬は正しく服用してください。それと、受け取りを兼ねて、週に一度は必ず診察に来る事。出来れば、二回来て戴く方が好ましいです」
「……わかりました」
 素直に返事した曽野木に再び頷き、ふと思い出したように顔を上げた。
「……家には寄って来たんですよね?大体の物は揃っていたはずですが、何か生活上、困った事や足りない物などありませんかでしたか?」
 訊ねられ、唐突に死活問題を思い出す。即ち、どこに買い物に行けばいいのか──を。
「この辺りでは……買い出しなどはどこでするんでしょうか?」
「ああ……曽野木さんは自炊される方ですか?」
 曽野木の思考が止まった。
「……しなくはないですが……毎日、毎食となると……」
 スイッチを切った掃除機のように、答えが尻すぼみになる。自信なさげな様子に、神屋が吹き出した。
「いや、失礼。少し離れたところに大型スーパーはあります。しかし、夕方急に面倒くさくなったりして、手軽に惣菜を買いに行こう、と言うには距離があるかも知れませんね」
「………(病死の前に餓死しろと?)………」
 その不安を読んだのか、神屋はニヤリと悪戯っ子のような顔をした。
「大変だろうと思って、勝手に手を打っておきましたよ」
「……はい?」
「お手伝いさんを手配しておきました。住み込みで家事全般世話してくれますので、買い物もそんなに心配しなくて大丈夫ですよ」
「……えっ……!?」
 曽野木の驚きっぷりに、神屋の方がむしろ驚く。
「東京でも家政婦さんがいた、と聞いてましたが?」
「……あ、ええ、まあそうなんですけど……」
 確かにその通りではあった。
 仕事が立て込むと食事も睡眠も疎かになり、さすがにまずいと考えた末の対策が『家政婦さんを雇う』だった訳だが、それよりも何よりも、その時には手遅れであった。もう、今さら何をしても、曽野木の身体は限界に近づいていたのだから。さらに付け加えれば、通いの家政婦さんであり、住み込みだった訳ではない。
「……住み込み……」
「先の説明通りの場所なので、この辺りで通いは難しいですよ」
 確かにそうかも知れない、と曽野木は思う。とは言え、長くひとり暮らしをしていた身に、全く知らない赤の他人との同居は荷が重かった。まして、あまり深く関わる事を良しとは思えない。ただ、死を待つだけの身としては。
「大丈夫。さっぱりした……モロモロ心得てる人ですから……私が保証します。今日の夕方にはお宅に伺うと思いますよ。あ、賃金は家賃と込みですから心配いりません。ただし、食事付って事で」
「……はあ……」
 不安気な曽野木を他所に、決定事項として報告された。
 
 薬をもらい、帰路に着いた曽野木は溜め息をついた。会いもせずに断る訳にも行かないところまで、既に話は進んでしまっている。当の曽野木を置き去りにして。
 とても人には見せられないほど、顔が酷い事になっているのが自分でも良くわかる。幸いひと気はなく、病院を出たところで自転車の人がひとり、追い越して行っただけであった。
(……仕方ないか……とりあえず、会ってみて……何なら、数日で辞めてもらうしかないか……)
 全ての柵(しがらみ)から逃れて来たのに、医師以外に新たな関わりを持つ事になるなどと考えてもいなかった。
(……事務的な人ならいいけどな……)
 いつの間にか、家の傍まで来ていた事に気づいて前方に目を向ける。──と、思わず足が止まった。
「……ん?」
 入居したばかりの家の前に女性と思しき人影。駐車場には軽自動車が停まり、女性の傍には自転車もあった。
(……誰だ……?)
 様子を窺いながら近づく。
「この家に何かご用ですか?」
 キョトンとした顔で振り向いた女性は小柄で、歳の頃は30歳から30代前半と言ったところであろうか。
「あ、あの!この家に新しく来られた方ですか?」
「そうですが……」
 訝しげに見る曽野木の目の前に立つと、ニコニコと人懐こい笑顔を向けて来る。
(……近所の人か?)
 見下ろす曽野木にピョコンとお辞儀をすると、もう一度顔を見上げた。
「はじめまして!渡瀬総合病院の神屋先生を通じて、家政婦紹介所から参りました……崎坂小春(さきさかこはる)です」
「……えっ……」
 曽野木からすれば、近所の人かと思いきや、ついさっき神屋から説明を受けた──しかも一方的に──相手。まさか、既に訪ねて来ているなどと思いもせず、急展開にさすがに焦る。
「……あの、もしかしてお聞きではないですか?」
 不安気な顔。別に曽野木に責任はないのだが、この女性のせいでもないが故に、妙な罪悪感に襲われた。さらに曽野木の不安を上乗せさせるのは、神屋が言っていた『住み込み』の四文字。
「……いえ、あの……とりあえず中で……」
 口ごもる曽野木に、さらに不安度が増した表情。見ないようにしながら、中へと彼女──崎坂小春──を促した。
 
「……お茶も何もなくて申し訳ない」
 曽野木の言葉に「お構いなく」と答え、缶のお茶を二人分差し出した小春と向かい合う。
(……住み込みはまずいだろう……)
 とにかく、第一に頭に浮かんだのはその事であった。
 男の一人暮らしのところに『住み込む』と言うくらいだから、自分より相当に年輩であるに違いない、などと勝手に思い込んだのが失敗だったと後悔する。
 いくら家政婦と言っても周りがどう見るか。もちろん、曽野木は変な気を起こす気などなかったが、当の小春自身は不安ではないのか。
「……話は……神屋先生からお聞きしてはおります」
 つい数分前に、という言葉は飲み込んだ。
「……あの……私ではご不満でしょうか……」
 不満も何も、そもそも今の段階では、家政婦としての腕のほどなど知りようもない。曽野木が持っている情報は、神屋からの『保証する』という言葉だけなのだ。しかし、曽野木の中での問題は、それ以前の次元である。
「……失礼ですが……ここには私が一人で住む事はご存知なんですよね?」
「はい、もちろんです!」
 婉曲に訊ねたのが裏目に出たのか、却って明るく返事をされた。『だからこそ、自分がお手伝いに来たのだ』と言わんばかりに。
「……あの……こんな事をお訊きするのもナンですが……本当に住み込みされるつもりですか?」
 決して自分を危険人物アピールしたい訳ではなかったが、何かの誤解が生じない保証はない。穏やかに迎えるはずの死の間際、犯罪者擬きに成り下がる気はさらさらなかった。それにしても、いくら何でも、あからさまに口にするには少々抵抗がある。
「……ダメでしょうか?」
 困ったような上目遣い。これに飲まれては、押し切られるのが目に見えている。
「……ダメと言うか……いくら枯れかけた中年男とは言え……あなたのように若い女性が……逆にあなた自身は不安ではないのですか?」
 それが故に、『枯れかけた』という表現を用いたが、だからと言って世間的に見て『引退』という年齢でもない。付け足すように直球で訊ねた曽野木の目に、再びキョトンとした表情が映る。
「……お仕事ですし……」
「……私が突然豹変しない保証はないでしょう?」
「豹変するんですか?」
「いや、しませんが……」
「……だったら……」
「そういう事ではなく、例え何もなくとも、周りはそうは見ない、という事を私は言っているんです」
「……ご評判に差し障りがあるのなら仕方ありません……」
「いや、そうじゃなくて!私の事ではなく!」
 不毛過ぎるやり取りに、ついに曽野木の方が業を煮やした。驚いた小春の目が丸くなる。
「……失礼。問題なのはあなたの事です。変な噂でも立てられたら、今後困るでしょう?」
「……別に問題なんてありませんし困りません」
「……は?」
「もう、前のところを引き払ってしまったので、住むところがない方が大問題です。……それに……」
「……そ、それに?」
(住むところがないだと!?)
 唖然としつつ、何とか最後まで話を聞こうと試みる。
「……別に私、特に若くありませんし……」
「……いや、そんな事……」
「……そんなに違わない……同年代のはずです」
「そんなはずは……!」
 身を乗り出した曽野木を、小春はまたも上目遣いで見つめた。
「……おいくつですか?」
「……46歳ですが……」
「私、もうすぐ45歳です」
「ゴフッ!」
 小春がくれたお茶に咽て吹き出し、
「馬鹿な!」
 思わず飛び出た大声。
(どう見ても30代前半だぞ……)
 それでも、呆気に取られる曽野木を見つめる目に嘘はないように思えた。そして、それが本当であるなら、自分の歳を『枯れかけた』と評した事が、却って裏目に出た事になる。
「本当です。……結婚歴もあります」
 それきり小春は押し黙った。その様子に何かを感じ、曽野木もそれ以上は追及出来なかった。
「……ご迷惑なら……次の住まいが見つかるまでで構いません。それまで何とか置いて戴けませんか……?」
 俯いた小さな姿。住む場所もない、という女を放り出すのはさすがに憚られる、などと考えている時点で、既に曽野木の負けであった。何より、ここでの相場はわからないものの、住み込みと同じ賃金、では生活が成り立たないに違いない。
(……どちらにしろ……そう長い事ではない……)
 天井を仰ぎ、小さな溜め息をひとつ。
「……わかりました。……ただし……」
 ゆっくりと顔を上げた小春を見つめた。
「私は仕事に入ると、他を一切遮断します。返事すら漫ろになるでしょう。申し訳ないが、それでも邪魔をしないと約束してくれるなら……」
「お仕事のお邪魔はしません」
 真っ直ぐな目で答える小春に向かって頷く。
「……何とお呼びすれば?」
「崎坂、は言いにくいと思いますので、小春で……」
「わかりました。遅くなりましたが、私は曽野木です」
 
 こうして、奇妙な契約は成立した。
 

 
 共に生活を始めてすぐにわかったのは、小春は神屋が保証した通り、万能と言って良いほど凄腕の家政婦だった。
 嫌な顔ひとつせずに黙々と家事を熟し、曽野木に対する時は常にニコニコと笑顔を絶やさない、まさに小さな春──のような。しかも、近づき過ぎず、痒いところには手を届かせる、と言う絶妙な距離の取り方をも会得していた。
 曽野木のように、長い一人暮らしに慣れた身には、家族や恋人と暮らすよりもむしろ心地好かった。
 小春が笑顔を絶やしたのは一度だけ。そして、その出来事は、小春に対する曽野木のイメージを覆させるものでもあった。そう──決して、明るく朗らかなだけではない、と。

 それは、共に生活を始めて数日後の朝の事であった。
 夜通し格闘しても終わらない仕事。曽野木はぼんやりする頭を抱え、不機嫌な顔を隠しもせずにソファに沈み込んだ。
「おはようございます。ご飯、すぐに召し上がりますか?」
 顔を覗かせた小春の方を見もせず、返事どころか挨拶の言葉すらない。
「曽野木さん?」
 チラリと目だけを向けたものの、すぐに視線を戻し、まただんまりである。眉を寄せた小春が台所から出て来ると、ちょこんと傍らに立った。
「……あの……」
 一点を見つめたままの曽野木に、控えめながらハッキリとした声で呼びかけた。
「……お仕事のお邪魔はしないとお約束しました。でも食卓に来られて……私は家政婦ではありますが、それでも同じ家で生活している者です。最低限の挨拶やお返事くらいは戴きたいです」
 自分の方を見ようともしない、不機嫌そうな男に毅然と言い放つ。それでも無反応の曽野木に軽く一礼し、小春は踵を返した。
「……気をつけます……」
 台所に入る直前の小春を、微かな声が追いかけて来る。
 曽野木自身もちゃんとわかってはいた。仕事を終わらせられなかった事も、身体が不調で重い事も、小春には何ら関係ない事であり、にも関わらず八つ当たりしているだけなのだと。
 だからこそ、急いだ。機会を逃してしまえば、もう言う事は出来ないから。
 小春の足が止まる。
「……はい」
 振り返らずに返事をすると、そのまま中へと入って行った。
 
 しばらくすると、ぼんやり座ったままの曽野木の鼻孔を、温かい匂いがくすぐり始める。
「どうぞ」
 湯気の立つ椀が、目の前のテーブルに置かれた。薄味をつけた粥と葱を散らした蜆の味噌汁、そして香の物。
「おじやに近いお粥です。何だか胃が重そうに感じたので……」
 小春の顔を見上げる。先ほどの事などなかったかのように、いつも通りの表情。
「……ありがとう……」
 味噌汁を一口含むと、胃の中に温かい感触が広がって行く。ほっとする温もり、そして粥の味。思わず息が洩れる。
 ふと見遣れば、小春が笑っていて、長く忘れていた事が甦って来る感覚。かつては過ごした事もある優しい時間。
 
 ずっと共に歩いて行こうか──そう思う存在がいなかった訳ではない。たまたま、その運命にはならなかっただけのこと。
 しかし、今となってはそれで良かったのだと思っていた。こんな事態になって、道を分かたれるよりは。それなのに──。
(……今になって……)
 箸が止まった曽野木を、小春が心配そうに覗き込んだ。
「曽野木さん?お口に合わないですか?」
「……いや……ちょっと考え事です。おかわり、もらえますか?」
「はい」
 嬉しそうに頷き、装いに行く後ろ姿を眺める。見た目だけなら小柄で、子どものように見えなくもないのに、実際には自分よりも遥かに大きい。『結婚歴がある』と言っていたのだから、離婚にしろ、死別にしろ、色々あったのだろうとも思う。
 
 そんな事を考えながら食事を終え、後片付けを済ませた小春に、それまでの曽野木なら考えもしなかった提案をした。
「小春さん。これからは食事は一緒にしましょう」
「……え?」
 小春の動きが止まる。
「いや、仕事に入り込んでる時は無理ですが、同じ時に同じ物を食べた方が手間も省けるし、何より……」
「……何より……?」
「ひとりで食べているところを見られている、と言うのが落ち着きません」
 曽野木の言葉に小春は吹き出した。しかし、すぐに嬉しそうに頷いた。
「はい。では、お言葉に甘えて、お昼からそうさせて戴きますね」
「お願いします」
 落ち着かない──曽野木はそう理由付けたが、本心は少し別のところにあった。
『人と向かい合って食事をしてみたい』
 もっと明確に言えば、小春と。とても口には出せなかったが、言葉通り、二人はその日から食事を共にするようになった。
 

 
 少しずつ染み込んで来る、春の息吹のような暖かさ。それが逆に、曽野木の気持ちをざわつかせた。
(このまま、この暖かさに慣れてしまったら……)
 不安が過る。失う事が怖くて、相手にも失わせる事が怖くて一人を選んだはずなのに、と。
(いや、違う。怖かったんじゃない。ただ、嫌だった)
 かつての事を思い起こす。
(……いつ、どんな風に別れる事になるのかわからなかったから……その事について話しておく事も、その時の反応を想像する事も、全てが重くて堪らなかった……だから避けていた……逃げたんだ……)
 それが、今ははっきりと自覚がある。『これは、怖れだ』と。
 このままこの生活を続けていたら、間違いなく深みに嵌まる──その確信がざわつきの元である、と。
(では、どうする?)
 迷っている時点で、既にもう嵌まりかけていた。
 
 神屋の診察を受けて帰宅した曽野木は、そんな事を考えながら、処方された薬の入ったバッグをソファに放り、自らも沈み込む。天気が荒れると言う予報に、車で送って行くと言う小春の申し出を断って早めに行って来たのだ。気配を感じないところを見ると、曽野木の外出に合わせ、小春も買い出しに出かけているようであった。
(……身体が重い……あと、どれくらい保(も)つか……)
 急激な気圧の変化も体調の良し悪しに影響している。だが、それだけではない事に、もちろん曽野木は気づいていた。
 ふと周りに意識を向けると、急激に風が強まり、窓が派手な音を立て始めている。雨も降り始めていた。
 慌てて居間の雨戸を閉め、二階の雨戸も閉めるために急いで上がる。空が翳ったせいか、夕方のように薄暗い。一つ一つ雨戸を閉めて行くと、灯りを点けなければ見えにくいほどに暗さを増す室内。
 最後に自室の雨戸を閉めた時、曽野木は己の身体に違和感を覚えた。
「…………?」
 久しぶり過ぎて反応が出来ず、疑問が確信に変わった時には手遅れだった。
「……まずい……!」
 鳩尾を強烈な衝撃が貫く。抉られるような痛みに、掻きむしるように胸と腹部の間辺りを押さえてベッドに倒れ込んだ。
(……薬……)
 一瞬で浮き上がった脂汗。ポケットをまさぐり、いつも必ず身につけている薬を取り出そうとするも、湧き上がったのは絶望感だけであった。
(……しまっ……下に……)
 もらって来た薬は、ソファに放り出したバッグに入れっぱなしにしていた事を思い出す。
(……死ねない……今、ここでは……)
 しかし、既に曽野木は立ち上がるどころか、身体を捩る事さえ出来なくなっていた。
(……こんな形で……!)
 死ぬ事自体は、とっくに覚悟はしていた。恐れすらも、とうに通り越していた。いつでも迎えに来い、と。
 ただ、脳裏に浮かんだのは小春の顔であった。こんな形で、何も知らない状況で、いきなり死んだ自分を発見した時の小春の顔、である。
(……こんな事なら、もっと早くに全ての事情を話しておけば良かった……)
 持病がある、くらいにしか話しておかなかった事が、激痛をも凌駕しそうな、痛烈な後悔の念となる。
 雨戸を閉めてさえ聞こえる激しい嵐。その音の中、痛覚を除き、曽野木から全ての感覚が遠ざかって行く。
「……すまない……」
 力を振り絞って呟き、意識を手放す瞬間、曽野木は自分の名前を呼ぶ小春の声を聞いた気がした。
 
 しかし、それが現実だったのか、願望が聞かせた幻聴だったのかわからぬうちに、曽野木の意識は完全に暗闇へと落ちた。
 
 
 
 
 
つづく
 
 
 
 
 
***
 
 
 
※1980年前後の設定です。2002年3月以前の話なので、『看護師』ではなく『看護婦』の名称を使用しています。
 
 
 
 
 
 
 
 

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