魔都に烟る~part29~
一触即発の雰囲気の中、取り巻く空気の流れだけが、唯一、時間の流れを示している。
いや。正確には男爵の顔に刻まれた皺が少しずつ、本当に少しずつ深くなって行くのがわかった。
(……ガブリエルの身体が限界に近づいているの?)
ローズの胸に不安が過る。
(そうしたら……ガブリエルの身体は本当に消滅してしまうの?)
消滅しようが、しまいが、もうガブリエルが元に戻らないことなど、ローズとて承知している。それでも、その身を弔うことが出来ることと、その存在そのものが消滅してしまうことでは、やはり大きな隔たりがあった。
とろ火で炙られるような数刻の後、ついに男爵が動いた。
縛り付けられたその身体から、禍々しい色の空気が湧き立つ。その様は、まるで暗黒の雲が生まれるような光景だった。
レイが一瞬、身構えたのがわかる。
男爵の表情が険しくなると共に周囲の闇も増し、室内の空気の濃度までもが薄くなって行く。もはや『人』の顔とも思えない形相に、ローズの心は冷え切っていた。
━と。
地響きが鳴ると同時に、地面から男爵の身体を軸に竜巻のような風圧が立ち昇った。
あっという間に周りのものを巻き上げ、壁や天井に叩きつけられたものがバラバラになって行く。
引きつけられる風圧と、吹き飛ばそうとする風圧の狭間で、レイの身体が何とか均衡を保っていた。
不意に男爵が身体を二つ折りのように曲げる。ローズが身を乗り出した瞬間━。
激しい轟音と共に、決壊したダムの水流のような圧力が生じた。結界の中にいるローズの身体が後ずさるほどに。
掌を掲げて防いでいたレイが、さすがに体勢を低くしたが、そのまま床を引きずられるように押し遣られて行く。
堪えているのは見て取れる。が、それ以上の動きが取れないのか、低くした体勢から身動きひとつせず、顔を腕で風圧からガードしていた。
壁にヒビが入り、部屋中が軋み始めた時。
一気に部屋中の空気が男爵のところに集中し、凄まじいまでの内圧と真空状態が生じる。それを極限まで抱え込んだ男爵が、一瞬にして外に向けて放出した。
まさに、『爆発』と言えるほどの衝撃。
それが結界内のローズをも弾き飛ばしそうになった。床に座り込んで必死に凌いだローズは、風圧に目をしかめながらレイの姿を探す。
(……いない……レイ……まさか吹っ飛んでしまったの……!?)
焦る気持ちが心臓の位置を超えた瞬間、ローズの目は光の筋のように宙高くからゆっくりと落ちて来るレイの姿を認めた。
切り裂け、ところどころ焼け焦げた服。下ろした腕から滴る血。固まった小さな傷からは新たな血が流れている。にも関わらず、その姿勢は変わらず、その表情にも変化はない。
一方、男爵の顔はもはやミイラのように皺くちゃになっていた。持てる力を全て、使い切ってしまったのであろう疲労感が滲み、レイの姿を見る目は絶望感と脱力感に溢れている。
『ゴドー家当主に勝つことは不可能』
その事実を、ここに来てようやく悟ったのかも知れない。
しばし男爵の憐れな姿を見つめたレイは、睫毛を伏せ、深く深く息を吐き出した。
先ほどのように、揃えた二本の指で宙に何かを描き出す。
(……三角形……?)
レイはいくつもの上向きの三角形と下向きの三角形を、交互に描いて行く。腕を振るたびに、滴る血の飛沫で周囲が烟り、それが不可思議な紋様を染め上げた。
その三角形たちが重なり合い、ひとつの模様を作り出した。まるでレースで編んだように細かで繊細な紋様。
「……ろ、六芒星……!?」
「……八重隠し籠目紋(やえかくしかごめもん)……」
驚愕の声を上げた男爵に、レイは静かに返した。
それをレイは、風に乗せるようにふわりと男爵に向かって放つ。
後ずさろうとして動けない男爵の頭上に放たれたそれは、スーッと下がりながら身体の中心辺りで止まり、今度はゆっくりと回り始める。幾重にもなった紋様が、一重ずつ交互に、反対に回りながら少しずつ離れ、男爵の身体全体を取り囲む。
まるで籠のように。
「こ、これは……これは、まさか……」
驚きと恐怖に満ちた男爵の声。
「ご存知だったようですね」
「バカな……あんな伝説上の術が実在するなど……」
回転する紋様に取り囲まれた男爵が呻く。
「……この力は一生に一度きり、しか使えないものです。しかも数百年の歴史上、歴代の継承者の中で、この術を使ったのは、わずか四人。……私は五人目……そして……」
静かに目を開く。
「……最後になるでしょう」
その途端、紋様の回転が激しくなり、その隙間に黒い何かが現れた。細い一本の黒線のように見えたそれは、満ちて行く月のように、次第に輪郭が増して行く。
ローズが目を凝らして見ると、それは空間の歪み(ひずみ)。その彼方に見えるものは、果てのない『無』の世界。
その別世界の空間が、闇の入り口であるかのように口を開いた。
「……ぐっ……う……す、吸い込まれる……」
抗い、必死にもがく男爵に、レイは静かに言い放つ。
「……ご安心を。痛みも苦しみも……何ら苦痛など感じることなく、何もなかったゼロへと還して差し上げますよ。せめてもの私からの情けです」
「バカな……こんなことをして三家の均衡を崩し、二家にしてしまったらどうなるか……わからぬ貴様ではあるまい……!」
男爵の悪あがきの言葉に、レイはかつてない酷薄な笑みを浮かべた。
氷のように冴え冴えとした口元。月のように妖しく、それでいて哀しいまでの黄金の光を湛えた瞳の中が、赤く紅く、どこまでも緋く烟る 。
「その心配はいりません。今日、この場限り、我がゴドー家も消え失せます。全てをゼロに還し、後はアシュリー家が中枢を担って行くのです」
(……!……叔父様が……!)
驚いたローズがレイの横顔を凝視する。しかし、その顔に一片の躊躇いも嘘も感じなかった。
(レイは本気なんだ……本気でオーソン家もゴドー家もなくしてしまうつもりでいるんだわ……)
「……それが、我が父との約束。父と母から託された……私がこの世に生を受けた、ただひとつの『理由』です」
それを聞いたローズの脳裏に、ある記憶が甦る。
『全てを託すこと……すまない』
最期にそう言い残したと言うレイの母。その言葉の本当の意味。
「……一度きりの力……それは終焉であり終宴を司る……禁忌を還すための禁忌の力……」
言い終わるや否や、レイの瞳全体が黄金に輝き、その光が部屋全体を染め上げた。
そのあまりの眩しさに目がくらんだローズは、意識までもが深い沼に落ち込んで行くのを認める。
(これで、全てが終わるのだ。何もかも、自分の全てまでもが━)
完全に意識を手離す直前、ローズが感じたのは、自分の身体を抱きとめる手と腕の感触だった。