魔都に烟る~part26~
レイの放ったひと言が、ローズの胸の内に大きく広がって行く。
(……レイ……今のは……一体、どう言う意味なの?)
何故かは、何かはわからないにも関わらず、胸の内に膨れ上がる不安。ローズはその不安を隠せない面持ちでレイの姿を凝視する。
「ふ……良かろう。決着をつけようではないか」
自信に溢れた男爵を、レイはあくまで静かな湖面のような視線で見据える。それでいて激しく立ち昇るエネルギー。
「……レイ……!」
ローズの呼びかけに、レイは一瞬、目だけを彼女の方へ向けたが、すぐに男爵へと意識を戻してしまった。
そんなローズの意識を引いたのは、他でもない男爵の声。彼女が聞いたこともない言葉の奔流。身体が震え出すほどに恐ろしい旋律。
「……ずいぶんと危険なものを……」
ふと聞こえたレイの呟き。
見上げると、冷たさを内包したレイの横顔。それが眉をしかめたのがわかる。
「……仕方ない……」
そう言い、レイは揃えた二本の指を唇にあて、カチリカチリと歯を鳴らした。次いで、不思議な旋律の言葉のうねり。
次の瞬間、レイはローズの方に向かって『何か』を放った。
「…………!?」
驚いたローズが身を引こうとすると、放たれた『何か』が目の前で形を変え、消えたように見える。恐る恐る手を伸ばすと、見えない、けれど、確かに何かの手応えを感じた。
「結界です。そこから動かないでください」
静かな、しかし有無を言わせないレイの言葉。ローズは黙って壁際に退く。
その気配を確認したように、レイは再び何かを唱え出した。掌を上に向け、左手を少しずつ自分の斜め前に差し上げて行くと、炎のような揺らめきが確認出来る。
「……紙……?」
ローズは目を凝らした。紙切れのようなものが、炎のように揺らいだかと思うと、煙のように小さな人の形が現われる。続いて、鳥のような形のもの。それらが次々と揺らめきの中から現れ、ちょっとした集団を作った。
(……あれは何なの?)
初めて見る、人に、鳥に似ていても、あらざる存在の何か。
ローズの疑問を余所に、揃えた指をレイが振ると、それらは一斉に男爵の方へと襲いかかった。
「……こざかしい!」
男爵がマントで振り払うと、一瞬、掻き消えたように見える。━が、そう思ったのも束の間、その『人ならざる何か』は男爵の周りを囲むように円陣を組んだ。
「何故、消えん!何だ、これは!」
男爵が苛立ちを隠さずに叫ぶ。その様子に、やはり変わらぬ体で見ていたレイが言葉を放った。
「……消せませんよ、あなたでは。例えガブリエルの力を以てしても」
忌々しげにレイを睨み付けた男爵は、再び懐から何かを取り出し、何やら唱えながらフワリと宙に放つ。途端に男爵の周囲で弾けるように火花が散った。それにも構わず、男爵は瞑目しながら唱え続ける。
その唱和を聞いていたレイは、かざしていた左の掌をグッと握り締めるように閉じた。その動きと同調するかのように、男爵を取り巻いていた『何か』が一斉に男爵を絞め上げる。
「……くっ……これは……!?」
「あなた方の力の及ばぬ“力”です」
冷たく、そして、力の差を見せつけるかのように言い放つレイに、男爵の顔は怒りで煮え滾ったかのように変化した。
「……うるさい!お前のような若造に誰が!」
そう言って、男爵は謎の言葉を叫んだ。
瞬間、レイは、ローズと自分の前に素早く『何か』を放つ。間髪入れずに火花と煙が激しく飛び散った。
見ると、男爵を絞め上げていた『何か』は蒸発している。それを見たレイは、何とも言えない、不思議な表情を浮かべた。
━まるで、諦めたかのような。
(……レイ……?)
ローズの胸の不安が再び燻り出す。
「……仕方ありません」
先程と違い、今度は本当に諦めたかのような口調。レイは両腕を大きくふわりと回し、胸の前で打ち鳴らした。
パーーーン!
澄んだ音が高らかに響く。
その音の響き、それ自体が神聖なものであるかのように。
男爵でさえもが、一瞬、身体を強張らせるかのような反応を示した。
瞑目し、手を合わせたまま微動だにせず、全ての機能を止めたかのように沈黙するレイ。
ローズが息を飲んでレイの動向を見つめる中、静かに空気が震動する気配。
「…………!?」
その震動が、レイの口元から生まれていること、に気づくのに時間はかからなかった。
「……ひ……ふ……み……よ……いつ……」
少なくともローズの耳にはそう聴こえる音、が発せられている。そして、みるみるうちに室内の澱んだような空気が清浄になって行く。
しかし、その直後、先程までは全く違う音の言葉を、突如、レイが放った。
「……おん……」
耳を凝らしても、今度はローズには全く聞き取れない。男爵も訝しげにレイの顔を凝視し、警戒した様子を見せた。
━と、レイが瞑目を解き、一気に目を開いた瞬間。
男爵の身体は今度こそ見えない『何か』によって硬直させられた。
「……ぐっ……!」
「今度は手加減はしません。……逃がしはしませんよ……今度こそ……」
ローズが目を見張る。レイが何をしようとしているのか見当もつかず、ただ、見ているしかなかった。
「……くっ……何をする気だ……!」
必死に逃れようともがく男爵の言葉に、レイは低く言い放つ。
「ガブリエルの魂、離して戴きます」
「……何っ!?」
(……えっ!?)
男爵だけでなく、驚愕したのはローズも同じであった。
(どう言うこと?)
ローズの心の内が聞こえた訳ではなかろうが、レイは男爵に向かって坦々と続ける。
「出来るなら、父たちの望み通り、ガブリエルをガブリエルのままで救いたかったのですが……」
一旦、言葉を区切り、強く閉じた目を再び開いた時。
「……貴様、その目は……!?」
男爵の叫びに、レイの顔を見たローズも驚きのあまり目を見張った。
「ここまでしたくはありませんでしたが……」
絶対零度の声音で最後通牒を突き付けたレイのその左の目。
それは、月の光を帯びた先程までの金色から、鮮やかな、そして妖しいまでの真紅、に変化していた。
「言ったはずでず。私が持っているのは左眼の力だけではない、と」
男爵の身体が俄に震えているのがわかる。
「私は神眼も受け継いでいるのですよ」
(……神眼……?)
『受け継いでいる』と言うニュアンスは、レイの説明通りなら、遺伝として受け継いだもの、であるはず。では『引き継いだ』力は?まだ、別の何かがあるのか━。そして、その力の目的は?
不安に押し潰されそうになりながらも、ローズは声を発することも出来ずに、ただただ、成り行きを見守るしかなかった。