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課長・片桐 廉〔8〕~予兆編

 
 
 
 社長・専務との同行も無事に終わり、週明け。

 またいつもの日常が始まる……と思いきや、おれは社長からの依頼で、突如、短期の出張に出ることになった。ほんの三泊の国内出張ではあるが、木曜日までは彼女の顔を見ることすら出来ないようだ。ま、仕事だから仕方ないが。

 今日は三日目、水曜日。夜、ホテルに戻り、ひとりになると、ふと思い出すのは━。

 先週、土・日の夜、専務に解放されたのは両日ともかなり遅い時間。本当にあの人は、いったい何が目的なのかわからないが、まあ、やたらと理由を付けては解放してくれない。

 日付が変わりそうな時間、おれは迷いながらも、決意した通り今井さんに連絡した。メールではなく電話を。

 「明日も休日だし許されるだろう」なんて理由をつけてみても、何のことはない、おれが少しでいいから彼女の声を聴きたかったと言うだけ。とは言え、本当に寝る前の挨拶程度、ではあるが。

 彼女の声はいつもの落ち着いた声で、一昨日の夜の様子は消えていた。少しは気持ちが落ち着いたのだろう。それはおれも同じだった。

 そのまま彼女の声を聴きながら眠りたい気分。その声に抱かれながら。無理なのはわかっているが、彼女の「おやすみなさい、課長」の声を頭の中でリフレインしながら目を瞑る。

 ……却って目が冴えた……。

 翌日、日曜日の夜、社長から出張を命じられたこと、木曜日まで戻れないこと、週末のことは木曜日に伝えること、を話した。

 彼女が穏やかに「そうですか。木曜日ですね。お気をつけて」と、気づかってくれただけで乗り切れそうな根拠のない自信。

 そして、明日にはようやく社に戻れる。『社に戻れる』と言うより、『彼女の顔が見れる』が本題なのだろう。今のおれにとっては。

 ほんの4日間を、こんなに長く感じたのは初めてだった。今までに長期の出張も、いや、海外赴任もあったのに。どんだけ心を奪られてんだ、おれ。

 一度、心のリミッターが外れてしまうと、後は坂道を転がるが如く、だった。恐れを感じながらも、自分ではもう止まることが出来ない。誰かに無理やりにでも止められない限りは。

 そして、今、タガが外れたおれを止められるのは、他ならぬ今井さんただひとり。彼女がおれを拒まない限り、もう、おれは止まれない。

 だが━。彼女に拒まれた時のダメージは想像出来ない。

 だからこそ、今、悩んでいる。社の……おれの過去をどこまで話すべきか。

 全く話さないのはあまりにフェアじゃない。かと言って、話し過ぎてしまえばいたずらに不安を煽るか……確実に拒まれるか、のどちらかだろう。

 恐らく近い将来、確実に訪れるであろう過去の亡霊たちの問題に、彼女を巻き込みたくはない。だが、彼女を手放したくもない。

 おれは、彼女を巻き込むことも、彼女に拒まれることも怖い。おれが彼女を手放すべきであることはわかっているのに。それが出来ないのであれば━。

 おれは、どこまでを彼女に明かすのか、を選ばなければならない。そして、その上で彼女から選ばれるしか。

 彼女とおれの選択が一致しない限り、二人の道が交わることはないのだから。

 木曜日。結局、その葛藤の結論は出ないまま、おれは出張を終えて帰社した。

 朽木から連絡が入っていたのもあり、本当なら真っ先に営業部に顔を出したい気持ちを抑え、社長と専務、そして矢島部長も含めて出張報告。おれの報告は、とりあえず社長たちを満足させるものになった。

 報告を終えたおれは、秘書室に戻る大橋と社長室を出た。廊下を歩きながら、大橋がおれの顔をチラチラと見ているのに気づく。

「……何だよ?さっきから。気持ち悪いな」

 おれが訊くと、大橋はおれの顔を凝視しながら首を傾げる。

「……片桐……何かあったか?」

「はぁ?」

「スッキリしていながら、大口契約詰め前、ここ一番、って時の顔をしてる」

 おれの素っ頓狂な声に、大橋は真顔を崩さずに答えた。いや、まあ、大橋とは入社以来10年以上のつき合いになるけど、砕けた顔なんか見たことないが。

「言ってる意味がよくわからん」

 おれの返事に、大橋は唇に微かな笑みを浮かべて意味ありげに頷いた。感じ悪っ!

「そう言えば、片桐。きみ、ずっと勘違いしてるみたいだけど……」

「あ?」

「ぼく、結婚してるからね」

「……………………!?!?!?」

 なにぃぃぃぃぃーーーーーっ!?

 聞いてないぞ、おいっ!

 目を白黒させるおれを見て、大橋はドヤ顔になる。

「……い、いつ……」

「もう、4年くらいは経つかな」

 なんだとぉぉぉぉぉーーーーーっ!?

「本当はきみには出席して欲しかったんだけどね……そうすると、専務も皆呼ばなくちゃならないから、身内だけ、ってことで済ませたんだ」

「……何で黙って……」

 ……ってか、どんだけ警戒されてるんだ、専務は。口をパクパクさせるおれに大橋はフッと笑い、「一応、言ったけどね」とひと言。

「聞いてないぞ……!」

 聞いていれば、いくらおれだって祝いくらい出すぞ!

「引っ越して新しい生活が始まった、って、言ったよな?年賀状も出したはずだが?」

「!!!!!」

 あんな報告あるかっ!しかも、年賀状なんてロクに見てないおれに!

 唖然とするおれを楽しそうに横目で見ながら、大橋はスタスタと歩いて行ってしまった。何だよ、それ!おれは大橋の後ろ姿を見ながら立ち尽くす。

 妙な敗北感に苛まれながら、おれはやっと久しぶりの営業部に入室した。当たり前のように今井さんに目を吸い寄せられ、気づいた彼女が小さく会釈してくれる。それだけで気分が晴れる己れが情けないが。おれも目で合図をし、米州部のシマに向かった。

「片桐課長、おかえりなさい。出張、お疲れさまでした」

「サンキュ。朽木から連絡があったこと以外、特に問題はないか?」

 米州部ではおれに次ぐベテランの根本くんに尋ねる。

「はい。三杉くんからも順調に進んでいると、今朝方も連絡が入りました」

「そうか。ありがとう。……ところで、肝心の朽木は?」

 辺りを見回すが朽木の姿が見当たらない。

「あ~……たぶん昼メシを食いに……」

「今ごろかっ!?」

「昼までに課長が戻られると思って待ってたみたいで……」

 先に社長たちに報告するって連絡しといただろうがっ!心の中で叫ぶが、まあ、仕方がない。……と思っていると、戻って来たらしい朽木が、何故かこちらではなく、今井さんのところにスタスタと歩いて行く。

(おいっ!)

 イラっとしながら見ていると、何やら今井さんと楽しそうに話している。……面白くねぇっ!わかっている。これは嫉妬9割だ。

 睨むようにじっと見ているおれに気づいた今井さんが、朽木にこっちを促している。振り返っておれと目が合った朽木がギョッとしたように目を見開き、今井さんにペコペコしながらこちらに走って来た。

「片桐課長、おかえりなさい!お疲れさまでした!」

 おれの顔を伺うように愛想笑いをしているが、こいつ絶対、本当は悪いと思っていないに違いない。

「……ん。ところで、何があった?」

 自分の嫉妬心を自覚していただけに、何とか抑えて連絡のあった件について問う。

「あ、はい。それが、何か……ちょっと気になる電話があって……」

 話題が本題に向かったことで、胸を撫で下ろしたように朽木が答えた。

「気になる電話?」

「はい。課長宛だったんですけど、名前も名乗らなかったので。出張中だと答えたら『じゃあ結構です』と切ってしまいました」

「番号表示でどこからだったかわかるか?それと性別は?」

 朽木は少し考え、

「番号の表示はなかったんですけど、何となく……国外からだったように思います。日本語でしたが。それと、相手は女性でした」

 その返事に、おれも何となく気になるものを感じる。

「……国外から……女……」

「課長の昔の女性だったりとか……いてっ!」

 余計な、しかも誤解を招くような想像をする朽木に一発カマし、だが、確かに気になる。何となくイヤな予感はするが。

「もしも、今度、電話があったら優先的に回してくれ」

「わかりました」

 まさか、とは思うが、用心するに超したことはない。念のため、おれは矢島部長と大橋にも報告しておくことにした。

 出張中に溜まったあれこれを片づけていたが、当たり前のように、結局、全てを終わらせることは出来ずに夜。帰宅すると日付を越えそうな勢いだったので、その前に今井さんに明日の連絡だけ入れた。近くの店で食事をしよう、と。

「課長。R&Sが動きを見せてますね」

 今井さんへの連絡を終え、休憩室から戻ると朽木がパソコンを見ながら言う。『R&S』……日本の某メーカーみたいな名前だが、少し前に社名変更をしてから伸し上がって来ている企業だった。例に洩れず、責任者の名前の頭文字であるらしいが、RはともかくSが謎に包まれている。

「……ふ~ん?……ちょくちょくチェックしといてくれ。社名変更してからのあそこは、何だか気になる」

「はい」

「よし。朽木、今日はもう帰るぞ。後は明日にしよう」

「ふわぁ~い」

 半分、アクビをしながら朽木が返事をした。根本くんに言わせると、おれが不在の間、かなり頑張っていたらしい。確かに新人にしては使える男だ。英語も堪能だし、頭の回転も早い。……かわいくはないが。

 朽木とわかれて帰宅する。本当に、帰宅してもシャワーを浴びて寝るだけの部屋。休日もほとんど仕事をするだけで、事務所と何ら変わらない感じだ。この生活を、あと何年、続けられるのか。漠然とした不安がない訳ではない。

 ━と、ベッドに倒れ込んだタイミングで着信。

(誰だ?)

 確認すると、何故か今井さん。そう言えば、さっき連絡した時には返事がなかったから、恐らくそのことに違いない。それにしても、今ごろか、と思いながら確認する。

『おかえりなさい。おつかれさまでした。明日の件、楽しみにしています。おやすみなさい、課長』

 見事に用件だけ、なのだが、このタイミングを見計らったかのように送ってくれた返事の内容に顔が緩む。

『ありがとう。おれも楽しみにしてる。おやすみ』

 おれもそれだけを返し、何となく疲れが飛んだ気分を抱きながら眠りに落ちた。
 
 
 
 
 
~課長・片桐 廉〔9〕へ続く~
 
 
 
 
 
 
 

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