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夢待人〔承編〕

 
 
 
 扉に背を預けて座り込んだイメミは、しばらく動けずにいた。

 ふと、胸に抱えていた本の存在を思い出すと、今しがた見た光景が脳裏に甦って来る。

 『今』が現実味を帯びるのを感じながら、表紙に目を落とし、そっと指先でなでた。

 *

 書庫の奥に、桐吾(とうご)は確かにいた。

 出窓に腰かけ、脚の上に開いた分厚い本の世界に、まるで己を漂わせているかのような桐吾が。

 逆光で縁取られた影は窓側の片膝を立てており、そこに肘をついてかき上げた髪ごと頭部を支えている。

『目を奪われる』

 その表現が一番心境に近く、そして正しい。つまるところ、イメミは、ただ、見惚れていた。桐吾のその姿に。

 光を受け、逆光に浮かんで見える横顔は透けるようで、本を見下ろす感情の読めない目は水晶のようだった。肩にかけた羽織で半ば隠れてはいるが、一見、だらしなく見える着崩れた着物さえ、まるで一枚の絵画のように調和している。

 息もつけず、ただ見つめるイメミの中に生じた感覚は、生まれて初めて知るものだった。

 圧倒される数刻の後、まるで時が止まったかのような静寂の空間に、コン、と小さな音が響く。

 音と振動で、イメミはハッと我に返った。

(あっ……!)

 知らぬ間に後ずさった自分の踵が、本棚に当たってしまったことに気づくも、時すでに遅し。桐吾がゆっくりと顔を上げ、イメミの方に視線を向けた。

「あれ? イメミちゃん? どうしたの?」

「あ、あの……」

 桐吾を捜しに来た、と言えば良いだけなのに、盗み見していたような罪悪感で言葉が出て来ない。

「ん? 何か用だった?」

 桐吾の方は殊更気にしている風でもないが、それがなおさらイメミを萎縮させた。下を向き、行き場を求めて握り合う指が落ち着かない。

「お、お部屋にいらっしゃらなかったですし、なかなかお戻りにならないので……室井さんにお訊きしたら、こちらだろう、と……」

 やっと言葉が出て来ても、訊かれたことに全く答えていなかった。まさか、別世界に迷い込んだような光景に目を奪われていた、などと言える訳もない。

「あの……お邪魔して申し訳ありませんでした」

 強制的に話を終わらせ、そそくさと立ち去ろうとした時、バサバサと本が床に落ちる音が響いた。直後、不意に腕を掴まれ、驚いて振り返る。

 間近に桐吾の顔があった。どこか不安気な、それでいて何か言いたげな目が、真っ直ぐ自分に向けられている。

「あの……」

 こんな状況であるにも関わらず、イメミは今さら変なことに気づいた。改めて間近で見上げると、桐吾は線の細さとは裏腹に、思いの外、背が高かったのだ、と。

 だが、掴まれた腕に力の強さを感じ、すぐにイメミは逃げ腰になった。腕を引こうとする力と、掴んだ手の力が拮抗する。

 さすがに驚かせたと気づいたのか、苦笑いした桐吾が小さく溜め息をついた。名残惜しげに手を離すと、そむけた横顔が翳る。

「ごめん。何か言いたそうに見えたから……」

「…………!」

 桐吾の言動の数々が胸の内を過った。

(何故、この人は、何も考えてないような顔をして、こんなにも私の心を読んでるんだろう)

 人懐こそうなフリをしながらも、どこかその踏み込みは甘く、何も見てなさそうでいて、ひどく奥底まで覗き込んで来る。

「いえ……本当に特に用事と言う訳では……あ、あの……お部屋を少し片づけさせて戴きました。それだけです。お邪魔して申し訳ありませんでした」

 顔を逸らしていた桐吾が視線を戻すと、今度はイメミが下を向く。何も返って来ない間(ま)に押し潰されそうになった時、思い出したように桐吾が近くの棚から一冊の本を取り出した。じっと見つめ、表紙を軽くひとなでする。

「これ……」

 目の前に差し出された本に、イメミは息が止まりそうなほど驚いた。両手で受け止め、瞬きも忘れて凝視する。タイトルを。そして、著者の名を。

「ぼくの好きな本……あげるよ。たぶん、もう、他では手に入らないから。他にも読みたい本があれば、好きなだけ読んでいいよ」

 本から手を離した桐吾の顔を見上げる。

「……どうして……」

「ん?」

 問いかけようとしたイメミに、逆に問いかけるように桐吾が首を傾げた。

『どこまで知っているんですか?』

 けれど、やはりそれを声にすることは叶わない。

「いえ……ありがとうございます」

 イメミが一礼すると、ほっとしたように小さく笑い、桐吾は元居た窓辺に踵を返した。落とした本を拾い、先程と同じ姿勢で紙面に目を落とす。

 その姿を、再び惚けたように眺めていたイメミは、ただ紙面に落としていただけの桐吾の目が、ある瞬間、変わったのを見て取った。それは、意識が完全に本の世界に同化した瞬間なのだと気づき、音を立てないよう静かに書庫を後にした。

 ぼんやりと廊下を歩き、部屋に戻ったことは朧気ながら記憶としてある。だが、今度は現実感がなくなり、どうにも夢の中の出来事のように思えて仕方ない。

(……同じ目を見たことがある)

 あれほどに夢のような光景ではなくとも、本の世界に身を委ねる桐吾の目に似た光を、かつてイメミは見たことがあった。

 もう一度、膝の上に置かれた本のタイトルに目を落とす。

『夢導きし──夢見し者よ』

 タイトルの下に書かれた著者の名に、イメミはそっと指で触れた。

 それからしばらく経つと、何か他の用事でもない限り『桐吾は書庫にいる』とイメミにもわかって来た。つまり、特に世話することなどないのだ。

 だが、だから書庫も自由に使っていい、居間にあるピアノも勝手に使っていい、と言われても、却って困惑してしまう。

 高待遇のゆるい職務は、イメミに妙な罪悪感を覚えさせた。何より、少しずつ内部事情がわかるにつれて気詰まりも増えて行く。つまり、互いが互いを気にしながらも、直接的に干渉はしないと言う空気が息苦しいのである。

 また健吾(けんご)も、桐吾の気配がない時に限り、イメミに気さくに話しかけて来るのだが、一見、紳士的に見えるそこにも、実のところ複雑な感情が見え隠れしていた。それは間違いなく桐吾を意識してのことで、敢えてイメミに情報を提供しているようにも感じられる。

「じゃあ、桐吾さまが書庫に入り浸りなのは……」

「一応は仕事のためと言えるかな。あいつは書評を書いたり、翻訳的なこともやってるらしいから」

 仕事もせずにゴロゴロしてる、などと評してしまったことをイメミは反省した。そう見えても仕方ない原因があっても、訊ねもせずに勝手に決めつけていたことに変わりはない。

「……健吾さまは旦那様のお仕事を継がれるんですか?」

 ふと浮かんだ疑問。一瞬、自嘲的な表情を浮かべた健吾を見、訊いてはならないことだったかと身構える。

「そうでもなければ、ぼくにはここにいる理由がなくなってしまうからね……桐吾と違って」

 坦々と言う健吾とは裏腹に、イメミの方が言葉を失った。二人の関係性には、思った以上に深い溝があるのだと。

「ごめん。つまらないことを言った。ちょっと出かけて来るから」

 苦笑いを残し、健吾は絶句するイメミを残して立ち去った。健吾の言ったことが本当ではないにしろ、どうにも墓穴ばかり掘っている気分に溜め息が洩れる。

 イメミは何とか気持ちを切り替えるべく、掃除でもしようと桐吾の部屋に向かった。

(あれ? めずらしい……この時間に部屋にいらっしゃるなんて)

 珍しいことに、桐吾が部屋にいたのである。仕方なく掃除を諦め、退出しようとした所に声がかかった。

「何かあったの?」

「え?」

 桐吾が振り返ったイメミの目を見つめる。

「死んだ魚みたいな目になってる」

 『死んだ魚の目』とはあまりに例えが悪いが、怒る気にはなれなかった。むしろ、やはり桐吾には隠せないのか、それとも、自分はそんなにわかりやすく顔に表しているのか──が先に立つ。

「……桐吾さまは……旦那様のお仕事を継がれるおつもりはないのですか?」

 それもあり、さっきの墓穴で反省したのも束の間、また口が滑って余計なことを訊ねてしまった。

「ん?」

 しまった、と思うも、時すでに遅し。幸い、桐吾が不快を表すことはなく、いつものようにキョトンとし、すぐにヘラッとした笑顔に戻る。

「それは兄さんがいるから心配ないし」

「それは……健吾さまのためにご自身は身を引かれる、と言うことですか?」

 イメミには、桐吾が健吾の立場を慮っているようにしか聞こえなかった。同時に、桐吾が本心からそう言っていたとして、二人の関係性を考えれば別の懸念も湧く。つまり、健吾にしてみれば、素直に受け入れられるものではないのでは、と言うことである。

「そうじゃないよ」

 イメミの心配を余所に、桐吾はあっさり否定した。

「どう考えても、兄さんの方が適任だ。そもそも、ぼくには無理だからね」

 話題自体を終わらせたいのか、笑って言い切る桐吾の言葉がどこか誤魔化しているようにも聞こえてしまう。

「どうして旦那様も桐吾さまたちも、そんなにお互いに触れることを怖がるんですか? それは……ご事情を理解出来なくはないです。でも、お互いを想い合っていないようにも見えません。なのに……」

 その言葉に、桐吾はまたもや目を見開いて小さく吹き出した。

「別に負い目とか、身を引くとか、そんなことじゃないよ。どうしてもそんな風に考えちゃうんだ、イメミちゃんは。……ま、そう言うとこが可愛いんだけど」

 ゆるく言い放つ桐吾の言葉に、イメミは少なからずムッとした。

「そう言う風に誤魔化さないでください! 私は本当に、旦那様がお二人に対して同じくらいの愛情をお持ちだと思ってますから!」

 肩をいからせるイメミに、桐吾が妙に穏やかな笑みを見せる。

「そうだね。父は……ぼくたちを二人とも大切に思ってくれてる。でも、だからこそ、特に兄さんに対する負い目から逃れられないんだ」

 イメミの脳内は瞬時に沈静化し、桐吾は僅かに下を向いた。

「健吾さまに対する負い目……って……」

 床に落とした桐吾の目線には、どこか諦めのような色が見え隠れしており、それがイメミに理由のわからない不安を抱かせる。

「よくある話。ぼくの母の実家がね……父と母を結婚させるために、父と兄さんの母親との仲を裂いたんだよ」

 イメミは息を飲んだ。室井から聞いた時に薄々感じてはいたが、それはあくまで想像でしかなく、現実として提示されるのとは次元が違う。

「父と別れた後で兄さんを身ごもってることに気づいたけど、彼女は父にも知らせず一人で育てていたんだ。父が兄さんの存在を知ったのは彼女が亡くなった時で……それでこの家に来たんだよ、兄さんは……」

 この説明で全てに合点がいった。菅江家にとって正当な後継ぎは桐吾であり、故に弟である彼が『若様』と呼ばれているのだと言うことに。そして何より桐吾に対して、健吾があれほどに複雑な感情を剥き出しにすることにも。

「あの……桐吾さまのお母様は……」

「母は兄さんの母親よりもっと前からいなかった」

 確信に近い予想はついていた。そうでもなければ、ここに来て数ヶ月、一度も女主の影を感じないなどありえない。だからこそ、イメミの性格上、訊かずにはいられなかったのではあるが。

「そんな顔しないで。別に特に仲違いしてる訳じゃなし、いい歳の男兄弟なんてこれくらいの関係性で十分でしょ」

 ヘラッとした笑顔に戻り、桐吾がさらりと言った。それでいいと、本心から桐吾が考えているとは思えなかったが、イメミにはもう何も言えず、ただ、うつむくしかなかった。

「ほらほら。そんな顔してたら、ホントに名前が泣くよ?」

「え?」

 何のことを言われたのかは理解出来なかった。だが、同時に『もしかして』と言う思いと、『まさか』と言う思いが交互に胸の内を過って行く。

「さて、と。仕事の邪魔しちゃったね。ぼくは書庫に行ってるから」

 立ち尽くしているイメミの髪をふわりとなで、桐吾は風のように横を通り過ぎた。

 菅江が息子二人に愛情を持っている、とイメミが感じたのは決して勘だけではない。桐吾と健吾、二人から良い知らせを受けた時には、菅江は嬉しそうな様子を見せている。ただ、その表現方法はあまりに地味で、わかりにくいことも間違いない。

(少し言葉にすれば通じると思うのにな……)

 切ない気持ちを払えないまま、イメミは桐吾の部屋の掃除を始めた。

 桐吾の言葉を反芻しながら。

 細々と仕事を片付けると、既に夕食の時間が近い。書庫に桐吾を呼びに行こうとし、外出先から帰宅した健吾と遭遇してしまった。

「お帰りなさいませ、健吾さま」

「ただいま。……桐吾を呼びに行くの?」

「はい」

「いい歳した男の食事の時間まで管理してやらなきゃならないなんて……きみも大変だね」

 桐吾付きである以上、イメミの行動が桐吾に関係するのは止むを得ない。だが、健吾は本当に桐吾が絡むことにだけは必要以上に敏感であった。

「あ、あの……」

 イメミの呼びかけに健吾が振り返る。

「何?」

「今朝、仰っていたことですけど……」

「今朝?」

 健吾は身体ごと向き直った。

「……ああ、父の仕事を継ぐ継がないの話?」

 思い出したくなかったのか、居心地悪そうな表情を浮かべる。

「健吾さまは、旦那様のお仕事を継がなければ、この家にいる理由がなくなる、と仰いましたが、そうは思えません。もちろん、健吾さまが継がれることを旦那様はお喜びでしょう。でも、もし、健吾さまが他に何かやりたいことがある、と仰ったなら、それもまた喜んで応援してくださると、私は思います。旦那様はそう言う方だと……」

 健吾が馬鹿にしたように小さな笑いを洩らし、それを目の当たりにしたイメミの言葉は尻すぼみで途切れた。

「きみは本当に幸せに育ったんだね」

 言葉に詰まる。

「確かに、父は天涯孤独になったぼくを見捨てたりはしなかった。母に対する負い目があるんだろうけど、何不自由ない生活を保証してくれたし、特に桐吾と分け隔てもしなかった。まあ、幸運な境遇と言えるんだろう」

「なら……」

「それでも!」

 健吾の表情が険しくなり、語気が強まる。

「父の感じているその負い目こそが、そこかしこに現れる腫れ物に触るような態度が、却ってぼくを刺激するんだ……!」

 言い放ち、健吾は立ちすくんでいるイメミににじり寄った。無意識の内に後ずさり、壁際に追いつめられた形になる。

「何で、って顔してるね。桐吾の母親と政略結婚するために、ぼくの母と父は別れざるを得なかった……とか聞いてるんだろう?」

 答えられなかった。だが、答えなくても、健吾にはわかっているだろうことが確信出来る。

「周囲の思惑で引き裂かれた可哀想な女、父親にその存在すら知られることのなかった可哀想な息子……憐れみも腹立たしいが、それだけならまだマシだった……!」

「え?」

 桐吾からはそう聞いていた。つい数時間前のことだ。

「父は、母と結婚するために、桐吾の母親との話を断るつもりで顔合わせの席に赴いた。けれど、土壇場で気が変わった……心変わりしたんだ」

「心変わりって……一体……」

 健吾の目に、ひどく禍々しい光が過る。

「お笑い草だよ。父は小原花乃(おばらかの)……桐吾の母親に会った瞬間、心を奪われた。早い話が一目惚れってやつ。結果、ぼくの母と別れる方を選んだ。つまり、母は父との中を引き裂かれたんじゃない。父に裏切られ、捨てられたんだ」

「…………!」

 息を詰めているイメミに、健吾は苦しげな笑みを向けた。どうしようもないと頭ではわかっていて、それでも受け入れたくない感情が見え隠れしている。

「まあ、想像はつくだろう? 桐吾の顔を見れば、あいつの母親の顔も……父が心を奪われたとしても……」

 健吾の言葉はそこで途切れたが、言いたいことはイメミにもわかった。

 確かに、桐吾は整った顔立ちをしている。父親である菅江の面影は薄く、恐らくは母親似であることも想像出来た。だが、健吾とて容姿的に劣る訳ではない。タイプは違えど、菅江に似て男っぽい、十分に整った面立ちである。

 もちろん、健吾にとって重要なのはそこではないのだと、イメミにもわかっている。桐吾と自分の顔立ち云々の話ではないと言うことは、十分に。

 そのことによって母が裏切られたと言う事実、そして本来なら一身に浴びていたはずの愛情を、突然、現れた桐吾の母に奪われたのだと言う事実が、彼を苦しめているのだ、と。

 イメミには、菅江が桐吾の母の姿形に惹かれ、健吾の母を捨てたとは思えなかったが、そこに横たわる事情があったとして、当事者以外にわかるはずもない。

「旦那様は、健吾さまのことも、桐吾さまのことも、大切に想っていらっしゃいます」

 普段は全く見せない威圧的な目で見下ろして来る健吾に、イメミは頑として譲らなかった。大の男に詰め寄られ、恐れがないはずはない。それでも言い切るイメミに、健吾は思いもかけないことを訊ねた。

「……きみは桐吾のことが好きなのか?」

「え?」

 質問の意味を理解出来ず、困惑したその時である。

「イメミちゃーん」

 廊下の向こうで桐吾のゆるい声が響いた。健吾がハッとして息を飲み、イメミの意識も一気にそちらに向く。

「イメミちゃーん。ごめーん、ボタン取れちゃったー」

 声のする方を見て硬直していた健吾が、イメミにかけていた空間的な圧力を緩めた。そのお陰で、イメミの身体の緊張も一気に解ける。

「は、はーい、今、行きます!」

 身体の緊張と共に自然に返事も出、健吾の脇をすり抜けて桐吾が呼ぶ方に駆け出した。

「ごめーん。これ、棚のささくれに引っかけちゃった」

 相変わらずヘラッと笑いながら、桐吾が袖口のボタンを差し出す。

「すぐに付けちゃいますね。直にお食事の時間ですから急ぎましょう」

 手早く針と糸を操りながら、イメミはふと、書庫に行く前の桐吾はこのシャツを着ていただろうか、と記憶を手繰った。ハッキリと記憶している訳ではない。けれど、確証もない。

(……まさか……聞かれていた……?)

 手が止まったイメミを、桐吾が不思議そうに覗き込む。

「どうかした?」

「あ、い、いえ……もう出来ます」

 慌てて仕上げて渡す。

(……まさか、ね……)

 桐吾の背中を盗み見、イメミは自分の想像でしかないものを閉じ込めた。

 食堂では菅江と健吾が既に待っており、イメミは慌てて席に着く。

「濱坂さん。その後、どうです。桐吾は何か無理を言って困らせたりしていませんか」

「えっ……!? ……いえ、そんな……」

 いきなり菅江に訊ねられ、イメミはスプーンを落としそうになった。

「何かあったら、きっちりと言ってやってください」

「父さん。小さい子どもの素行を確認するようなことやめてくださいよ」

 変わらぬゆるい口調で言う桐吾に、菅江が笑ったような困ったような不思議な表情を浮かべる。

「お前のことだから、子どもより性質が悪い可能性を考慮しているんだ。濱坂さんを困らせるんじゃないぞ」

「はいはい」

「本当にわかっているんだか……」

 溜め息混じりの菅江の言葉に、桐吾は笑っているだけであったが、イメミは健吾のことが気になって仕方がなかった。こう言ったやり取りの全てが、健吾にとってはいちいち胸に刺さるトゲになるのだろうと。もちろん、健吾は眉ひとつ動かさず、完全に無視した状態で食事を続けてはいたが。

「ところで濱坂さん。初めてお会いした時にもお訊きしましたが、復学する気持ちはありますか?」

「……えっ……」

 突然の申し出に困惑し、食事の手が止まる。

「元の学校でもいいですが、貴女にその気があるのなら、小原学院を紹介しても良いと考えています」

「…………!」

 名のある学院であった。以前通っていた『名門』と呼ばれる女学校よりも、更に格が上であることは間違いない。

「身上書による貴女の成績なら、奨学生としての編入も申し分ないそうです。如何かな?」

 話を進める菅江とは裏腹に、イメミは完全に困惑していた。

「あ、あの……」

 何故、そこまで言ってくれるのか、それすら問う言葉が出て来ない。すぐに察した菅江が小さく頷いた。

「突然、即答など求めて申し訳ない。しかし、ぜひ、前向きに検討してみて欲しい」

 理由はともかく、菅江が本心から申し出てくれていることがわかるなら、感謝の気持ちだけは、今、伝えるべきだ、とイメミは思った。

「はい……ありがとうございます」

 だが、その間、桐吾も健吾もひと言として発することはなかった。

 食事を終え、桐吾の部屋に行くまでの間、イメミの脳裏を占めていたのは菅江の申し出のことであった。

 何故、菅江が復学のことを言い出したのか。

 イメミには、菅江家を辞した後のことまで心配してくれているとしか考えられなかった。だが、一使用人の将来のことまで保証しようとしてくれる理由は思い当たらない。

(この家を出た後……)

 それは当たり前のことであるのに、ひどく現実的ではないものに感じられた。むろん、一生、この仕事を続ける、続けられる、などと考えてはいない。

 桐吾だとて、いつかは子守唄など必要なくなるだろうし、何より、彼が結婚して奥方を迎えることにでもなれば、当然、役目を辞することになるだろう。

「私は……どうしたい……?」

 自問自答の答えは出ぬまま、イメミは考えることを保留にした。いつも通り、桐吾の部屋へ向かう。

「……? 桐吾さま? もうお休みですか?」

 灯りは小さく点っているが、ゆるい声は聞こえて来ない。眠っていることを考慮して静かに近づくと、布団から出した手をヒラヒラさせている。

『おまかせ』

 その意思表示であると、イメミは学習していた。どことなく違和感を覚えたが、本人からの希望である以上、とにかく歌い始める。

(……もう、おやすみになったのかしら?)

 桐吾の寝息が変わったことに気づき、締めに入ることにした。おまかせであれ、とにかく最後は必ず『夢導きし』で終えるよう言われていたからである。

 何故、そんなにもこの歌に思い入れがあるのか、ずっと気にはなっていた。訊ねる機会などいくらでもある。あるはずなのに、何故か未だに訊けずにいた。

(いつも訊きにくいこと平気で訊いちゃうのにな……)

 そんな自分に笑ってしまう。本来なら、逆鱗に触れて追い出されてもおかしくない、と。

 やがて、イメミは『夢導きし』を歌い終えた。桐吾から延長の合図はなく、眠っていることを確認してそっと枕元を離れる。

「…………」

 ふと、何かを感じ、イメミはベッドを振り返った。普段、ほとんど動きのない布団が小刻みに上下している。

「桐吾さま?」

 呼びかけても返事はない。

「桐吾さま?」

 布団に手をかけて覗き込む。

「…………!」

 驚きは声にならなかった。

 ベッドの中で、桐吾は自分を抱きしめるように身体を丸め、苦しげな呼吸を小刻みに繰り返している。

「桐吾さま! 桐吾さま!」

 呼びかけ、背中をさする。

「お苦しいのですか!? しっかりなさってください! 今……今、お医者様を呼んで……!」

 離れようとしたイメミの手を、冷たい、けれど大きな手がつかんだ。

「…………!」

 強く瞑った目、苦しそうな息、だが握る力だけは驚くほど強い。

「……いい……」

「……え……」

 言われた意味をつかみかね、困惑する。

「……大丈夫……」

 どうするべきか迷うイメミを、消え入りそうな声がはっきりと制止した。とは言え、血の気が引き、苦しそうな様子を見て「はい、そうですか」と言えるものではない。

「で、でも……」

「……いい……本当に大丈夫だから……」

 肩で息をしながら起き上がろうとする桐吾に、イメミは抱えるように肩を貸した。

「……どうしようもないんだ……先生に来てもらっても……抑える方法はないから……」

 それは、この状態は初めてのことではなく、家人は皆知っているのだ、と言うことを示している。

「どこがお悪いんですか……」

 呼吸が少し落ち着いて来たのか、桐吾は苦しそうな中に小さく笑みを浮かべた。

「……血液を造る力が生まれつき弱いらしい。そのせいで慢性的な貧血だから、いつも酸欠状態なんだってさ。激しい運動を避けておとなしくしてさえいれば、それほど支障はないんだ。たまに、こうして苦しくなることはあるけど、過ぎてしまえば元通り、って程度」

 何でもないことのように桐吾は言った。だが、その声すらも所々途切れ、まだ呼吸が完全には元に戻ってはいないことがわかる。

「ほらほら、そんな顔しないの。本当に名前が泣いちゃうよ」

「え……?」

 肩を貸すイメミの顔を見上げ、桐吾はやわらかく微笑んだ。

「せっかくお父さんが付けてくれた大事な名前でしょ」

 息を飲む。言われたことを、脳が何度も反芻する。

「……何故、それを……」

 少しづつ赤味の戻る桐吾の顔を、イメミはただ見つめ返した。
 
 
 
 
 
~つづく~
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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