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かりやど〔伍拾壱〕

 
 
 
『 も う も ど れ な い 』
 
 

 
 
代わりはない
代わることは出来ない
 
 

 
 

 黒沼代議士を失脚させるべく、美鳥はありとあらゆる場所に網を張らせた。
 
 講演、集い、会食──。
 恐れられ、媚びられ、おだてられ、やりたい放題、傍若無人に生きて来たのは間違いないようで、周りにはいわゆるイエスマンしかいない。その中にあって、副島だけが、やや異色の存在と言えるらしい。
「……まずは、取り巻きとの集い……副島がいない時を狙って」
 伊丹に目で指示しながら口角を上げた。
「連絡のタイミングはどう致しますか?」
「驚いて逃げ帰ったとこで繋いで……私が直接話す」
「わかりました」
 頷いた伊丹は、即座に行動に移った。
「……本多さんには……」
「……倉田氏の件ですね。引き続き調べます」
 さすがに本多の反応は早かった。美鳥は満足そうに笑って付け足す。
「それから、副島からも目を離さないで」
「わかりました」
 本多も姿を消し、ふたりになった朗は美鳥の横顔を見つめた。
「……まだ倉田さんの事も調べてるのかい?」
「……うん。……どうも気になるんだ……」
 美鳥がそんなに気になるのなら、何かがあるのかも知れない、と朗は思う。しかし、自分が直接関わった肌感覚としては、倉田は敵ではない、とも思うのだ。
「……『倉田さん』を敵とは思ってないよ」
 朗の心の中を読んだかのように言う。
「……だからと言って、味方、とも言い切れない……」
 確かにその通りであった。敵意や悪意はなくとも『妨げになるもの』は存在する。それは得てして、己の意思とは関係なく。
「……うん。……ところで、副島の動きも気になるのかい?」
 書類を置き、美鳥は宙を睨んだ。
「……ん……気になる、って言うのか……副島と黒沼の本当の関係性、が見えるかも知れない、って思ってる……もしかしたらだけど……」
「本当の関係性?」
「うん。そもそも、副島は黒沼の傘下だ、って前提で考えてたけど、もしかしたら違うかも、と思ってみたりして……さっき言ったみたいに、敵ではない、でも味方でもない、じゃないけど。黒沼に何かあった時に、副島がどう言う反応をするのか……見てみたい……」
「……場合によっては『獅子身中の虫』である可能性もある訳か……」
 美鳥が頷く。
「だからと言って、副島への対応をどうこう変えるつもりはないけど……動き方は変える必要があるかも知れない……」
 副島との直接のやり取りで、何か感じるところがあったのかも知れない──朗はそう推測した。まして本当の美薗の件は、副島にとって相当の衝撃だったらしい様子も聞いている。
 その時、扉を叩く音がし、夏川が顔を覗かせた。
「美鳥さま。今、少し宜しいですか?」
「大丈夫だよ。なぁに?」
「次回の検査の事で……少し検査室の方でご説明したい事があるのですが……」
 朗に遠慮しながら告げる。
「……ん……わかった。ちょっと行って来るね、朗」
「……ああ」
 
 ふたりが出て行き、しばらくぼんやりした朗はパソコンを開いた。松宮とは関係のない、個人的な仕事を終わらせてしまうために。
 画面に目を走らせながら、ふと思い起こして写真を保存しているファイルを開く。そこには三人で過ごした輝く夏。眩しい世界に弾ける笑顔が溢れていた。
「……やっぱり、昇吾とぼくは顔は似てるな……だけど笑い方が全然違う……」
 自分で呟いて、無意識に浮かぶ笑み。そして苦笑いまでが込み上げて来る。
「……そうか……ぼくの笑い方は中途半端なんだな……昇吾や美鳥のように満面の笑み、って感じがない。……性格はこう言うところに出るものなのか……」
 昇吾の笑顔に鼻の奥が疼く。もう二度と、会えない笑顔に。
 同じ年に、二ヶ月違いで産まれた従弟。兄弟同然であり、何よりも誰よりも共にいたい親友であり、ライバルでもあり。
 昇吾が自分にとって、どれほど大切な存在であったのかを改めて思い知らされ、今更ながら気持ちが沈み込みそうだった。
「……昇吾……」
 呼んでも返事はない。
「……昇吾……」
 朗は目を手で覆い、ひとり天井を仰いだ。
「……まいった……思った以上のダメージだ……」
 止まらない鼻の奥の疼きを、声に出す事で何とか堪える。
「……お前がいなくなってしまった今……ぼくはお前以外にもうひとつ、大切なものを失ってしまった……」
 目を覆う手が小さく震えた。
「……もう二度と、ぼくは美鳥のこの笑顔を見る事は出来ないんだろう……」
 画面の中、昇吾と共に写っているのは、輝く笑顔の美しい小鳥。いつか再び逢える機会はないだろう。この笑顔は永久に失われたのだ。昇吾の命と共に。
「……昇吾……」
 目を覆ったまま、朗は昇吾の名をもう一度呼んだ。
「……美鳥の心を……少しでも和らげてやってくれ……」

 祈りの言葉を唱え、パソコンの画面を閉じた。
 

 
 検査室で夏川と向き合った美鳥は、説明どころか目を合わせようともせず、下向き加減な様子に自分から切り出した。
「……わざわざ朗のいないとこで、って事は……なんかある、って事だよね?」
「……美鳥さま……」
 単刀直入な美鳥に、夏川は一瞬言葉に詰まる。勘のいい美鳥の事、何かを感じ取っているであろう事は、予測の範疇ではあったが。
「……先生は……」
「……はい……」
 目線を下げたまま、美鳥は一旦言葉をとめた。
「……どれくらいだと思うの……?」
「……は……?」
 訊き返す夏川と視線を合わせる。
「……あと、どれくらい私が……私の身体が保つ(もつ)と思ってる……?」
「………………!」
 夏川が息を飲んで硬直した。
「……わかるよ……自分の身体の事くらい……」
 夏川の目には、美鳥は『あの時』と同じように、怖いくらい冷静に映った。知らない人間なら、まるで他人事でもあるかのように見えるほど。
「……み……美鳥さま……」
 動揺する夏川に、美鳥は穏やかに笑いかけた。
「……あの時も言ったけど……言って……はっきり……私、大丈夫だから」
 腿の上で握りしめた拳。それを震わせる夏川の様子に、美鳥はただ黙って答えを待った。心を落ち着かせるまで。
「……私にも……はっきりとは言い切れません……」
 俯き、ようやく出したような掠れ声。
「……もう少し保ちそう?……先生の目測でいいよ」
 夏川は唇を噛み締めた。
「……この数ヶ月程度でいきなりどうこうなるような事はないと思います。……ただ、少しずつ、確実に、下降線を辿って行くかと……」
 無念さを隠し切れない声。
「……なら、間に合いそうだね。何とかカタはつけられるかな……それで充分だよ」
「私は!」
 淡々と言い放つ美鳥に、思わず夏川が声を張り上げ、
「……決して!諦めるつもりはありません!最後の最後まで!可能性を追求するつもりです!」
 泣きそうな、しかし力強さを秘めた目で言い切った。じっとその目を見つめ、美鳥は再び穏やかな笑みで頷くと、夏川を抱きしめる。
「……ありがとう……お父さん……」
 『あの時』と同じように、感謝の気持ちを伝えた。そして、信頼の気持ちもこめて。
「……でしたら、美鳥さまも……決して諦めない、と約束してください。昇吾さまの分も生きる、と……。最後の最後まで、朗さまと共に生きる事を諦めない、と……」
 その言葉に目を瞑る。
「……わかった……」
 頷く美鳥の小さな身体を、夏川も宝物のように抱きしめた。
「……先生……」
「……はい?」
 夏川の肩の上、頭を持たせたまま呼びかける小さな声。
「……もし……」
「……もし?」
 言うか言うまいか──迷っている気配を感じ、夏川は腕の力を強めた。
「……昇吾に話していたら……」
 美鳥が何を言わんとしているのか読めず、夏川の思考が停止する。
「……昇吾は……こんな風に死ななくて済んだのかな……」
 美鳥は寂しげに呟いた。
「……何故、そんな風に……」
「……私に先がないんだって、知っていれば……自分の命をかけてまで助ける必要も価値もないんだって、知っていれば……」
「美鳥さま!」
 思わず声が大きくなった夏川が、身体を離して顔を覗き込んだ。
「……そんな風に言ってはいけません……!……価値がないなどと……」
「……でも!助けても、どうせ先はない、ってわかってたら……」
「それでも!」
 真っ直ぐに美鳥の目を見つめる。
「……本当はわかっているでしょう?……そうだとしても、昇吾さまは絶対にあなたを助けていたと……いや、例え、あの場の美鳥さまが瀕死の状態で、もう絶対に助からない事がわかっていたとしても、昇吾さまがあなたを庇ったであろう事は……!昇吾さまにとって、あなたは何よりも大切な存在だったのですから……」
 美鳥が下を向いた。夏川の言う通りである事はわかっていて、否定する事は出来なかった。
「……だから尚更……来て欲しくなかった……」
 今度は、夏川の口からは何も言えなかった。昇吾にとっての美鳥と同じように、美鳥にとっての昇吾も同じなのだ。何よりも大切な存在、と言う点に於いて。
 それでも何かを言ってしまえば、美鳥の行動か、朗の行動か、どちらかを否定してしまう事になる。そして何より、夏川たちも美鳥の後を追う事を肯定したのだ。
「……ごめん……朗や先生たちを責めてる訳じゃないの……昇吾が戻る前に……全部、終わらせたかったんだ……」
 そんな夏川の心情を読んだのであろう、美鳥がポツリと呟く。
「……どうしても……昇吾には知られたくなかった……昇吾だけは……助けたかったの……」
「……はい……私も……曄子さまの事を知っていれば……」
 そこまで言い、夏川は言葉を止めた。
 夏川もまた、隠していた美鳥を責めたい訳ではなかった。言いたくなかった気持ちも理解出来る。そして、自らが気づけなかった自責の念もあった。
 父親の後を継いで松宮家の専属になると決めた時、何故、過去の全ての情報を聞いておこうと思わなかったのか。
 父親は、何故、全てを話してくれなかったのか。過去の事など、必要ないと思っていたのか。
 だが、確かに夏川が父親の立場だったとしても、こんな事態を引き起こすなどと、想像すら出来なかったかも知れない。
「……ごめんね……」
 夏川の本心を充分にわかっていても、美鳥にはその言葉しか出せなかった。
「……謝ったりなさらないでください。元々、美鳥さまには何ら責任はない事なのですから」
 
 ふたりは、ただ抱き合った。
 

 
 黒沼が取り巻きとの集いに興じる日。
 
 その日、その現場を狙い、美鳥は最初の脅しをかけた。それも、かなり派手に。
 まずは、布地に水分を含ませるように、親衛隊のメンバーを会場のスタッフの一員に加えて行く。最終的には、ほぼ本多の配下、と言った具合に。
 
「黒沼は?」
『今、会場に入りました』
「副島の動きは?」
『特にありません。会場には来ないようです』
 伊丹の返事に、美鳥の口元が妖しく花開く。
「……じゃあ、手筈通りに……第二段が終わって、黒沼が逃げ帰ったとこで連絡ちょうだい」
『承知致しました』
 
「……予定通り?」
 通話を終えた美鳥に、横から朗が訊ねた。
「うん。時間通り会場入りしたみたい」
「黒沼の事は……本当に脅すだけ?」
 念押しする朗の顔を、悪戯っぽく見上げて頷く。
「……疑心暗鬼でも死ぬほど脅えればいい……歳を取っても、我が身だけは大事みたいだからね。もう、あの歳の人間を、簡単に苦しまずに殺しても意味ない」
 内容は恐ろしいものであっても、美鳥が直接には手を下さない、と言うひとつの事実に於いて、朗は安堵した。
 
 一方、伊丹が指揮を取る黒沼主催の集いの場は、早くも盛り上がりを見せていた。端から見れば見え見えのご機嫌取りではあるが、黒沼は上機嫌で講釈を垂れている。
 
 ──その時。
 
 黒沼のすぐ近くのテーブルに置いてあるパンチの器から、突然吹き上がる飛沫。そして、白い煙が立ち上がった。周囲から悲鳴が上がり、どよめきが湧く。
「何事だ!?」
 驚く黒沼の周囲を、SPらしき男たちが取り囲んだ時、真横辺りからは別の煙が立ち込めた。
「な、何だ、これは……!?」
 黒沼たちが口元を押さえる。すると、
「毒ガスだ!」
 誰かが叫んだ。
 一瞬、水を打ったように静まったと思うと、次の瞬間には会場内の人間が、我先にと一斉に扉に殺到する。
「先生!危険です!こちらへ!」
 茫然としたままの黒沼は、SPに両脇を抱えられるようにし、秘書や側近たちと共に会場から連れ出された。そのまま車に押し込まれ、自宅へと向かう。
「……い、一体、何者が……」
 酷く脅え、ようやく言葉を出せたらしい黒沼。
「詳しい事は……先生を狙ったのか、会場内の別の誰かを狙ったのか……調べさせます」
「必ず見つけ出せ!わしの集まりで小癪な真似を……!」
 怒りが脅えを超えたのか、真っ赤な顔で怒鳴り付ける。
「……は、はい……!」
 黒沼の剣幕に慄いて返事をした時、その秘書の携帯電話が鳴った。表示された電話番号に覚えはない。
「……もしもし?」
 訝しみながら繋いだ秘書の表情が固まった。
「何だ?誰なんだ?」
 イラついた黒沼が忙しなく訊ねる。──と。
『黒沼さん?』
 
 電話の向こうから、若い女の声が確かに黒沼の名を呼んだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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