はじまりの日~社内事情シリーズ~
※冒頭、里伽子と片桐の目線が入れ替わります。
***
〔里伽子目線〕
あっという間に、この日が来てしまった。
今日は課長の親族と私の親族、双方の顔合わせの日。これから私たちは会場に向かう。
その前に、私は課長にひとつ話しておきたいことがあり、それは今日話そうと前から決めていた。
きっと、課長は忘れているであろうことを。
***
〔片桐目線〕
事件が片づき、赴任の本辞令が出てからこっち、慌ただしい日が続いていたが、ついに顔合わせの日だ。互いの両親への挨拶、よりは気楽な気持ちでいられる。
何より、おれはちょっと楽しみにしていることがあった。今日、里伽子は着物を着て行くと言っていたからだ。常々、彼女には和服が似合いそうだ、と思いながら、実はまだその姿を見たことはなかった。
「里伽子。用意出来たか?入っていいか?」
ノックをしながら訊ねると、「今、終わりました。どうぞ」と扉の向こうから声が聞こえた。深呼吸をしながら中へ入る。何だか聖域に立ち入るような気持ちだ。
姿見の前に立っていた里伽子が、ゆっくりと振り返った。目に飛び込んで来た和服姿の里伽子に、思わず息も瞬きも止まる。
──想像以上の衝撃だった。
護堂家の正餐に伴った時のドレス姿にも驚いたが、それを遥かに上回るやわらかい光、まろやかでいて真っ直ぐな立ち姿。
あまりの衝撃に声が出て来ない。口が商売のはずのおれが、ひと言も。アホ面して固まるおれの方に、微かに口元を緩めた里伽子が近づいて来た。
目の前に立つ里伽子を見下ろし、ドライアイになりそうなほど瞬きも止まっている。
「………………綺麗だ………………」
……陳腐過ぎだ。仮にも営業管理職であるおれの、あまりに貧弱な褒め言葉。そんなおれを、里伽子は意味ありげに見上げている。
「本当ですか?」
珍しい、里伽子からの言質取り。おれの緊張が、驚きで少しだけほぐれた。
「……本当だ……驚き過ぎて言葉が出なかった」
やっとそれだけ返すと嬉しそうに笑い、
「……じゃあ、大丈夫ですね」
何だか気になる意味深な言葉。
「……何がだ?」
訊き返したおれに、さらに意味深な目つき。
(……何だ……?)
恐らく、ひどく不思議そうな顔していたんだろうが、そんなおれを楽しげに見上げている。──と、その時、里伽子が、ふと気づいたように、「屈め」と言う手振り。
(……顔にゴミでもついてるのか?)
その程度の考えに、里伽子の意味深な言葉や目つきも追いやられ、おれは言われるがままに目線が合うよう姿勢を低くした。里伽子の腕がおれに向かって伸びて来る。だが、その手はおれの顔や頭に触れることなく、首に回された。しかも両腕が。
「………………!」
再び、おれは固まっていた。
視界は里伽子で覆われ、近過ぎて見えないくらいで、鼻孔も彼女の匂いでいっぱいになる。目を見開いたまま数秒。そこに来てようやく、鈍い脳内回線が里伽子の唇の感触を認識するに至った。
ゆっくりと顔を離した里伽子の顔を凝視する。また瞬きなしのアホ面で中腰のまま。そんなアホ面のおれの目を見つめながら、里伽子の意味深な目線に拍車がかかった。
「……課長が保証してくださったんですからね?」
「…………?…………何をだ?」
「私のことを綺麗だ、って……」
……ちんぷんかんぷんだ。そんなの保証がどうとか言う問題じゃない。もちろん、美人である保証はする!そもそも里伽子が美人なのは、おれだけじゃなく、一般論として周囲も認めている……いや、認めざるを得ない厳然たる事実だ。
「……もちろんだ。……だが、それが一体、何の……」
「……じゃあこれで、お返し出来たと思っていいですよね?」
「……何をだ?」
謎の言葉に、頭の中をハテナマークが飛び交う。マヌケ面のおれを、里伽子が上目遣いで見つめた。不意にその口角が持ち上がる。
「……あの時のお礼、確かにお返ししましたよ……やさしいおにいさん」
「…………え…………」
さらなる謎を投げかけるセリフと、悪戯っぽい笑みを浮かべる里伽子からふわりと立った匂い。それが相俟って、おれの記憶の奥まった扉を激しく叩いた。
──二十年ほども前。
あれは、親父の二度目か三度目の海外赴任でアメリカにいた時だ。帰国間際のある日、おれは着物姿で道端をウロウロしている10歳くらいの女の子と遭遇した。
最初は日本人じゃなくて日系の子だと思い、英語で話しかけた。すると、綺麗な英語を話すものの、純然たる日本人だと言う。父親の仕事の関係で渡米、と言う環境はおれと同じ。着物が似合う、まるで人形みたいに綺麗な子だった。
『こんなところで何してるんだ?そんな格好でひとりでいたら、いくら比較的治安のいい場所でも危ないぞ』
今度は日本語で話しかけると、習い事の帰りに買い物に寄り、家族とはぐれてしまった、と言う。場所を聞くと、通りを二本ほど間違えている。連れて行ってやる、と言うおれの言葉に、困ったように眉をハの字にした。
『……足が痛くて、もう歩けません……』
草履のまま、相当歩き回ったらしい。
仕方なく、おれはその子を抱き上げた。いや、正確には、真っ直ぐに『持ち上げた』と言う表現が正しいだろう。着物を着てる相手をどうやって持ち上げたらいいのかわからず、単純にこれが一番着崩れないだろう、と言う持ち上げ方をしただけだ。
申し訳なさそうに、しきりに謝って来るその子を、目的の通りまで連れて行った。そのうち両親が見つけてくれるだろうと、しばらくその場で待つことにする。
礼儀正しく礼を述べるその子が、おれに改めてちゃんとお礼をしたい、と言うので、おれは冗談半分に言ったんだ。どうせ直に帰国する身、二度と逢うことはないだろうから、と。
『いつか逢えた時でいい。その時までに、絶世の美女になっていてくれ。美女になったきみと再会した暁には、礼にキスのひとつもプレゼントしてくれ』と。
するとその子は、じっとおれの目を見つめ、何かを考えているようだった。冗談が過ぎたか、と思っていると、小さな手でおれの顔を挟み、いきなりキスして来た。茫然とするおれの鼻孔に、何だかわからないけどいい匂いが侵入して来る。
少しして顔を離したその子が、
『約束の印に少しだけお返しします。いつか綺麗になって、必ずおにいさんに残りのお礼をしますから』
唖然としているおれにそう言った。言い出しっぺは自分なのに、笑うに笑えなかった。その子の目があまりに真剣で。
『……ああ。楽しみにしてる。ぜひ、絶世の美女になって、おれの前に現れてくれ』
おれは確かにそう言った。
記憶の中の女の子と、今、目の前にいる里伽子が、初めて脳内で一致する。
「……あの時の……」
まさか、と言う思いと、何故、今まで少しも気づかなかったのか、と言う思い。たったあれだけの出逢いが、二十年もの歳月を経て。
「……いつから気づいてた……?」
「少し前からです」
始めからでなくて良かった、と安堵する。
「ちゃんとお返ししましたよ?」
そう言う笑顔は、まさに小悪魔。
……それにしても……何てこった……!まさか里伽子がおれのファーストキスの相手だったなんて!
まったく……完膚なきまでにおれの負けだ。やっぱり里伽子の方が何枚も上手なのは間違いない。始めから、はじまりの日から、おれは里伽子には勝てない運命だったんだ。
だが、里伽子になら──。
「……いや……」
首を振るおれの返事に、訝しげな顔をした里伽子を持ち上げた。
「……きゃ……」
あの時と同じように真っ直ぐに抱え上げる。
「……期待以上の美女になってて、これじゃあもらい過ぎだ……」
「……は……?」
「……だが、もらい過ぎで、一括で返せそうにない」
さらに眉をひそめる。『何、言ってんだ、こいつ』と言うように。
「……だから分割にしてくれ。……一生かけて返すから」
一瞬、目を見開いた里伽子の顔が、大輪の花が開くように笑顔になった。営業用じゃない、本当の笑顔。
一生、この笑顔を一番近くで眺めるためになら──。
一生、一番近くにいてもらうためになら──。
里伽子なら、一生、ご機嫌を取って生きて行くのも悪くない。
~はじまりの日・おわり~
※片桐のファーストキス・エピソードについては、 浜崎さんの『人生、悲喜交々③』@ Under the Rose に、ちょこっとだけ書いてます。
#はじまりの日
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