里伽子さんのツン☆テケ日記〔13〕
二人で課長の部屋に行き、矢島部長からのメールを確認すると、これは確かにフランス語。課長の目が泳いでいるのがわかる。
ざっと目を通すと、まあ、商品に関する詳細と入れる際の最少ロットやパレット数、そして必要日数。基本的な確認と言えば言えるけど、どうも急いでいるらしく、概要だけでも知りたいとのこと。
ところどころ馴染みのない単語があり、その辺は辞書を引き引き課長に説明する。重いけど、やっぱり使い慣れた辞書は必須だわ。
内容を聞いた課長が、引き出せる限りの情報を書き出し、それを私が文書にして行く。もっと詳しい情報については、月曜日に確認してから連絡をすることも入れておく。
「……速いね」
入力している最中に課長が呟くように言った。ちょっと褒められた感じが嬉しい。
「学生時代に秘書課の講義があって、英文タイプとかやらされたので。でも、たぶん、大橋先輩はもっと速いと思います」
嬉しいけど、本当のことを言っとくべし。大橋先輩の名を受けて、課長も納得して頷いている。大橋先輩は最初から秘書課配属で、サポート業務に関しては非の打ち所がない、と聞いていた。
実は私、入社する時に秘書課配属の話も打診されたことがある。……遠回しに遠慮と言うか辞退したけど。ホントは総合部とかの方が良かったんだけど、営業になるんなら欧州部と米州部は勘弁~って祈ってた。
よし、入力完了!印字して校正するも、怪しい箇所を発見。う~ん、これは……どうなるんだっけ?仕方ない、訊いてみるか、と友萌に電話。
「休みの日にごめんね。フランス語のさ……うん。そうそう」
友萌は語学に関しては、恐らく社内の誰よりも堪能だ。……たまに日本語が通じないことはあるけど。
私が電話で確認しているのを、課長が黙ったまま真剣な顔で窺っている。
「あ~そっか!うん。うん、ありがとね」
なるほどね。独特の使い回しはわかりにくいわ。友萌との電話を切って最後の手直し。これでどうにか形になったかしら。
「……友だち?」
黙って様子を窺っていた課長が、突然、訊いてきた。……何か……心なしか顔が……不満気と言うか……んんん?文書が完成出来るのか心配してるのかしら?
「あ、はい……いや、って言うか、友萌……南原さんです」
友萌の名前が出た途端、表情が一変。納得したような、微妙に安心したような顔で頷いている。何なんだろ?
「……課長。これで……大丈夫……だと思います」
私が声をかけると、課長が画面を覗き込んで来た。苦笑いしながら。まあ、わからない、ってことなんだろう。
「ありがとう。じゃあ、こっちにそのまま送ってくれるか?」
「はい。一応、課長の社用メールのアドレスを優先してくれるように一文追加しました」
「うん、サンキュ」
私が送った文書を、課長のパソコンから先方へ送る。
「……何度も確認しましたけど、万が一……何か文法や単語が間違ってたりしたら申し訳ありません」
やっぱりちょっと不安。アメリカとアジアじゃ感覚が違うし、商法も違うし。
「大丈夫だ。どっちにしろおれには理解出来ないから確認も出来ない。それよりも、何らかのアクションを返した、と言うことの方が重要だ。後は週明けに何とかする」
私の自信なさげな言葉に、逆に課長は、いつもの自信ありげな目をして言ってくれた。課長がそう言ってくれるなら大丈夫だろうと思える。課長の目を見つめながら聞いていると、
「本当にありがとう。助かった」
その言葉が本当に嬉しくて、さすがの私も思わず顔が笑う。課長も優しい笑顔を返してくれた。
しばらくすると、もうメールへの返事が届いた。本当に待っていたらしい。対応が早かったことへのお礼と、月曜日に再連絡と言うことで問題ないみたい。それを課長に伝えると、頷いて電話をかけ始めた。
「片桐だ。矢島部長からの件……ああ、そうだ。今、先方から返事が届いた。……ああ」
矢島部長への報告かと思ったけど違ったみたいだ。もしかして大橋先輩?
あ……何だか課長の顔が渋くなった。これは大橋先輩かな。きっと言われたくないことを鋭く言われたんだわ。思わず吹き出しそうになるのを堪える。
「おれはフランス語は出来ない。今でも。いろいろツテがあるんだよ」
あらら。なるほどね。『いつからフランス語出来るようになった?』みたいなことを突っ込まれたんだろう。大橋先輩なら課長がフランス語ダメなこと知ってそうだものね。直属の矢島部長はご存知なかったみたいだけど。
……と、課長の顔がさらに変化したと思ったら、
「はあっ!?」
突然、変な声を発すると同時に、一気にムカムカしてるような表情に。
電話は切れたみたいだけど、画面を凝視しながら顔がメチャクチャ怒ってる。でも課長が子どもみたいにあしらわれてる感じが可愛くておかしい。必死で笑いを堪える。
画面を見ながら百面相してた課長は、少し経って私の方に意識を戻してくれたみたいで、
「本当に助かった。……コーヒーでも入れるな」
そう言ってキッチンの方へと歩いて行った。
「あ、課長、お構いなく」
課長がコーヒーを入れてくれてる間、私はふと思い出したことに意識を取られ、ついつい窓の方に目線が釘付けになる。カップを持ってリビングに戻って来た課長が、私の前に置いてくれるまで。
「ありがとうございます」
慌てて向き直ると、
「こんなタイミングもあるもんなんだな。おれが早とちりして今井さんのところに行かなかったら、今日中に返事をするのはアウトだった。本当に運が良かったよ」
課長の労いの言葉。でも……。
「そしたら、そしたで、課長なら何とかされてましたよ」
課長なら間違いなく何とかしたはずだ。それだけは私、確信出来る。
そうは言いながらも、さっきから気になって窓の方を目だけでチラチラ。
「今井さん。何か気になってる?」
「えっ!」
心を読まれたとか思ったけど、よくよく考えたら、いくら首は動かしてなくても、さすがにあれだけ視線を向けていたら気づかれるわよね。課長が笑いを堪えているのがわかる。
「あ、あの……課長のお部屋からだと眺めがいいのかなぁ~って気になって……すみません」
「ああ、そう言うことか」
納得したような、でもおかしそうな課長。
「ちょっと見てもいいですか?」
訊いてみると、課長は優しく頷いた。
「あ、高~い。遠くまで見えますね」
電車の中から見た時に、このマンション眺め良さそうだな~って思ったのよね。やっぱりいい感じ。私の部屋は3階だから、11階の課長の部屋は段違いだ。
課長が近づいて来る気配がすると思ったら、私の後ろからひょいと外を覗いた。その後、すぐに離れて行ったと思ったら寝室に入って行く。
「今井さん」
少しして、寝室の方から呼ばれたので目を遣ると、カーテンと窓を開けて課長が私に手招きしている。不思議に思いつつ、ちょっと遠慮しながら傍に行くと。
「わぁ~。すごい、綺麗~。素敵ですね」
課長が通してくれたベランダ側の窓の外。静かで優しい夜景が煌めいていた。こっちからの方が全然眺めがいい。
思わず食いついて眺める。
その景色は、このマンションのことを教えてもらった日に課長と見た、あの公園からの夜景とライトアップのことを私に思い出させた。
あの時━。
そこまで思い出して、私はその先の記憶を掘り起こすのをやめた。
あの時は……あの後は……。
胸の辺りがざわつく。ダメだ。気づかれちゃいけない。私は窓とカーテンを閉めた。
「思った通り素敵な眺めですね。ベランダも広くていろいろ使えそうですし、寝に帰るだけなんてもったいないですよ、課長」
無理やりテンション高めにそう言って、私がリビングの方へと足を向けた、その時━。
一歩も動かないうちに、私は後ろから課長に抱きしめられていた。跳ね上がったような心臓が大きく脈打つ。
うそ……どうしよう。まだちゃんと言ってないのに。何も伝えてないのに。……どうしよう。
脳は全く働かないまんまで、その働かない脳と同じように、私は身じろぎひとつ出来ないでいた。
私が何も言えず、何も出来ないのと同じように、課長も何か必死に考えているみたいだった。時々、何かを言おうとしてる気はするけど、また、すぐに引っ込めてしまう。
そして、その無言の間が過ぎて行くにつれ、課長の腕に少しずつ力がこもって来るのを感じた。
どうしていいのか迷っていると、一瞬、課長が息をとめた……ような気配。迷いながら、私は肩口に回された課長の腕にそっと触れた。課長が僅かに反応したのがわかる。
私は心を決め、だけど恐る恐る課長の腕を握った。顔を俯けると、ちょうど腕に唇が触れ、鼻腔に課長の匂いが溢れる。
その瞬間、課長に身体の向きをクルリと返され、今度は向き合う形で抱きしめられた。
だけど、その後も課長が言葉を発することはなくて、珍しいくらいに迷いを感じる。課長が何を迷っているのかなんてわからないけど。
私は、お互いにスーツを着ていない状態の、シャツごしにモロに伝わる課長の体温とか、心臓の鼓動とか、硬い胸や腕の感じとか、聞こえて来る呼吸の音とか……驚くくらい明瞭に、そして冷静に、身体で感じていた。
━と、突然。
「……すまない……おれは……」
課長の口から出た言葉。何?何で?何を謝るの?意味がわからずに黙って聞いていると。
課長が『迷う』と言うより、もはや『動揺』しているようにすら感じられる。そして、続いた言葉は。
「……おれが、きみにやれるものは、全てやる……」
それって……。
その言葉のあと、課長がまた何か言い淀んでいる気配がする。私の方からも何か言った方がいいの?それとも、課長の言葉を待った方がいい?私も頭の中で迷っていると。
「……だから……」
そう言って、課長は大きく息を吸った。今までで一番、課長の心臓が大きく脈打つ。私は気づかないうちに呼吸がとまっていて。
━次の瞬間。
「……きみの人生を、おれにくれ」
思わず息を飲んだ。でも、言葉が出て来ない。どうしよう。何か言わなくちゃ……何か。
私がグルグル考えているうちに、課長の腕の力が少しずつ強くなって行く。比例するように課長の呼吸が深くなり、胸が大きく上下しているのも感じた。
普段、人には絶対に見せることのない、課長の動揺を感じざるを得ない。
……でも。
さっきの無言の時━課長が迷っているように、悩んでいるように、私が感じていた間━きっと、課長が考えてくれていたことは、この間、私が感じたことと同じ、だと思う。何故か、確信に近いものがあった。
(この人は……課長は必ず私を守ってくれる。私の心も、そして全てを)
自分の心を信じよう。自分の心が選んだこの人を。課長に自分の全てを預けよう、と。
私は課長の胸に頭をもたせかけ、そっと、シャツの胸元を掴んだ。
その途端、ほんの一瞬、課長の身体が身震いするように反応し、心臓がものすごい速さで打ち始めた。
たぶん課長には、私の『承諾の返事』がわかったんだと思う。
━と、いきなり課長に身体を持ち上げられた。その瞬間、私の身体中に、懐かしい感覚が甦る。
(私……私……この感じを知ってる……いつ……?……どこで……?)
必死に思い出そうとするも記憶を手繰る間もなく、私はあっという間に課長の熱に包まれ、ものすごい勢いに飲み込まれた。
━そのあとのことは、ほとんど憶えていない。
*
「……里伽子……」
その夜、私は初めて課長に名前で呼ばれた。
課長は何回も私の名前を呼んでいた。何かを確かめるように、本当に何度も。
課長に呼ばれると、あまり好きになれなかった自分の名前が、何か違う、特別なものに聞こえたりして。
でも、私の記憶にハッキリと残っているのは、名前を呼ばれたことだけ。
あ、それと━。
課長は見かけ倒しじゃなかったわ。
~里伽子さんのツン☆テケ日記 / おわり~
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