かりやど〔四拾六〕
『 も う も ど れ な い 』
*
どれほど鮮やかな記憶になろうと
何の価値があろうか……
色を失くした現世(うつしよ)が
*
前夜、伊丹と本多から連絡を受け、頼んでいた調査の報告を聞いた美鳥は、早朝、昇吾や朗が起き出す前に行動に出た。
伊丹が運転する車の助手席で、本多に電話をかけて最後の打ち合わせをする。
「……佐久田さんのガードは大丈夫だよね?あと一応、他の箇所も同時に押さえる手配は出来てるよね?……うん……わかった……本多さんは今どこら辺?……そう……わかった」
通話を終えた美鳥が前方に目を戻した。
「美鳥さま。もうじき最初の目的地です。渋滞で思ったより遅くなってしまいましたが……」
「大丈夫。それも誤差修正してる」
何の感情も込もっていない声音。慣れたとは言え、若い女性がここまで感情を殺している、と言う事実は、伊丹にとってもそら恐ろしいものであった。
「……本当に宜しかったのですか?」
「何が?」
「おふたりに何も言わずに……」
返事には、やや、間が空いた。ともすれば、地雷になる質問である事は、さすがに今の伊丹にはわかっている。それでも、訊かずにはいられない。
「……言わないのが正解……だからね」
「何故です?」
今回、伊丹は食らいついた。例え、美鳥の機嫌を損ねようとも、確かめておきたかった。
「……始まりは……松宮だから……」
しかし、伊丹には理解出来ない答え。諦めたのか、小さなため息をついて運転に意識を戻した。
その様子に微かに笑い、美鳥は窓の外に目をやる。流れて行く景色を眺め、心は遥か遠くの空に飛んでいた。
(……何が始まりだったのか、もうわからない。……でも、きっと始めからこうなるしかなかった……私は、このために生まれて来たんだろう……父様に止められなかった事を、止めるために……)
あの時、死んでいてもおかしくなかった。何故、自分は生き延びたのか、理不尽さに死にたくもなった。だが、そんな状況で長らえたのも運命なのだ、と。
(……今度こそ、終わらせる……)
「美鳥さま。見えました」
伊丹の声に、意識を前方に戻す。
(……ここには、二度と来る事はないと思っていたのに……)
だが、一度前方を見据えた美鳥の目と意識は、もう振り返る事はなかった。
*
二手にわかれて動く事にした四人は、先に鬼無里に着いた方が、現在地を知らせる約束をして出発した。
昇吾と朗は中央道経由で、夏川と佐久田は関越道経由で美鳥を追う。
「……あんまり記憶に残ってないんだけど……そう言えば鬼無里にも葉山にも、元々松宮が所有していた屋敷があったはずだ……」
昇吾の言葉に、朗は伊丹から受け取った報告書の内容を手繰り寄せた。
「……もしかしたら……今は黒沼の別邸になっているところがそうなのかも?」
「……ありえない話じゃないな……」
「佐久田さんが言ってた、美鳥が寄る場所ってどこだろう?心当たりはないか?」
昇吾が考え込む。
「……いや……ぼくには思い当たる場所がないな……直系の美鳥にしか伝えられていない事の方が多いだろうし……とにかく、美鳥が寄り道しているなら、何とか追いつけるかも知れない」
佐久田が言っていたように、中央道はスムーズな流れであった。交通情報を聞く限り、確かに関越道経由は渋滞しているらしく、うまく行けば先回り出来る可能性もある。
「……とにかく急ぐぞ……」
朗の言葉に昇吾も頷く。──と、その時、朗の携帯電話が鳴った。
「悪い、昇吾。出てくれ」
運転中の朗に代わり、昇吾が応答する。
「もしもし?」
一瞬の間の後、聞き覚えのある声。
『……昇吾?』
「……斗希子伯母さん?」
電話の相手は、朗の母・斗希子であった。画面も確認せずに応答した事に気づき、ひとりで苦笑する。
『……あんた……今、朗と一緒なの?』
「そうです。朗は運転中なので……」
『どこか停められない?急ぎなの』
昇吾は高速道路の標識に目を走らせた。しばらくは停まれそうにない。
「……ちょっと……しばらく無理そうなんですけど……」
昇吾の様子に、状況を読んだ朗が答えた。
「昇吾……ボードの中にイヤホンが入ってる。繋げてくれるか?」
「……ここか?……ああ、あった。伯母さん、ちょっと待って」
イヤホンを繋げ、朗の耳につけた。
「もしもし?母さん?」
『朗……良く聞いておくれ』
驚くほど神妙な声に、朗は思わず訝しむ。
「……うん……ああ、そう……そうだけど……えっ!?」
突然の大声に、昇吾が朗の横顔を振り返った。
「……母さん、突然何を……いや、もう無理だ……そんなこと言ったって……訳もわからずそんなこと出来ない……だから、ちゃんと理由を言ってくれよ……今は言えないって……それじゃあ……えっ!?」
昇吾が不安気に窺う。
「母さん!それじゃあ、間に合わないかも知れない!……いや、待てない!」
朗がイヤホンを外して昇吾に渡した。
「……朗……どうしたんだ?……伯母さん、何て……?」
「ぼくにも訳がわからない。今、もしかして昇吾と鬼無里に向かっているのか、って……そうだ、って言ったら、すぐに戻って来い、って言うんだ。……鬼無里の方には自分たちが動くから、って……」
「……伯母さんが……!?」
「あんなに慌てた母さん、初めてだ……」
昇吾の記憶の中にも、慌てる斗希子の姿はなかった。どんな事があっても動じない印象しかない。
「……一体、何が起きてるんだ……?」
胸のうちを、かつてない不安が過って行く。だが、もうふたりは後戻りは出来なかった。
「……このまま行くぞ、昇吾」
「……ああ……」
ふたりの車は、比較的空いている高速道路を滑るように流れて行った。
*
美鳥が鬼無里には着いた時、既に時刻は11時近かった。渋滞に加え、寄り道した割には早い到着である。
「本多さん?こっちは今着いた。他のメンバーは?……そう……じゃあ、私は予定通り行くから、後はよろしくね」
手短に終わらせて電話を切った。
「伊丹……予定通り、このまま向かって」
「わかりました」
市街から離れるにつれ、少しずつ人の気配が薄れて行く。
木々が生い茂る中、勾配のある道を進むふたりの目の前に、大きな門が見えて来た。その門構えだけで、広大な敷地を抱えている事が見て取れる。しかし、当然と言えるのか、その門は固く閉ざされ、来る者全てを拒むかのような佇まいであった。
それも、ふたりにとっては予測済みであり、特に驚きもしない。何事もなかったかのように門の前を通り過ぎ、広い敷地を囲む壁のような木立に沿って走って行く。
「……あそこですね」
一見、森の一部に見える一角に、車がやっと一台入れそうな道。道、と言って良いレベルなのか、それすらわからない程度の。
草が生い茂り、道なき道、と言う言葉が相応しい程度の道に、伊丹は器用に車を乗り入れた。入り込むと、かなり奥深くまで続いている事がわかる。
「ずーっと奥まで……行けるとこまで行っちゃって」
「はい」
美鳥の指示通り、伊丹は鬱蒼とした中を進めて行く。すると──。
「……あれですか?」
前方に小屋、のような古い建物。その影に隠すように車を停める。
「……他の者も配置が済んだようです」
イヤホンに触れながら伊丹が告げた。美鳥が頷く。
「……じゃあ、行くかな」
車から降りると、まるで道を知っているかのように、躊躇いなく歩いて行く。伊丹はピタリと付き従った。
「……これは……うっかりすると迷いそうですね」
用心深く周囲を確認しながら進む伊丹に、クスクス笑いながらも歩を緩めない美鳥。
「もしかして美鳥さまは、この屋敷に来た事があるのですか?」
伊丹の顔を横目で見上げ、美鳥は口角を上げた。
「……まあ、あるって言えば、あるかな」
面白がり、また意地の悪い言い方をする。そんな事にも慣れっこになったとは言え、遊ばれてばかりいる伊丹は複雑だった。
「……もうすぐ終わるよ……」
伊丹の心中の不服を読んだのか、突然の美鳥の言葉。
「……何がですか?」
「……この件に関する……全てが……」
そう答え、見上げた視線の先には、古めかしい、だが立派な屋敷。
「……こっち……」
美鳥に誘(いざな)われるまま、何年もの間、誰も使っていないような朽ちかけた扉の前に立つ。錆び付いたダイヤル式の鍵。何とか回る、と言う程度のダイヤルを、まるで適当な数字を当てはめるように解錠しようとする。
「……誰も開けられないままだったんだ」
可笑しそうに笑うと、苦もなく扉を開け放った。伊丹を中へと促す。
広い屋敷の内部に、人の気配はほとんど感じられなかった。それでも無人とは思えない。
伊丹が出来るだけ足音を殺すも、美鳥は無造作に進んで行く。誰かに見つかったら、と気が気でない。
「……美鳥さま……もう少しお静かに……」
「……だぁいじょうぶだって」
目的地がわかっているのか、気にする様子も迷う様子もなかった。階段を上がって行くと、長い廊下に扉が均等に並んでいる。
「………………」
──と、美鳥が立ち止まった。
「美鳥さま?」
伊丹が不思議そうに呼びかける。
「……伊丹……これから私が言う事、絶対に守ってね」
「……は……?」
意味がわからずに聞き返す伊丹に、美鳥は真剣な、そして鷹のように鋭い目を向けた。他を圧倒する支配者の瞳。自分よりも年若く、半分くらいの体積しかなさそうな美鳥に、心だけでなく身体をも縛り付けられる。
「……私が相手と話してる間、口を挟まない事。そして、手も出さない事……」
一瞬の間。
「……それは……そのご命令は、状況によっては承りかねます。……私の最優先事項は、あなた様の身の安全の確保です。御身が危険と判断すれば、私は自動的に動くように訓練されております」
ここだけはきっぱりと言い切る。
「……融通利かないなぁ……とにかく、黙って見ててよ」
「………………」
言質を取らせないためか、伊丹は返事をしなかった。それすらも、美鳥の笑いを誘う行為であるのだが。
薄く笑い、そのまま進むと、廊下の一番奥まった扉──そのひとつ手前で美鳥は立ち止まった。
「……伊丹はあっちの……一番奥の扉のところで待機してて。……私はそっちから入るから……気づかれないようにね」
それだけ言うと、もうひとつ手前の扉に移動した美鳥が、またも無造作に開ける。伊丹は慌てて奥の扉へ移動し、僅かに開けた隙間から油断なく内部を窺った。
広いサンルーム。向かい側が一面大きな窓になり、陽の光が射し込んでいる。伊丹が覗いた側の壁際には、四角く囲むようにカーテンが張られて仕切られており、その中に微かな人の気配。伊丹は銃を持って警戒した。
ふたつ手前の扉から入った美鳥が、部屋の真ん中をゆっくりと、だが堂々と歩いて来る姿が見える。
(……美鳥さまは何をお考えなんだ……?)
仕切りの中にいるのが敵であるなら、美鳥は真正面から近づいている事になり、相手から見れば絶好の的であった。
部屋の中央辺りで歩を止め、真っ直ぐにカーテン幕の方を見る。
無言の間。伊丹には自分の呼吸の音しか聞こえない程の。いや、鼓動までもが聞こえてしまいそうな。
その中にあって、静かながら、美鳥は絶対的な存在感を放っていた。薄い色の髪の毛が陽に透けて煌めき、コンタクトをしていない翠玉が強い光を帯びている。
「……やっと、お会い出来ましたわね」
その時、静寂を切り裂くように、美鳥の声が通り抜けた。
「思ったより手間取ってしまいましたわ……ここに辿り着くのに。ずいぶんと小刻みに移動されてたようですけど……あなたでも警戒されていたのかしら?」
相手からの返答はない。人の気配を感じたのは間違いであったのか、と錯覚する程に。
(……一体、誰なんだ……?)
伊丹が角度を変えて見るも、ちょうど幕が目隠しになって見えない。いや、そもそも、真正面の美鳥からも姿は見えないのではないか、と思う。
「……私を撃ちますか?」
美鳥の言葉で我に返った伊丹は、銃を握り直し、いつでも撃てるよう幕内の相手に向けた。
「……私を殺して、あなたの運命が変わると思っているなら撃ってみればいい……それで、あなたが欲しいものが本当に手に入ると思うなら……」
伊丹の耳に、聞きなれた微かな音。銃を操るその音に息を飲み、美鳥の方を見遣る。
むしろ伊丹は、美鳥の様子に息を飲みそうになった。信じられない程に静かな、感情の機微のない表情。恐らく、今、銃を向けられているはずの目、とは思えなかった。
その時、伊丹の耳に別の音も侵入して来たが、美鳥から意識を離す事が出来ない。
(……美鳥さま!)
幕内からの音に反応した瞬間、美鳥が入った扉と、伊丹が姿を隠している扉の間──中央の扉から何かが飛び込んだ。
と、同時に乾いた音が響き渡る。
「………み………!」
美鳥の視界を何かが遮った。その何かは、美鳥に覆い被さるように身体全体を包み込み、次第に力を失って行く。
「………………!」
自分の盾になった身体。支えようとして、美鳥の力では支えきれず、上体を抱えるようにして片膝を着いた。もう片方の膝で支えながら、自分の盾になった──男の身体を抱きしめる。
背を向けてしゃがんだ美鳥を、再び幕の隙間から狙う敵の手が、駆け寄ろうとした伊丹の目に映った。躊躇うことなく、銃を撃ち落とす。
「伊丹、殺すな!」
美鳥の声が響き、伊丹は引き金にかけた指を止めた。敵に銃を向けたまま牽制する。
僅かに目を開けた男が美鳥を見上げ、震える手が頬に向かって伸ばされた。その手に、美鳥は自分の手を重ねる。
さっきよりも、本当の静寂。
透き通る氷のような空間で、美鳥と男は顔を寄せ、見つめ合った。