魔都に烟る~part3~
男の言うなりにするのは腹立たしかったが、確かに裸のままではいられない。しかも汗にまみれた身体が気持ち悪かった。
仕方なくシーツで身体を覆い、部屋の中をウロウロと見て回る。
その広い部屋には、おおよそ女にとって必要なものが全て揃っていた。洋服も、化粧品も、鏡台も。そして最新のバスルームまでが。
女は身体を流して清め、一番、身軽なドレスを纏う。最低限の化粧だけを施し、恐る恐る部屋を出た。
部屋の広さから予想はしていたが、屋敷自体も広い。
(一体、あの男は……)
不思議に思いながらも階段を見つけ、静かに降りて行くと、すぐ下の部屋の扉が開かれている。まるで彼女を待っているかのように。
誘い込まれるように、開け放たれた扉から室内に足を踏み入れると、そこもまた広いダイニング。その広さに反比例しているような小ぶりなテーブルに、男はひとり腰かけている。
「どうぞ」
男がテーブルの向かいに促した。女が警戒しながら近づく様を、面白そうに眺めているのがわかり、また苛立ちが揺り戻される。
が、そこは何とか堪えて席に着くと、既に朝食の仕度が設えられ、温かな湯気を湛えていた。
男が静かに立ち上がり、ティーポットを手に女の方に近づいて来る。女が思わず身体を強張らせた。
「ミルクティーでいいですか?」
女は身体を椅子の背もたれに押しつけ、上目遣いで男を見遣りながら頷く。
小さく頷き返した男はミルクと茶をカップに注ぎ、ポットを傍に置くとコージーをかけ、
「後はお好きに」
そう言って、再び向かいの席に戻った。
果たしてこの男が淹れたのか……暖かいミルクティーは内臓から身体中を暖めて潤し、女にひと時の安息をもたらす。
そして二人は、終始、無言のまま食事に専念した。もちろん、女は男の方を窺っては警戒心丸出しではあったが。
食事がひと段落すると、どこにいたのやら、使用人と思われる数人が静かに入って来た。彼らは、あっという間に片づけ、茶器だけを残して去って行く。
再び、二人で取り残された女は、何をどうしていいのかもわからないまま、カップを持ち、ただ黙って男の様子を窺っていた。
「……昨夜のことですが」
男の突然の言葉に、不意を突かれた女はカップを取り落としそうになる。その様子を、男は薄っすらと口元に笑いを浮かべながら一瞥して続けた。
「きみも捜しているのではないですか?」
「……え?」
男の質問の意味がわからず、思わず間の抜けた声になってしまった。男はじっと女を見つめ、淡々と続ける。
「きみが犯人ではないでしょう?」
その言葉で、ようやく昨夜の事件の犯人が自分ではないのだろう、と言われていることに気づく。
「……ええ」
「にも関わらず、あの場にいた、と言うことは?まさか、夜更けに女性ひとり、しかもあの格好で偶然遭遇した、と言うことはないでしょう?」
またしても嫌みな言葉をさらりと投げつけて来る。だが、言っていることはあながち外れてもいない。それがなおさら腹立たしい理由でもあるが。
「……協力しませんか?」
黙ったままの女を気にする様子もなく、反応を待つでなく、男は唐突に切り出した。
「……は?」
意味不明の申し出に、さらに素っ頓狂になる女の返事。
「……犯人を捕まえるために」
男のその言葉で、ようやく最初の言葉の意味がわかった。
『きみも捜しているのではないですか?』
即ち、犯人を、と言うことだ。
「……本当に私が犯人ではないと……思っているの?」
女の問いに、男は漆黒の瞳を真っ直ぐに向けて来た。その視線の強さに、赤ん坊よりも簡単に手玉に取られた数時間前を思い出し、一瞬、慄く。
「……思っていますよ。きみには殺す理由がないでしょう?」
一体、この自信は何なのか。女は不思議に思わずにはいられなかった。
「……何故、協力が必要なの?あなたには私の協力なんて必要ないでしょう?……その力があれば……」
もっともな問いに、男は少し目を伏せ、カップに口をつけた。そして再び、その射抜くような目で女を見据える。
「理由はいくつかあります」
女は気づかれないように息を飲んだ。知らず知らず身体が硬直する。
「まず第一に、きみの方が鼻がいいこと」
「……鼻?」女は拍子抜けした。
「そうです」
冗談かと思えば、どうやらそうでもないらしい。
「第二に、ヤツの情報を得るための場所に行くには、女性同伴の方が都合がいい」
つまり、社交場に行くための仮のパートナーと言うことか。その意見自体には、女は納得することは出来た。だが、この男と連れ立って宴だのサロンに行くなど、正直、お断りだ、とも思う。━が。
「きみなら自分の身は充分守れるでしょうから、何かあった時に放れても心配しなくて済みます」
男はそう続けた。確かに、何かあった時に、普通の女性を宴やら夜道だのに放り出して行くなど出来ないだろう。
「社交場での振る舞いにしても、きみはひと通りのことは出来るでしょう?それに……」
女の不満気で乗り気でない顔に気づいていないとも思えないが、一切、気にも止めずに男は続けた。
「きみなら他の女性陣からの文句も出ないでしょうし……万が一、攻撃されても負けないでしょう?」
最後は薄ら笑いすら浮かべている。しかも、この物言い。
(……何よ、それ!すごい自信家……ううん。自意識過剰なんじゃないの!?)
暗に自分の容姿を褒められているとは言え、女はやはりどこか面白くない。そうは思いながらも、心のどこかに湧き上がる矛盾した考え。
(確かに……この男なら、勝てるかも……?)
それにしても、自分にあんな扱いをした男と、一時的にとは言え手を組むなんて、とも思う。
(だけど、傍にいれば弱味も見つけられるかも知れない?)
何より、屈辱を晴らしたい気持ちも頭をもたげる。
(この男のことも探って、いずれ目的を果たした時には、私がこの男を……)
かなりの時間、考え込んでいた女は、躊躇いがちに口を開いた。
「……あなたのことを……何て呼べばいいの……?」
その問いに、男は下げていた目線を上げ、口元には再び笑みが浮かぶ。今頃になって自己紹介か、と女は苦笑した。
「フルネームは、レイ・ユージィン・セーレン・ゴドーと言います」
(長っ!)女は心の中で呟いた。
「……レイ、で結構ですよ」
その心を読んだのであろう男は、そう付け加える。
「きみのことは何と?」
「……ルキア・ローズ……」
その答えに男は口の中で何かを呟くと女に促す。
「どちらでお呼びすれば?」
「……ローズ……」
「わかりました。ではローズ。契約成立と言うことで」
レイ、と名乗った男の言葉に、ローズは自分がとんでもないものと契約を結んでしまったのではないかと言う不安に襲われる。
とは言うものの、もはや後戻りは出来ない闇に足を踏み入れてしまったことだけはわかっていた。