ひとよばな〔小説版〕
※注)大人的表現あります(ちょっと)。
*
一夜(ひとよ)なんて贅沢は言わない。一度きりでいい。
咲き誇るなんて高望みはしない。ひっそりと開けばそれでいいから。
*
うだるように暑い、夏の盛りの日。
坂崎秀一郎(さかざきしゅういちろう)は、二十年連れ添った妻の葬儀の場にいた。
四十代半ばを過ぎた今。だが、まだ四十代半ば過ぎだった妻を喪った喪失感は大きかった。まして、子どももいない、兄弟もいない坂崎にとっては。
「……秀くん。身体にだけは気をつけて」
3つ歳下の従妹、紗枝(さえ)が赤い目をして言う。秀一郎と紗枝は互いに一人っ子同士で、幼い頃は兄妹のように過ごすことも少なくなかった。
秀一郎が結婚してからも、夫妻は紗枝を妹のように可愛がり、三人はよく一緒に食事などをする仲だったのだ。
紗枝は一度は結婚間近まで行きながら、どんな訳があったのか破談となった後、今も独身のままで、結婚をする気があるのかないのか。さすがに秀一郎も、そこまでは知る由もなく。
「うん。ありがとう」
「また香織さんに会いに来るよ」
そう言って紗枝は帰って行った。
ひとりになった秀一郎は、力が抜けたように座り込んだまま、しばらく動くことが出来なかった。
(……これからはずっとひとりだって言うのに……)
今からこんなことでは先が思いやられる。いつかこの喪失感が薄れる日も来るのだろうか。
いや。かつて、これ以上の喪失感を感じたことがあるではないか。もう、これ以上の喪失感は、生涯ないであろうと思われたあの日が。
あれは──。
香織との結婚を決めた日のことだった。
*
年月は黙っていても過ぎて行くものだ。
二年後の夏、秀一郎は無事に香織の三回忌を済ませ、ひとまずの一区切りに寂しさ半分、安堵感半分の気持ちを抱えていた。
そして、都合で三回忌に参列出来なかった紗枝は、夏の盛りも過ぎた頃、香織の焼香に秀一郎宅を訪れた。
焼香を済ませた後、写真を見ながら紗枝が持って来てくれた菓子を食べ、香織との思い出話に興じる。
懐かしそうに話す紗枝の顔を眺めながら、秀一郎は封じ込めたはずの記憶の扉が開きかけているのを自覚した。
それは決して開けてはならない扉。その扉の向こう側は、決して明かしてはならない秘密の部屋。
知られてはいけない。見せてはいけない。心に焦りを生じる。
「もう一度お参りして、そろそろ帰るよ」
そう言って紗枝が立ち上がろうとした時、秀一郎はとっさに彼女の手首を掴んだ。驚いた顔の紗枝に、だが、それ以上に自分の行動に驚いていたのは秀一郎の方であった。
「……秀くん?」
紗枝の声を聞いた瞬間、秀一郎の心は、一気に過去へ過去へと引き戻された。
──あの日へと。
「……どしたの、秀くん」
まるで何かに憑かれたように、秀一郎は紗枝を引き寄せ、床の上に組み敷いた。
「………………!」
紗枝が驚愕の表情を向ける。
「……ずっと……」
それ以上は言葉にならなかった。
目を見張り、秀一郎を凝視する紗枝の両手首を拘束したまま見下ろす。彼女の目の中に映る己を認めた時──。
「………………!」
秀一郎は、吸い込まれるように紗枝の唇を塞いだ。目を見開いた紗枝の腕に、必死の力がこもる。
「……どうして……」
必死に顔を背け、紗枝が声を絞り出した。
「……ずっと、きみを想っていた」
「だって香織さん……」
「もっと、ずっと前からだ!」
秀一郎が叫んだ。紗枝の言葉を塗り込めるように。紗枝が瞬きも忘れて固まる。
「きみが産まれた時からずっと……傍で見ていた。妹のように可愛いのだと思っていた……あの時までは……!」
ゆっくりと秀一郎の方に顔を向けた紗枝は、信じられないものと遭遇でもしたかのように見上げた。見下ろす秀一郎の目が、苦しげに熱を帯びる。
「いとこ同士でさえなければ……いや、せめて兄弟でもいれば、と何度思ったか……!」
秀一郎は呻くように言葉を放った。普段、比較的、落ち着いた雰囲気に見えた秀一郎の思いもよらない言葉に、紗枝はただ呆然とした視線を向けている。
「……何故、あの時……」
そう呟いた秀一郎は、紗枝の首筋に顔を埋めた。唇でなぞりながら、もう後戻りは出来ない溝を踏み越えた。
*
反対されることはわかり切っていた。第一、押し切るには、紗枝の気持ちを確かめなければならない。
己は貫く覚悟があっても、確かめる勇気はなかった。確かめたとしても、紗枝にも両家を押し切らせる自信もなかった。
諦め切れず、進むことも出来ず、ただ、逃げるために香織との交際を決めたのだ。
香織のことを大切に思っていなかった訳ではなくとも、どこか裏切っている後ろ暗さが、いつも心の片隅から消えることはなく。
結局、半分は家のために香織との結婚を決めたようなものだった。
紗枝の肌を貪るように味わいながら、香織への底知れない罪悪感に追い立てられる。それでも止まれず、手離しがたい欲望との狭間。
あんな風に香織と結婚して、なのに結局、自分も紗枝も子どもに恵まれることはなかったではないか。
結果としては、ただ、香織に申し訳ないことにしかならなかったのだ。
もし、他の男と結婚していれば、もしかしたら、香織はもっと幸せな家庭を手に入れられたかも知れないのに。
もし、あの時に、自分が己の心に正直になっていれば、確かめてさえいれば、そこで一先ずの決着はついたはずなのに。例え、どんなに反対されたとしても。
鬩ぎ合う葛藤の中で、あれほどに触れたいと願っていた紗枝の身体を抱きしめながら、それでも心のどこかが香織に謝り続ける。
微かに残る夏の余韻。湿った生暖かい外気よりも、なお熱い、重ねた身体。吐息と汗が混じり合い、繋がる瞬間に視線と心も絡み合う。
早まる鼓動、溶け合うような一瞬。吐息を洩らす紗枝の震える身体を感じ、呼吸が乱れて止まる。
息を乱しながら顔を背けた紗枝の目尻から、一筋の滴が伝い落ちた。
親指で拭おうと、秀一郎がそっと触れる。
「……な……のに……」
掠れたように小さな紗枝の声。秀一郎の指が止まる。
「……見られなくなかったのに……今さら……」
意味がわからずに固まっている秀一郎に、紗枝は顔を背けたまま言い放った。
「……どうして、今になって……」
幾筋もの涙を流しながら投げたそのひと言に、紗枝の気持ちの全てが表れていた。
遅すぎたのだ。何もかもが。越えられたかも知れない柵(しがらみ)を、越えられなくするには十分過ぎた年月。
紗枝を抱きしめながら、秀一郎にもわかっていた。人生最高の瞬間は、同時に最大の罪悪感を背負う時でもあり、そして、これが最初で最後であることも。
それでも押し留めることが出来なかった想い。
その全てをひっそりと見ていたのは、その宵に、ひと時のみ花を開く一夜花のみ。
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