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社内事情〔36〕~決心~

 
 
 
〔片桐目線〕
 

 
 おれの存在に気づいた男が、こちらに一歩踏み出したその時━。

 倒れ込んだままピクリとも動かなかった里伽子が、突如、跳ね起き、男に向かって足払いをかけた。

 驚いたおれの足が思わず止まる。

 生き物は足元にある物を踏まないように、反射的に飛び越えようとする習性がある。恐らくはそれを狙ってのことだったのだろう。

 里伽子の目論見通り、飛び越えようとした男はつんのめりそうになった。

 すると、里伽子は屈んだまま身体の向きを反転させ、今度は膝の後ろ側から足払いの要領で蹴りを入れる。簡単に言えば、子どもがよくやる『膝カックン』と同じだ。

 元々曲がる後方から押された男の膝はガクリと折れ、最初の反動も相俟って派手に前のめりになった。位置が低くなったその延髄辺りに、さらに里伽子の膝が見事に入る。

 脳震盪を起こしたようで、男の巨体が地面に伏した。派手に膝を打ち付けながら。

 何か色々やっていた、と言う里伽子との会話が脳裏を過りかけたが、それどころじゃないので払い除けたその時、里伽子の後ろで流川が動こうとしたのに気づいたおれは我に返り、再び里伽子に向かって走りながら叫んだ。

 「里伽子!その女もグルだ!!」

 流川が「チッ!」とでも言うように眉をしかめておれを睨み、里伽子に背後から掴みかかろうとした、その瞬間。

 おれの焦りを余所に、振り向きざまに放った里伽子の左手が、流川の右顔面に綺麗にヒットする。

 『パンッ!』と言う小気味よい音が響いたと同時に、流川がよろめいて地面に倒れ込んだ。

 「あ、本気でやっちゃった」

 里伽子が呟いた時、おれは里伽子の前に回り込み、その身体を流川たちから遮った。

 「……片桐課長」

 おれの上着を掴みながら、里伽子の声が安堵の色に染まり、おれも思わずホッと息を洩らす。

 「無事で良かった。……ケガは……」

 振り返りながら言いかけて、一瞬、頭の中が凍り付き、次いで沸騰しそうになった。

 「……傷が……」

 里伽子の頬が赤くなり、傷になっている。本当に小さな傷ではあるが、おれの腸(はらわた)を沸騰させるには十分過ぎる。

 そっと触れると、「大したことありません」と里伽子は言うが……おれの怒りは頂点まで駆け上がりそうだった。が、その時。

 「式見の社員なら誰でも良かったんだけど……たまたまとは言え、思いも寄らない“掘り出し物”に当たったようだわ」

 目だけを向けると、流川が里伽子の顔をチラリと見遣る。冷めているようで甘い毒を含んだ彼女の声が、おれの沸点に楔のように突き刺さった。

 「……お前……」

 流川の方に身体ごと巡らせると、倒れ込んでいた男に『行くわよ』と声をかけて立ち上がるように促す。

 「……久しぶりに会えて嬉しかったわ、片桐」

 艶やかな笑顔の流川を睨みつけ、おれは掴みかかりたい気持ちを必死で抑えた。

 「前より断然、いい顔するようになったじゃない。ゾクゾクするくらい魅力的よ。あなたのそう言う顔、これからもっと見れるのかと思うと楽しみだわ」

 そう言い放つと、魔物のように妖しい赤い唇の端を持ち上げながら背を向ける。

 「……待て!このまま行かせると思うか……!」

 おれの言葉に何の反応も示さず、そのまま男を連れて立ち去った。

 すぐに人が追いかけて来ることはわかっていても、さすがに里伽子をひとり残して追う気にもなれない。

 諦めて里伽子を振り返る。

  「本当に大丈夫か?さっき派手に吹っ飛ばされてるように見えたが……」

 おれの言葉に、里伽子は微かに微笑んだ。

 「向こうの動きに合わせて、自分から飛んだんです。モロに受けた訳ではないですし、一応、ちゃんと受け身を取ったつもりなので……大丈夫です」

 「………………」

 里伽子を抱き寄せる。

 「本当は110番通報したつもりだったんですけど……何か間違えて課長にかけてたみたいです。お陰で早く来てくださって助かりました」

 「……心臓が止まるかと思ったぞ……」

 里伽子の手がおれの背中に回された。

 細い指がスーツを握りしめるのを感じながら、その存在を確かめるように抱きしめる。

 (……何が、命をかけても守る、だ……)

 遣る瀬ない怒りと、どん底の無力感に苛まれながら。

 程なくして、大橋や根本くん、そして数人の警官が駆けつけて来た。里伽子に大怪我などなかったことで、一先ず安堵の空気が流れる。

 駆け付けた警官は専務が手を回したらしく、事情聴取の後、報告に戻る者と、おれたちと一緒に社の近辺まで来る者とに別れたようだ。

 社に戻ると、おれたちは社長と専務に迎えられ、里伽子の頬の手当てが済むまでに、経緯の説明と今後の方針について話し合う。

 その後、里伽子から状況の説明を受けた社長からは、「今日は疲れているだろう」との言葉。専務からの配慮で早めの解散となり、おれは里伽子と共に退社した。

 元々、今夜は里伽子と逢う予定で、外で食事をするつもりでいたのだが……状況が状況なだけに、さっさとタクシーで家に戻り、出前でも取ることにする。

 派手に地面を転がった里伽子のスーツは、当然、クリーニング行き。ついでに髪の毛も汚れている里伽子に先にバスルームを使わせている間、おれはいくつかの考えを整理した。

 自分もシャワーを浴びた後、里伽子と食事を摂りながら、彼女が不在の間に社内で起きたことを説明する。そして、流川についても少しだけ。

 話を聞く里伽子の顔を見つめていると、目に入るのは頬の傷。━と同時に頭の中に浮かぶのは、今までに見せてくれた様々な表情。

 どれだけ見つめても飽きない。どんなに抱きしめても足りない。

 失わないためなら何でもする。何でも出来る。

 その黒い瞳を見つめながら、おれは心の中でひとつの決意を固めた。
 
 
 
 
 
~社内事情〔37〕へ~
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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