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かりやど外伝〜松の宮 護る刀自〔八/最終話〕

 
 
 
 美鳥(みどり)が産まれてすぐ、春(はる)は冴子(さえこ)と美紗(みさ)の許しを得、大掛かりなレース生地を編み始めた。
 いつか花嫁となる時に使って欲しい……春はその願いを込めた。
 

 
 昇蔵(しょうぞう)が言ったように、美鳥の顔立ちは若い頃の冴子に良く似ていた。やや中性的でいて、華やかな美しさを秘めている。
 そのせいか、昇蔵は殊の外、美鳥を可愛がった。陽一郎が、父はそれほどに母を大切に思っていたのか、と驚く程に。
 夏川親子の行き届いた健康管理を受け、昇吾も美鳥も元気に成長していたが、美鳥が6歳になった頃には、昇蔵はたびたび寝付くようになっていた。その事が昇蔵を焦らせたのか、再び陽一郎の時と同じ問題で揉める事もあった。
 即ち、美鳥の遺伝子を保存するか否か、の問題である。
 
 その日も、昇蔵に昼寝をさせた冴子は、何をするでなく、部屋でひとり過ごしていた。
「……現身や 真魂留むる 仮の宿 葉舟流るは 儚き……」
 窓の外に視線を投げ、無意識に呟いていた時である。
「……おばあさま……それ、なぁに?」
 気づくと、扉の隙間から美鳥がちょこんと顔を見せている。遠慮がちに身体を半分隠している姿が、何とも言えずに可愛らしく、冴子の顔が弛んだ。
 手招きすると、嬉しそうに駆け寄って来てくっつく。
「……これはね……短歌、と言う……お歌よ」
「……たんか……?」
「美鳥にはまだ少し難しいかしらね」
 さらさらのやわらかい髪を撫でながら微笑んだ。
「おじいさまはおねんね?」
「そうよ。少しお疲れのようだから、寝かせておいてあげましょうね」
「はい」
 吸い込まれそうに濃く澄んだ緑色の瞳が、真っ直ぐに冴子を見上げている。間違いなく松宮の直系と言う確かな証が。
「……美鳥ー?ここかー?」
 その時、再び控えめに扉が開いた。顔だけを覗かせた昇吾が、恐る恐る中の様子を窺っている。
「昇吾兄!」
 パッと顔を輝かせた美鳥が、一直線に駆け寄って行く。
「昇吾兄〜!」
 勢い良く飛び付く美鳥は満面の笑顔。抱きとめた昇吾は、まるで溶けそうなアイスクリームのような笑顔である。
「昇吾、いらっしゃい」
「お祖母様、こんにちは」
 ぶら下がる美鳥を抱えながら、礼儀正しく挨拶する。
「春さんが作ってくれた美味しいお菓子がありますよ。二人とも手を洗っていらっしゃい」
 冴子の言葉に、二人の顔が輝いた。
「よし。手を洗って来よう、美鳥」
「うん!」
「二人とも慌てて転ばないように……お菓子は逃げませんよ」
 元気に駆けて行く二人に、笑いながら声をかける。
 
 春手製のお菓子を三人で囲む。その愛おしい存在を眺めるにつけ、冴子の心を不意に闇が突き刺す事があった。
(……あの子は、もう16歳になったはず……)
 忘れるはずもない。忘れられるはずもない。片時も頭を離れる事はなかった、本当ならここにいたはずの、もうひとりの孫──優一(ゆういち)と名付けた──の存在を。
(……わたくしたちの身勝手で……)
 沙代と優一の様子は、副島を介して定期的に伝えられてはいた。写真も見ている。だが、別れて以来、一度も会ってはいない。声も聞いていない。それが冴子の心に、常に消えない痼(しこり)としてあった。
「おばあさま、哀しいお顔……」
 美鳥の言葉に我に返ると、二人が心配そうに冴子の顔を覗き込んでいる。
「……何でもないのよ。哀しくなんかないわ。昇吾と美鳥がいるもの」
 慌てて取り繕う。
「……ホントに?」
「もちろんよ」
 ホッとした様子の美鳥が、急に何かを思い出したような顔をした。
「ねぇねぇ。さっきのお歌は、なんのお歌なの?おばあさま」
 子どもの何気ない質問に胸を突かれ、思わず言葉に詰まる。
「……歌って……?」
「さっきね。おばあさまが、たんか、ってお歌を歌ってたの」
「たんか?」
 不思議そうに訊ねる昇吾に、美鳥が得意気に説明した。
「……あれはね……この身体は、魂を入れておく器……入れ物で、借りているものだから、いつか還さなくちゃいけない、って言う歌なのよ」
 二人がキョトンとした顔をする。
「みどりのカラダも、みどりのじゃないの?誰かに返さなくちゃいけないの?」
「美鳥の魂が入っている間は、美鳥のものなのよ。でも、いつか、この世のどこかに還す日が来るから、大切にしなければいけませんよ」
「え〜……?」
 二人の声がハモった。
「心配しなくても、昇吾も美鳥もずっと先の事ですよ。ただね……」
 わからないまでも、二人はじっと冴子を見上げて聞いている。
「……現身など、所詮、現し世に留まるためのひと時の仮の宿でしかない。大切なのは魂……でも魂の入れ物である身体も、魂が入っている間は大切なの。本当に大切なのは、名前とか、家とか、そんなものではなくて……そんなものは、魂と比べたら大切じゃない。大切なもののためになら、いつ手放してしまってもいいものなのよ」
「……ふーん……」
 顔を見合わせる二人に、冴子は静かに目を細めた。
「いつか、あなたたちにもわかる日が来る……本当に大切なものが……」
 何を見ているのかわからない目で、冴子は夢見るようにふんわりと微笑む。
「さ、遊んでいらっしゃい」
 良くわからない、と言う表情だった二人は、その言葉で勢い良く立ち上がった。
「よし!行こう、美鳥!」
「うん!」
 元気に走って行く二人の背に、もうひとりの孫の姿が重なる。そして、同時に思う。自分は昇吾や美鳥が成人するまで生きてはいないであろう、と。春が編み上げた見事なレース生地──それを纏う美鳥の姿を、見る事は叶わないのだろう、と。
(……この幸せを味わえただけでも勿体ない……罪深きわたくしたちには……)
 予知だったのかは不明だが、この二年後に昇蔵は79歳で亡くなった。
 
 最期に、冴子の名を呼びながら。
 

 
 昇蔵の告別式には、さすがに副島も姿を現した。時々、昇蔵には会いに来ていたが、冴子が面と向かうのは久方ぶりの事である。
 互いに全てを胸の内に秘め、多くの言葉は交わさなかったが、副島の去り際、周りを見計らった冴子がひと言だけ伝えた。
「……副島さん。主人がいなくなった今、後はわたくしが全て墓場まで持って行きます。今後、松宮に何が起ころうとも、あなたは決して介入してはいけない。……松宮の厄介事に関わってはいけませんよ。……ただ……二人の事だけは……頼みます……」
 神妙に聞いていた副島は、返事はせずに会釈だけして去った。だが、それがそのまま、冴子から副島への遺言となるのである。
 この後、副島は冴子の葬儀以外で松宮家を訪れる事はなかったが、約束通り、誰にも洩らす事なく小半親子──倉田沙代親子の世話をした。
 
 葬儀が全て済んでしばらく後、冴子は陽一郎にもある事を言い含めた。
「……陽一郎。お父様がいなくなった今、もう縛られる事もありません。あなたが必要と思わないのなら、松宮の名も家も……」
 母の言葉に、陽一郎は驚きを隠せなかった。それを見て微かに微笑む。
「わたくしがこんな事を言うなんて不思議ですか?でもね……本来、松宮の直系は名にも家にも執着がないのです。出来る努力はする、と言う程度で……だから……」
 口元から笑みを消した冴子が、睫毛を少し翳らせた。
「……そう言う意味で、一番の犠牲者はお父様なのです。だから、あなたが美紗ちゃんとの結婚が許されないなら出て行く、と言った時、わたくしは個人的には反対ではなかった。あなたには何の責任もない事だけれど、でも、お父様が護って来たものを……わたくしのために肩代わりしようと必死になっていたものを、わたくしが壊す事は出来なかっただけで……」
「……お母さん……」
 陽一郎に目線を戻し、冴子は微笑みかけた。息子である陽一郎が圧倒されるほどに、母の微笑みは美しかった。
「松宮が解体しても、働いてくれている人たちの事は大丈夫。全て取り計らってくれる者たちが……あなたは、人をそのように使う事が嫌いだったから良くわからないでしょうけど、そう言う時のために親衛隊の人たちがいてくれるのです。……もちろん、頭がいなくなれば、いずれは消え行くかも知れないけれど……」
 言葉が見つからず、ただただ母の顔を見つめる。
「……いいですね。あなたは、あなたの道を……あなたが守りたいと思う大切なのもののために決断してお往きなさい。……美紗ちゃんと美鳥のために……今までの事は、全てわたくしが持って行きます。……ただし……」
「………………」
「……曄子にはお気をつけなさい。あの子は何かが違う……古い、悪い血の縛りを持って産まれてしまったようです。生きているうちに何とかするつもりではいるけれど……とにかく、必要以上に関わらないようにね。でも、昇吾の事だけは頼みますよ」
 それだけ言うと、冴子は陽一郎の返事も待たずに席を立った。
 
 その後、冴子は少しずつ衰えて行った。姿は変わらずに美しいままで。
 

 
 やがて、昇蔵の三回忌が無事に済むと、冴子は本格的に寝付くようになった。
 それでも、昇吾や美鳥が挨拶に訪れる時だけは起き上がり、きちんと顔を合わせて話をする姿勢を見せてはいた。
 
 次第にそれも困難になって来た頃、部屋に活けられた花を取り替えていた美紗に向かい、冴子が珍しく頭を上げた。
「……美紗ちゃん……」
「……はい?」
 起き上がろうとする冴子に手を貸し、肩に羽織りをかける。
「……ごめんなさいね……」
 美紗の思考が一瞬止まった。
「……何がですか?」
 自分の手元を見つめて薄っすらと笑い、冴子は何かを探しているようであった。
「……この家に引き入れてしまった事……」
 美紗の思考が更に混線する。美紗の中では、義母は自分と陽一郎にとって最大の味方でしかなく、結婚出来たのも義母のお陰、と言う認識しかなかった。その戸惑いを読んだのか、冴子は静かに語り出す。
「……本当なら、陽一郎がこの家を出る、と言った時、その方が良い……と……わたくしは考えていたのですよ……」
「……え……?」
「……この家と関係なく暮らした方が良いと……でも……」
 睫毛を翳らせた冴子の横顔を見つめ、美紗は続きを待った。
「……前にも言ったけれど、わたくしは主人の全てを否定する事が出来ない……その資格がないから。それをあなた方に……他の人間に肩代わりさせる事が、どれほど理不尽な事かわかっていても、わたくしに出来ないただ一つの事なのです」
「お義母様……」
「もっとも、一番の問題は松宮家云々ではなく内部の人間で、それさえなければ他は大した問題でもないのだけれど……」
 その言葉──内部の人間──が、何を、誰を指しているのか、美紗は一瞬で理解した。冴子の最大の懸念を。
「……生きている内に何とかしておきたかったのだけれど……どうも間に合いそうもない……残念だけど出来そうにないわ……」
「お義母様!」
 美紗の手を取り、冴子は微笑んだ。
「……陽一郎にも言ってあるけれど、この家も名も、不要であるなら捨ててしまって構わない……一番大切なものを護るためなら……見失ってはいけない……真に必要なものであるなら、どんな形であろうと必ず残る……必ず繋がるから……」
「……お義母様……」
「……陽一郎を……美鳥をお願いね……それから、申し訳ないけど昇吾の事も……でも、曄子には関わってはいけない……さっきも言ったように、わたくしにはもう時間がないから……ごめんなさいね……」
 美紗の目から涙がこぼれる。
「……何度でも言うけれど、必要ないなら全て捨ててしまってね……その責は、わたくしが全て持って行きます……本来、わたくしが……わたくしたちが背負うべきものなのだから……」
 美紗は理解した。義母が、己の意思に反してまで松宮を護って来たのは、全て義父・昇蔵のためだったのだ、と。
「……お義母様……それほどに……」
 美紗の言葉に、冴子が満足気に微笑んだ。
「……わたくしには……わたくしの道には、いつも必ず主人がいた……それ以外の道を考えた事は一度もないのよ……産まれた時から……」
 美紗は思う。義母はまさしく、松宮を護る最大の家刀自であったと。そして、自分は義母のように護れるだろうか、とも。
「……疲れたわ……少し休むわね……」
 そう言って横になった冴子の手を握り、美紗は応えた。
「……お義母様。お義母様のようには行かないのはわかっています。でも、全力で陽一郎さんと美鳥を……そして昇吾くんを護るとお約束します」
 真っ直ぐな美紗の目に、冴子はかつてないほど美しく微笑んだ。
「……ありがとう……お願いね……」
 
 この語らいから数日後、冴子は静かに昇蔵の元に旅立った。
「……現身や……真魂留むる……仮の宿……」
 そう、口ずさみながら。
 
 最後の最後まで、曄子の事を気に病みながら。
 

 
 静かに松宮家を護って来た、最後の砦とも言うべき刀自を失くし、それと同時に悪意を堰き止める箍(たが)も失われた。
 
 そして、万が一の時には、全てを手放してでも身を護るよう諭した刀自にさえ、その悪意の実際は読み切れていなかった。であれば尚更、他の誰かが気づけたはずもない。
 水面下で父の周りにいた要人たちと手を組んだ曄子が、母や兄が懸念したよりも更に恐ろしい事を画策していたなどと。
 
 だが、因果応報と言う言葉があるように、不幸にして産まれ持ってしまった歪んだ欲望に寄り、結局曄子は自らも破滅する事になる。
 
 そして、途絶えたと思われたものは、
 
『本当に必要なものであるなら、どんな形であろうと必ず残る』
 
 松宮家の人間が代々伝えて来たように、その歴史は思いも寄らないルートで繋がり、続いて行く事になるのである。
 例え、名も家も失われていても。
 
 
 
 
 
〜おわり〜
 
 
 
 
 

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