夢待人〔転編〕
まるで、これが合図であるかのようだった。
イメミの脳裏には、これまで不思議に思っていた桐吾(とうご)の言動が一気に甦り、あれはやはり偶然ではなかったのだ、と確信する。
「前にも仰いましたよね……私の名前のこと。それだけじゃない……あの本のことも。何故、ご存知なんです」
少し睫毛を伏せ、納得するように小さく頷いた桐吾は、呼吸を整えようとしたのか、一度大きく息を吸い込み、そして吐き出した。
「イメミちゃんの名前、本当は漢字でしょ?」
イメミの息が吸い込んだまま止まる。目を見開いた顔を見、桐吾はさらに目を細めた。
「漢字で書いても、いつも正しく読んでもらえない、だからカタカナで書くことにした……違う?」
「どうして……」
瞬きを忘れて桐吾を見つめる。
「イメ……上代語の夢……イメミ……夢を見る、人……」
「……桐吾さま……」
自分の名の由来を、意味を、正確に言い当てられたのは初めてだった。
「初めて逢った時、すぐにわかった。この人は濱坂(はまさか)先生のお嬢さんだ、って。さすがに先生が名付けただけのことはある、先生の娘さんだけある、って思った」
「父を……父をご存知なんですか……!?」
以前、桐吾にもらった『夢導きし──夢見し者よ』は、既に絶版になって久しいが、著者は亡くなった父・濱坂孝三(こうぞう)である。
付け加えるなら、フランス語の『aimer』、つまり『愛』にも準えようとしたらしい、と言うことくらいである。本来は『えめ』に近い発音になるが、『いめ』と重ねたのは父・幸三の出身地で使われる言葉の問題であった。『い』と『え』の発音の境が曖昧なこともあり、それが上代語と相俟って『いめ』になった、と聞かされている。
元々、孝三は学者の卵で、古代語の研究に専念する道を望んでいた。簡単に言えば、それを生活のために諦め、国語の教職についていたのである。著書もいくつかあるにはあるが、売れずにほとんどが絶版になっていた。
『夢導きし──夢見し者よ』は売れた方ではあるが、哀しいかな、出版社自体が潰れてしまっており、つまり、その権利を有する出版社が動かない限り再版の望みはない。
「直接、お会いしたことがある訳じゃない。イメミちゃんのことも、苗字だけじゃわからなかったかも知れない。でも、初めて先生の本を読んだ時から、きみのお父さんはずっとぼくの心の真ん中にいた。だから、すぐにわかった」
父の存在を、それほどに大きく思ってくれている人がいるなどと、イメミはこの時まで夢にも思っていなかった。本も絶版になった今、ますます忘れ去られて行くのが必然であると。
「いつか、目標なんかじゃない夢を、寝ても醒めても見れるに違いない、って思った。その日を待って待って待って……あの日、きみがぼくの前に現れたんだ」
桐吾の嬉しそうな顔に、イメミは申し訳なさでうつむいた。自分は桐吾が考えているような『夢を見る者』でも『夢を導く者』でもないのに、と。
「そして、夜、きみの歌を聴いた時には更に確信した。ああ、この人は、濱坂先生の血を引いているだけでなく、濱坂鏡子(きょうこ)さん……いや、仙波(せんなみ)鏡子さんの血をも受け継いでいるんだ、って……」
新たに出された名に、更にイメミは驚かされる。
「何故、母の名前まで……」
いつものゆるい笑顔を浮かべ、桐吾は思い出すように目を瞑った。
「将来を嘱望されていた、小原(おばら)学園声楽科きっての生徒。間違いなく、日本を代表する歌姫になると目されていた女性(ひと)……そう聴いてる」
心臓が大きく波打つ。
「ぼくの母の実家は、小原学園の理事を務めているんだ。母も学園の卒業生で、在学中に全校生徒の憧れの的だったのが、当時、最上級生だった仙波鏡子さん……つまり、きみのお母さんだ」
イメミは声も出なかった。
「卒業後、海外に留学すると思われていたお母さんは、突如、声楽の道を捨てて表舞台から姿を消した。それきり。だけど、ぼくは見つけた。きみのお父さんの本と出会った時に、きみのお母さんにも」
イメミの脳裏に、両親から聞いていた話が甦る。『夢導きし』が作られた時の逸話が。
始まりは、イメミの母がまだ学園に入学して間もない頃、校内で行なわれた曲の公募。
特に深く考えもせずに応募した母の曲が目に留まり、詞をつけて唱歌として仕上げる、と言う話になったのだと言うこと。一般公募で選ばれた詞は、当時、学生だった父のものであったこと。
『夢導きし』は想像以上の広まりを見せたものの、その当時、イメミの父と母に直接の接点はなく、ただ作詞者、作曲者として名が伝えられただけだった。その後、数年を経てから、父と母は互いに教師として出会ったのだと聞かされている。
研究者の道を諦めて国語教師となった父と、同じく声楽の道を諦めた母は音楽教師として同じ学校に赴任するに至り、そこで名を聞いて互いを知ったのだと。
その後、孝三は書籍として『夢導きし──夢見し者よ』をまとめたのである。
こんな巡り合わせがあるのか、とイメミは思った。まさか、こんな形で両親の過去に触れるだなどと、一体、誰が考えただろう。
「ぼくは、母との思い出がそれほどある訳じゃない。だけど、よく『夢導きし』のレコードを聴いていたことは憶えてる。ピアノを弾きながら、自分でもよく口ずさんでいたことも。同じようには歌えない、って……ちょっと悔しそうに、でも嬉しそうに言ってたよ」
桐吾が遠い目をする。
「イメミちゃんが『夢導きし』を歌ってくれた時、ああ、これだ、って思った。母が生で聴いて忘れられなかったのはこれなんだ、って」
「……そんな……私の声は母のように澄んでいませんし、ソプラノでもありません。全然、違うはずです……」
消え入りそうな声で言うイメミに、桐吾はキョトンとした。
「そう言うこと言ってるんじゃないよ。イメミちゃんの声は落ち着いてて優しくて、すごく耳にも心にも心地いい。ぼくはイメミちゃんの歌の方が好きだな」
一瞬、桐吾に目を向け、すぐに下を向く。
「……そんな……」
ひどく謙遜している中に、仄かに照れている様子が見え隠れするイメミに、桐吾はまぶしそうに目を細めた。
「イメミちゃん、可愛い」
意表を突かれて呆気に取られ、すぐに真っ赤になって下を向く。
「そうやって、からかわないでください……!」
我ながら平凡な顔だと、イメミ本人にもわかっている。
面と向かって不美人と言われたことなどないが、殊更に容姿を褒められた記憶もない。まして、並外れて整った顔立ちの桐吾に言われても、冗談かお世辞としか思えなかった。
「からかってなんかない。イメミちゃん、本当に可愛い」
だが、あまりに自然に、真っ直ぐに告げられた言葉に瞬きが止まる。
直後のほんの一瞬、イメミは自分の頬と唇に何かが触れたのを感じた。それがいつになくあたたかい桐吾の手と、彫像のように形の良い唇であると認識したのは、自分を優しく見つめる桐吾に気づいた時だった。
「…………!」
驚きで意識のスイッチが入り、両手で自分の唇を押さえる。
「イメミちゃん、可愛い」
桐吾がイメミの頬に触れながら繰り返した。唖然として見つめ返すだけのイメミに、再び桐吾の顔が近づいて来る。
触れたと同時に、今度はもう片方の手で引き寄せられて我に返った。
「……! 桐吾さま……! ダメです……! お身体に障ります……!」
押し戻そうとするも、思いがけず強い力で抱きすくめられる。
「イメミちゃんらしいけど、イヤならイヤです、でしょ。お身体に障ります、って男にとっては拒否になってないよ。だって……」
いつものゆるい口調ながら、力がゆるまることはなく、イメミは腕の中から逃れようともがいた。
その時、ふと、イメミの脳裏に健吾に問われた言葉が過ったが、答えを明確な言葉として差し出す暇(いとま)はなく。
「ここで止める方がよっぽど良くない」
「……は……?」
ポカンとするイメミの顔に桐吾が目を細める。
「やっぱり、イメミちゃん可愛い」
桐吾の意味不明の言葉に気を取られた隙に、あっという間に熱に飲み込まれた。
*
翌朝の恥ずかしさと言ったら、言葉に出来ないほどであった。
それでも、初めて桐吾の発作を間近で見た夜以来、イメミは努めて書庫にいる時の様子も確認するようにしていた。今回、たまたま気づいたが、今までにも起きていたはずある。
邪魔をしないよう気を回したことが、却って裏目に出たのだと、イメミは反省した。もちろん、医者にすら治せないものを、自分に何か出来るなどと考えている訳ではない。まして、四六時中、見張るなど到底無理な話だ。
ただ、誰にも気づかれず、ひとりで耐えている姿を想像すると辛かった。出来ることを──そう思っただけである。
せめて孤独感の一端だけでも拭ってやりたいと思いながら、幸いなことに、あの夜から数ヶ月、一度も遭遇してはいない。
この気持ちを何と呼ぶのか、イメミにはわからなかった。
何故か──雇い主側である桐吾を、それ以上にもそれ以下にも考えたことはない──はずだからに他ならない。役目上、そうしているだけのことなのだ、と。
(私はいつまで桐吾さまの傍にいられるんだろう)
時々、ふと、考える。
『傍にいられる』
それ自体が、いつの間にか変化した考え方であることに、イメミは自分でも気づいていなかった。
(旦那様が仰るように、今後のことを考えたら、復学してちゃんと勉強した方がいいに決まってる。でも申し出てくださった条件は、私にはもったいなさ過ぎる……)
菅江家での待遇が如何に高いとは言え、契約がいつ切れるのかはわからない。であればこそ、きちんと卒業して教職に就けば、少なくとも今の状態より安定することもわかってはいる。
(桐吾さまが言ってくれたように、ピアノの練習や勉強、本格的にさせてもらった方がいいのかな……)
寛容な言葉に甘え、本を借りたり、時折りピアノに触れさせてもらったりはしていた。とは言え、のめり込むほど本格的な練習をするなど、さすがに憚られる。
「甲斐甲斐しいね」
ぼんやり書庫から戻る途中、背後から健吾に声をかけられた。
「健吾さま……」
先日、問われた言葉が脳裏を掠める。
「桐吾のことがそんなに心配?」
だが、それも、棘のある健吾の言葉に打ち消された。
「それは……心配です。もしも苦しまれていたらと思うと……」
答えながら、健吾自身は本当に桐吾のことが心配ではないのか、と言う言葉を飲み込む。
「どうせ、誰にもどうにも出来やしない……きみが傍にいたって、桐吾の発作が治まる訳じゃないだろうに」
本当のことだけに、グサリと胸に突き刺さる。
「私の自己満足かも知れないですけど……でも……それでも……」
うつむいて手を握りしめるイメミを、健吾は少し困ったような、バツの悪そうな表情で見下ろした。
「やっぱり、桐吾のことが好きだったのか?」
「そう言うことでは……!」
好き嫌いの問題ではない。自分は雇われている身であり、例えば虫の好かない主であれ心配する立場なのだ、と言おうとして言葉をつぐむ。それが、本当に正しい自分の気持ちなのかわからなくなっていたからである。
自分に向けられたイメミの視線に、健吾はわずかに眉をしかめた。
「いつまで続くことやら……」
「え……」
謎の言葉。
「どう言う意味ですか?」
雇用期間のことを言っているのなら、単にそれだけの話だが、何となく違う含みも感じられた。健吾の表情も相俟って、イメミの胸に不安が広がる。
「桐吾自身を好きだと言うのでなければ、この家の正統な跡取りであることが目当て? それとも、やっぱりあの顔?」
「……な……!」
正体のはわからぬ不安は、健吾の口から放たれたひと言に吹き飛ばされた。イメミにとって、これ以上ないほどの侮辱である。
青ざめて戦慄いているイメミを見下ろし、健吾は素っ気なく背を向けた。
「待ってください!」
それでも、必死に呼び止める。
「いくら健吾さまでもあんまりです。今の言葉は取り消してください」
振り返った健吾の視線は冷ややかだった。その表情に、怒りが恐れと相俟って声も手も震えてしまう。
目に冷たい色を湛えたまま、健吾はゆっくりと近づいて来た。無意識に後ずさると、完全に壁際に追い詰められた形になってしまう。
「違うとでも言うの?」
「違います……! 私はそんな……!」
「じゃあ、何が目的?」
『目的』と言われ、言葉が喉で詰まる。
「目的なんて……」
ただ心配なのだ、という気持ちは理解されないのだろうか、とイメミは思う。そこにわざわざ理由が必要なのか、と。
「……なら、相手がぼくでも、同じように心配する?」
「え……?」
壁に押し付けられた状態で突然訊かれ、言葉の真意を探して健吾を見上げた。すると、確かに先程までそこにあった冷ややかな色は、まるで始めからなかったように消えている。
「……結局のところ、皆が本当に心配してるのは桐吾のことだけだ。きみもね。心配したって始まらないのに……どうせ……」
またも、含みを感じさせる健吾の言葉。そこを読み取ろうとした時、遠くで中西がイメミを呼んでいる声が聞こえた。健吾がフッと小さく息を吐き、離れる。
「健吾さま……!」
もう呼びかけても健吾は応えようとせず、背中を見送るしかなかった。
不思議だったのは、最後に自分に向けた健吾の目。そこには既に負の色はなかった。
(『どうせ』って……何を言いかけたんだろう?)
それよりも気になる、健吾が言いかけた言葉。
「濱坂さん。ちょっと手を貸してくれる?」
「あ、はい。今、行きます」
疑問は解けぬまま、イメミは呼びに来た中西に従った。
*
頼まれた小用を済ませて部屋に戻る途中、健吾の部屋の扉が開いた。とっさに廊下の角に身を引き、隠れる。
「……じゃあ、兄さん。お願いします」
扉の隙間から聞こえて来たのは桐吾の声であった。
「……何でそんなことをぼくに頼むんだ?」
「兄さんにしか頼めないからです」
「自分でやればいいじゃないか。その方が喜ぶだろう」
不思議な会話に耳をそばだてる。
兄弟であれば、本来、特におかしいことなどないやり取り。だが、普段の様子を見る限り、桐吾はともかく、健吾が聞く耳を持つとは到底思えなかった。
「……ぼくは狡い人間ですから。言うべきことを、決して言うべき時には言わない……だから、よろしく頼みます」
変わらぬゆるい口調の後の、時が止まったかのような間(ま)。
「……わかった……」
だが、桐吾の言葉は不穏な空気を含んでおり、神妙な健吾の返事が胸に湧く疑念と恐れを増幅させる。
数秒の無言の間の後、桐吾は静かに扉を閉め、背を預けて溜め息をついた。疲れたような、だが安堵したような横顔を窺う。
(何を話してたんだろう……?)
出て行くタイミングを計りかね、イメミは壁の陰で立ちすくんだ。すると、気持ちを切り替えたように身を起こした桐吾が、イメミの方に歩を踏み出す。
(いけない……!)
立ち聞きしていたことがバレては、さすがに気まずい。イメミは静かに数歩下がると、深呼吸して平静を装った。
「あ、イメミちゃん、ちょうどいいとこに」
桐吾の様子に、先ほどの深刻そうな空気はない。
「はい? 何かご用でしたか?」
「これから、ちょっと出かけたいんだ。付き合ってくれる?」
珍しい、と言うよりは、ここに来て初めてのことだった。
もちろん、桐吾の外出が皆無とは言わない。近所に買い物に出ていることも知っているし、時々、運転手を伴って通院していることもある。そもそも、外出すること自体が稀なのは、体調上の理由であることも理解出来ていた。
「はい。あの、どちらへ?」
「うん、今日は街に出たいんだ。寒いからあったかい格好してね」
「わかりました。着替えて来ますね」
支度をした二人は、車ではなく、駅まで歩いて列車に乗った。
イメミに負けず劣らず、桐吾は地味な格好なのだが、如何せん人目の引き方は並外れている。正直、隣を並んで歩くのが憚られるほどだった。
「文具と新しい本のカバーが欲しいんだ。たまには気分転換に選んでもらおうと思って。自分で選ぶと、いつも同じようなものになっちゃうでしょ」
「確かにそう言うことありますね」
なるほど、と自分が誘われた理由に納得する。ならば今までは誰に選んでもらっていたのか、などとちらりと浮かびはしたが、すぐに打ち消した。そこは訊ねることではないと、さすがに心得ている。
「今日の目標は、予定してるものを全部買う」
『それが目標なのか』と、イメミは吹き出しそうになった。時々、桐吾は『目標』と言い出すが、真面目に言ってるのか未だにわからない。
その時、桐吾が唐突に足を止めた。拍子に、桐吾の背中にポスンとぶつかる。
「あ、まずはここね」
鼻を押さえるイメミに、大きな文具店を指し示した。今まで見たこともないような物が揃っており、物珍しさに目を輝かせるイメミを見、桐吾もまた目を細める。
「じゃあ、これと、イメミちゃんが選んでくれたこれとこれと……よし、この後、お茶でも飲もう。イメミちゃん、甘いもの好き?」
「え、あ、は、はい……」
『目標』が達せられたからなのか、桐吾は普段のゆるさに三割増しの状態だった。始めは入ったことのない店の雰囲気に緊張していたイメミも、物珍しさや、今は運ばれて来た菓子に心ごと解れて行く。
「お珍しいですよね。お出かけになるの」
「うん。前にも言ったけど、別に日常生活程度なら普通に過ごしてていいんだ」
「日常生活……」
「うん。ただ、いつ起きるかわかんないから……薬飲めば抑えられるってもんでもないし。事情を知らない人を驚かせても悪いでしょ。だから、なるべく家でおとなしくしてるだけ」
言葉に詰まった。
「こればっかりは、何だかんだで一生付き合ってかなきゃならないことだしね」
何か言おうとし、だが、言葉が出て来ない。
(この人は、どうしていつもこんな風に、何でもないことみたいな口ぶりなんだろう……)
イメミの様子に気づいたとは思えないが、桐吾がゆるく笑う。
「お茶飲んだら、あと少し付き合ってね」
「ふぁい」
菓子を食べながらの返事に、桐吾が吹き出すのを堪えた。気づいたイメミは、慌ててコーヒーで飲み込む。
「慌てなくていいよ。ゆっくり食べて」
両手で持ったカップの陰から、にこにこと笑っている桐吾の顔を覗いた。本の世界に意識を漂わせている時と同じくらい眩しい笑顔を。
「さてと……」
次に桐吾に連れて行かれたのは百貨店。店内をゆっくり見て周りながら、桐吾があれやこれやと楽しげに話しかけて来る。
「他の店には売ってないものもあるんだよね」
イメミには、さっきの文具店にあったものとの違いがさっぱりわからない便箋なども購入し、桐吾はまた途中の階で足を止めた。慣れない外出に疲れたイメミは、もう何を見ているのかすら興味が湧かず、ガラスケースの中を見て回る桐吾を遠巻きに眺めていた。
突然、何かを見つけたらしい桐吾がパッと顔を輝かせ、店員を呼んでケースから取り出させると、ぼんやりしているイメミに手招きする。
「どうかなさったんですか?」
「うん。これ、綺麗じゃない?」
店員が見せたのは、細身の指輪のようなヘッドが付いたネックレスであった。
「指輪を外せば、ネックレスと別々にお使い戴けます」
「はあ……」
疲れも相俟って、店員の説明に「それが自分に何の関係があるんだ」と言う態度の生返事しか返さないイメミに、桐吾が少し不安げな顔をする。
「これ、嫌い?」
「は? いえ、別に嫌いとか言う訳では……」
「じゃあ、好き?」
「いえ、えーと、あの、この際、私の好き嫌いは……」
「どっち? 嫌い?」
別に自分の好き嫌いなど関係ないだろう、とイメミは思う。
イメミはある意味に於いて、真面目と言えば聞こえはいいが、悪く言えばひどく鈍感でもあった。だが、教職に就く両親と、大勢の弟妹の長女として質素に暮らして来たイメミの感覚だけを責めることは出来ない。
「あの、ですから、嫌いと言う訳では……」
「好き?」
「………………はい……」
嫌いではない、そして、疲れた、が重なり、イメミにはもうこれ以外の答えの選択肢が浮かばなくなっていた。桐吾の方にはパッと笑顔が浮かぶ。
「じゃあ、これを」
「ありがとうございます。では、ただいまお包みして参ります」
当然、店員も嬉しげな笑顔を向けた。
「あ、このままでいいです。ここでつけて行きますから」
桐吾は店員からネックレスを受け取り、自らの手をイメミの首に回した。
「……えっ……!?」
「イメミちゃん、動かないで」
「や、あの、ちょっと……」
「動かないでってば。つけられないよ」
「ちょ、ちょっと待ってください、私……」
「動かない」
「…………」
ほぼ命令調。仕方なくイメミは固まった。
「あれ、動く動かないに関係ないな、うまくつけられない……」
首の後ろでモゾモゾ動く桐吾の手。イメミはくすぐったさと恥ずかしさで落ち着かない。
「お客様、おつけ致しましょうか?」
「いえ、大丈夫です」
堪りかねた店員が助け舟を出すも、桐吾は諦める気はないようだった。即答で断る。
「よし、ついた!」
やり遂げた感満載の子どものような笑顔に、イメミはまたも見惚れた。疲れも吹っ飛んだ気がする。
「うん、可愛い」
途端に、やはり慣れない褒め言葉に恥ずかしさが揺り戻され、慌てて下を向いた。
「お客様、お箱の方は……」
「あ、それだけもらいます。はい、イメミちゃん」
ポンと箱を渡され、両手に持ったままポカンとする。
「あの、あの、桐吾さま……あの、これ……」
「今日のお礼。……と、一緒に買い物した記念」
「で、でも、こんな高価なもの……」
正確な値段など、イメミにわかるはずもなかった。それでも、さすがに高価なものだと言うことくらいはわかる。
「イメミちゃんが受け取ってくれないと、使い手がいなくなって棄てられちゃうよ?」
「えっ!?」
「だって、ぼく、バッチリ素手で触っちゃったもん。もう、売り物にならないよ」
見れば確かに店員は手袋をしているではないか。
「そ、そんな……」
弁償などとても無理だとわかるだけに、目が皿になったり点になったり忙しいこと、この上ない。
当然、桐吾の嘘であったが、陰に隠れて店員が笑いを堪えたことなど、イメミには知りようもなかった。
「そんなの可哀想でしょ? もう、イメミちゃんがつけてあげるしかないよ」
「…………」
目眩がしそうになる。
「よし、帰ろうか」
ひとり満足気な桐吾。
反論出来ないまま、腑抜けたように固まっているイメミを、桐吾が何もなかったように促した。
「ありがとうございました」
嬉しげな店員の挨拶。桐吾もにこやかに挨拶を返し、二人は百貨店を後にした。
「今日は完璧に目標を達成出来た」
上機嫌で前を歩く桐吾の背を、イメミは恨みがましい上目遣いで見ていた。
「……桐吾さまはずるいです……」
「ん?」
ボソリとつぶやくイメミの声に反応はしたが、聞き取ることは出来なかったのか耳を寄せる。
「なに?」
「桐吾さまはずるいです!」
下を向いて訴えるイメミに、束の間、キョトンとした桐吾はすぐに目を細めた。不意にイメミの手を取る。
「…………!」
「そうだよ。知ってたでしょ?」
驚いて引こうとする手を捉えたまま、桐吾はゆるく笑った。
「ぼくが狡い男だなんて、イメミちゃん、はじめから知ってたはずでしょ?」
可笑しそうに言い、イメミの手を握ってそのまま引っ張って行く。
どうしていいのか、イメミにはわからなかった。
桐吾には、既に抱きしめられるやら、口づけやらされている。それに比べたら、手を握られるなど大したことではないように思えるのに、数十倍は恥ずかしいような気持ちになる。
二人に気を留める人間などいない、とわかっていても。一瞬で通り過ぎる知らない人しかいないのに、ここが往来と言うだけで、二人きりの室内よりも落ち着かない。桐吾の手の中にある自分の手が、まるで自分のものではないような気さえする。
(握り返した方がいい? それとも……)
微かに力を入れると、呼応したように桐吾の手に力がこもった。いつもひんやりしている桐吾の手が仄かにあたたまっている。
「今日はありがとう」
さらに不意打ちの言葉。
「……やっぱり、桐吾さまはずるいです……」
イメミの言葉に、桐吾は小さく、それ以上に嬉しげな笑みを浮かべた。高価なプレゼントは心苦しかったが、その横顔に、イメミの心も仄かにあたたまった気がする。
少し汗ばんでいるように感じられるのは、桐吾の手なのか、自分の手なのか。
桐吾の言う『狡い』の本当の意味を、イメミはまだ知らなかった。
~つづく~