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かりやど〔伍拾〕

 
 
 
『 も う も ど れ な い 』
 
 

 
 
零れないように抑えているのか
それとも
既に渇き切って枯れ果てたのか
 
 

 
 

 その日は、ひっそりと、だが昇吾を心から大切に思う者だけが集った。
 

 
 物言わぬ昇吾を連れて戻った美鳥と朗を見た後、春さんはショックのあまり寝込んでしまった。
 美鳥同様、孫も同然に思っていた昇吾の突然の死。しかも、よりによって原因は曄子であると言う事実。
『必ず、美鳥を連れて帰って来るよ』
 美鳥が戻って来ても、昇吾が戻らないのなら、約束は果たされた事にはならない。
 
 朗は朗で、昇吾の事を緒方の叔父にどう話せばいいのか、この段階で話していいのか、ひたすら迷っていた。
 話さなければならない事はわかっている。そして、今話さなければ、最期にひと目会う事すらも叶わない。
 それでも、まだこちらから会いに行く事は出来ない。会いに来てもらうにも、少なからず問題があった。
「……私が言う……緒方の義叔父様には……」
 下をむいたまま、美鳥がポツリと言う。
「……美鳥……しかし……」
「……私を助けてくれたんだもの……昇吾は……」
 どう言えば良いのか迷う朗に、申し出たのは夏川と佐久田であった。
「……緒方社長には、私たちからご報告しましょう」
 まず、夏川が口火を切った。佐久田が黙って同調する。
「……先生……」
 朗がふたりの顔を見つめると、美鳥も顔を上げた。
「……美鳥さまは、まだこれから何かをされるおつもりですね?」
 静かに訊ねる夏川から、美鳥が目を逸らす。答える事が出来ずに。
「……朗さまは、恐らく斗希子さまにも、全てを話してはおられませんね?……もちろん、斗希子さまが察しておられる可能性は別として、ですが……」
「……はい、概要しか話してません。……美鳥の名前などは出さない方がいいと思っていたので……まあ、母の事ですから、大方はわかってしまっているとは思いますが……」
 夏川が頷いた。
「私の予想ですが、恐らく斗希子さまは、ご自分ではわかっていたとしても、緒方社長には何も話していらっしゃらないでしょう。私は、緒方社長とは何度も面識がありますが、巨大グループの長であるにも関わらず、信じられないくらいお優しい方だ……昇吾さまは良く似ていらっしゃる……」
 朗は俯いた。
(……信吾叔父さん……)
 優しい叔父が、悲しみに打ちひしがれ、絶望の淵に沈む様子が脳裏を過る。
「……緒方社長に全てを話せば、あれほど昇吾さまを大切に思っていらした方だ……恐らく、何を投げ出しても助けに行かれたでしょう。……しかし……グループの最高責任者としての責務を投げ出した事で、生涯苦しまれる事になるのは目に見えています……昇吾さまと社員全ての板挟みとなって……」
「……でしょうね」
 佐久田も頷いた。
「……美鳥さまが動きを止めるまでは、昇吾さまの事も、まして曄子さまの事が、下手な形で公になるような事態だけは避けねばなりません。何百人といる社員に影響を及ぼさないために」
 夏川の言う通りであった。
「……ですから私は、昇吾さまと曄子さまの事のみ、事実としてお話しして来ます。今の段階では、美鳥さまの名前を出してお伝えするつもりはありません。その上で、昇吾さまとの対面をどうされるか……その判断は緒方社長にお任せしようと考えています。……それで宜しいですね、美鳥さま?」
 美鳥が顔を上げ、真っ直ぐに夏川を見つめる。
「……でも、それじゃあ……」
 まだ、美鳥は迷っているようであった。本当は自らが、昇吾の父に会わなければならないであろう、と。
「……ならば、今後の行動は諦めますか?……やめて戴けるのなら、私としてはその方が望むところですが……」
 夏川の言葉に美鳥は黙り込んだ。絶妙に痛いところを突かれ、珍しく即答が出ない。
「……先生……お願い出来ますか?」
 言ったのは朗であった。
「……朗……!」
 何か言いたげな美鳥に、やんわりと目を向けて問う。
「……他に良い方法があるかい?……それとも、先生の言うように、もうやめてくれるかい?……無理だろう?」
 黙ったまま下を向いた美鳥を引き寄せ、その頭を胸に抱える。
「……先生……」
 返答も抵抗もない事を確認し、朗は夏川と視線を合わせた。
「……わかりました」
 
 夏川は静かに頷き、佐久田と共に出て行った。
 

 
 昇吾の父・信吾が、姉である斗希子夫婦とその息子たちと共に訊ねて来たのは、夜も更ける頃であった。
 
 ひと目を避け、ひっそりとやって来た五人は、静謐な空気の中、無言の対面に臨んだ。
「……叔父さん……」
 朗の兄弟、甥である陸(りく)と列(れつ)に支えられるように入って来た信吾は、出迎えた朗の顔を憔悴し切った目で見つめた。
「……申し訳ありません……」
 頭を下げた朗に、驚きの目を向ける。
「……何故、お前が謝る事がある……」
「……昇吾を……助ける事が出来ませんでした……」
 声が震える朗の肩を優しく叩き、顔を上げさせ、
「……何を言うんだ……お前のせいなんかじゃない……お前が昇吾のために、いつも全力を尽くしてくれていた事は私が一番良く知っている……お前に出来なかった事は、他の誰にも出来ない事だ……そして、今回の件は、むしろ私の責任だ……曄子を止められなかった私の……」
 昇吾の面影を映す朗の顔を見つめ、自分よりも大きな身体を抱きしめた。
「……お前は……せめてお前たちは、昇吾の分も生きてくれ……決して、私より先に逝ってくれるなよ……」
 朗たち三人に向かって懇願する。
「……はい……」
 小さくなった気がする叔父の身体。朗が強く抱き返すと、横から夏川が、
「……緒方社長……」
 昇吾が眠る部屋へと促す。
 朗に誘われて部屋に入り、恐れるように、躊躇いがちに、横たわる昇吾に近づく。
「……昇吾……」
 呼びかけながら、顔を覗き込む。
「……昇吾……」
 返事はない、とわかっていても。
「……昇吾……すまない……昇吾……昇吾……」
 取り縋って泣く叔父の背中を、唇を噛んで見守る。陸も、列も、そして父も、昇吾の顔を見つめ、頬に触れ、列は明らかに泣いている。
 斗希子は昇吾の両頬を手で挟み、額にそっと唇を落とした。顔をじっと見つめる。
「……こんな風になって……何でこんなすっきりした顔してるんだい、お前は……。……何よりも守りたかったものを守れて満足だ、なんて言わせないよ……最後に生き残ってこその勝利なんだから……」
 斗希子らしい言葉であった。
「……それでも……守りたかったのかい……?……命と引き換えても……まったく、勝手な事を……最後の最後に、私たちの事なんか頭の隅にもなかったなんて……」
 そう言って、自分の額を昇吾の額につけ、目を瞑った。朗たち兄弟が初めて見る、母の悲痛な顔。
 夏川と佐久田も項垂れた。
 
 つら過ぎる短い再会の後、五人はまたひっそりと帰って行った。
 陸に支えられ、部屋を出ようとした信吾が、ふと、何かを感じたように振り返る。
「……叔父さん?」
 陸が不思議そうに同じ方向を見るも、いるのは横たわった昇吾のみ。
「……いや……」
 そう答えた信吾は、陸に促され、斗希子と寄り添うように部屋を後にした。
 
 奥の扉の陰には、五人の様子を窺っていた人影。部屋を出ようとする信吾の背中に向かい、最敬礼をする美鳥の姿があった。
 
 それから二晩の間、美鳥は昇吾の傍から離れなかった。
 誰かが話しかければ反応はするものの、その瞳は対象物を透かして遥か彼方を見ているように浮遊し、哀しみの感情すら読み取れない。食事とシャワーの時以外は昼も夜も、ただただ、昇吾の傍に座っていた。
 朗はその間、ずっと隣の部屋に詰め、美鳥から目を離さぬように、だが、ふたりの邪魔をしないようにしている。時々、昇吾に添うように突っ伏しているのを見つけ、毛布をかけたり、ソファに移動させて寝かせたりもしながら。
(……このままでは、心よりもまず、美鳥の身体が保たない……)
 ただ、それだけが心配であった。
 


 昇吾の埋葬の日。
 
 松宮家──現在は『敷島みどり』が持ち主である施設の、広大な敷地の一角。見晴らしも日当たりも風通しも良い、予め用意されていたような、その場所。
「……ここなら、いつでも会いに来れるね……」
 呟いた朗に、美鳥が頷く。
「……それに、この場所なら撤去もされない……」
 もちろん、それを行なったのは佐久田であろう。
 美鳥と朗と、夏川、佐久田、本多、伊丹、そして看護士数名に見守られ、昇吾の命と身体ははじまりに還った。春さんは立ち会う事が叶わなかったが。
 美鳥と朗をその場に残し、他の者たちが引き上げて行く。
 
 ──無言の時。三人だけの。
 
 ふと、気づいた朗が首を傾げた。
「……美鳥……この隣の場所は……?」
 昇吾の眠る場所の隣に、同じように用意されている様子を感じた朗が問う。
「……そこは私の場所……いつか……私はこの場所で土に還る……。……昇吾の隣で……」
 静かに言う、その横顔を見つめ、胸の内に微かに湧き出す思い。
「……そうか……ならば、こっちの場所……昇吾の反対隣りをぼくにくれないか?」
 この数日で、僅かながら初めて美鳥が感情の色を覗かせた。少し目を大きくし、朗を見上げる。
「……ぼくは、きみの傍にいたい……そして、また昇吾と会いたい」
 穏やかな瞳が美鳥を見つめていた。見返していた美鳥が、微かに睫毛を伏せ、小さく頷く。
「……佐久田さんに……頼んでおく……」
「……ありがとう」
 
 いつか、また三人で──昇吾に向かい、朗は心の内で呼びかけた。
 
 その夜から、美鳥はベッドで眠るようにはなった。だが、朗の不安は拭えない。
 昇吾が死んでから、美鳥は一度も泣いていない。いや、ひと粒の涙も溢していなかった。夜、朗のベッドに潜り込んで来る事もなく、うなされたりしていないか、逆に朗の方が様子を窺いに行く始末である。
(……ひとりで泣きたい事もあるだろう……)
 はじめはそう思ったものの、ひとり泣いている気配も一切なかった。本当に感情が欠落してしまったかのように。
 そんなはずはない、ともわかっている。
 だからこそ、その静けさの反動が朗には恐ろしかった。心も身体も砕け散ってしまうのではないか、と。
 
 だが、朗の心配を余所に、美鳥は着々と準備を進めていた。日々、本多や伊丹から入って来る報告に目を通し、指示を出して行く。
「……最終的には、どこを目指している?」
「……全ての終わり……」
 朗の質問に、簡潔に答えた。
「……終わりって……」
 朗の不安気な顔に小さく笑う。
「……もう、殺すつもりはないよ……」
 そうは言われても、到底安心出来るものでもなかった。
「……黒沼たちを失脚させて、退陣に追い込む……黒沼が倒れれば、後は自動的に共倒れするだろうしね。……でも、今後、二度と立ち上がれないように、手足を捥ぎ取って……そう言う事……」
「………………」
「……何もしなくても、黒沼なんてどうせもう老い先短い事はわかってる。……副島より全然上なんだから。……でも、このまま黙って死ぬのを待ってるだけなんて我慢出来ない。最後の最後に、絶望の底に突き落としてやらなきゃ気が済まない」
 何も答えられなかった。だが、何があっても、どこまでも共に行く、と言った言葉は嘘ではない。それを、うまく伝えられる自信がない朗は、黙って美鳥を抱きしめた。
 『変わらない』──その想いを込めて。
 美鳥も何も言わずに、ただ、その身を預ける。
「……ごめん、朗……この前、言ったように、私はもう途中で手を引く事は出来ない……」
「……わかってる……」
 腕に力を込めながら、朗は小さく答えた。
(家族や自分のためになら引ける。でも、昇吾のためには引き下がる事は出来ない)
 心の中で美鳥がそう言っている事は、充分過ぎる程に。
「……ごめんね……」
「……謝ったりしないでくれ……」
 それしか言えず、それ以上、何も言わせないかのように美鳥の唇を塞いだ。
 

 
「……本多さん、黒沼ってまだかなり自分で動いてるんでしょ?」
「そうですね。自己顕示欲が強いのか、自分でなければだめだ、と言う気持ちが捨て去れないようです。周りにそう言った事をほのめかされると、得意になって出て行くタイプと言えますね」
 返答に頷く。
「……そこ、狙い目だね」
 楽しげに笑う。
「……大勢の見てる前で、何かいろいろ晒されちゃう、とか……」
「耐えられないタイプでしょうね。そして、意外と小心……まあ、だからこそ生き残ってこれたと考えれば、良く言えば慎重なのでしょうが」
「……なるほどね……」
 
 最後を締め括るべく、美鳥は動き出した。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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