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かりやど〔参拾〕

 
 
 
『 も う も ど れ な い 』
 
 

 
 
取り戻せるはずだった美しい鳥は
月の光に拐われた
 
生まれるはずのなかった美しい鬼は
月の光の中で生を得た
 
 

 
 

 翌朝、昇吾が目覚めると、美鳥は腕の中でおとなしく眠っていた。
 
 子どもの頃から変わらない、サラサラのやわらかい髪。青黒く腫れ上がった頬に触れないように髪の毛をなでる。
 優しくなでながら、美鳥を見下ろす昇吾の胸は締め付けられるようだった。透けるような白い肌は無残に変色し、輪郭が変わる程に腫れて見るからに痛々しい。
(……よくもこんな酷いことを……)
 奥底から湧きあがるマグマのような怒りを堪え、美鳥を起こさないようにそっとベッドを抜け出した。
 階下に降りて行くと、リビングのテレビの前では、夏川がひとりコーヒーを飲んでいる。
「先生……おはようございます」
 昇吾の声に振り返り、力なく笑った。
「おはようございます、朗さま。……美鳥さまは……」
「あの後、少しうなされましたけど、背中をなでてやったら落ち着きました。その後は一度も目を覚まさずに……まだ眠っています」
 安心したように頷く。
「美鳥さまにとっては、朗さまが一番の鎮静剤ですね」
 昇吾は苦笑した。素直に喜んでいいものか迷う褒め言葉だ。
「……何か作ります」
「……え……朗さまにそんなこと……」
 恐縮する夏川に笑って首を振る。
「春さんみたいに美味しいものは作れませんけど」
 そう言って昇吾はキッチンに向かった。簡単な朝食を作り、夏川と向かい合って食べていると、耳に入って来たのはテレビのニュース。
 昨夜、昇吾が命じ、本多たちが実行した事件が公になったのだ。もちろん、やるからには本多たちが証拠など残すはずはない。
 食事の手を止め、画面に見入る夏川。ニュースを聞いている限りでは、『グループ同士の諍い』と言う扱いになっているようだった。気づかないフリをしながらトーストを口に運ぶ昇吾。
 わかっていながら、互いに口には出さない。却って空々しいと感じても、口に出してしまえば『目の前の』現実になる。
 
 食事を終えると、昇吾は美鳥の様子を見に部屋へ戻った。静かに部屋に入り、顔を覗き込むと目を開けている。
「……美鳥……翠……おはよう……」
 腫れた頬に、痛まない程度に触れる。
 昇吾に気づいているのか、いないのか。反応はなく、魂が抜けたような目。だが、昇吾はもう動揺したり慌てたりはしなかった。またあの笑顔を取り戻すまで、本当の朗が戻るまで、必ず守ってみせると心を立て直したのだ。どんなに時間がかかろうとも。
(……美鳥は生きている……)
 今の昇吾にはそれが何より大事であり、必要最低限の糧であった。
「……何か食べるか……?」
 反応のない美鳥に笑いかけ、再びキッチンに戻る。口の中にしみないよう、温めにスープを作り、夏川に用意してもらった栄養剤も溶かし込んだ。
「……春さんはまだ休んでいるんだ。あんまり美味しくないかも知れないけど……ごめんな」
 膝の中に抱え、スプーンで少しずつ口に宛てがう。始めは何の反応も示さなかった美鳥だったが、僅かに唇が動いた。息を飲んだ昇吾が顔を覗き込むと、細く白い喉も動いている。
(……飲んでる……!)
 少しずつ、少しずつ、口に流し込んで行くと、それに合わせて美鳥の喉がスープを飲み込んでいるのがわかった。昇吾の目から、ひと筋の涙が伝う。
「……もう少し料理の練習するかな……」
 ひとり言のように呟きながら、本当に親鳥のように美鳥の口にスプーンを運び続けた。
 
 怪我は少しずつ治って行く。だが、痣が薄れても、なかなか美鳥が反応を示す事はなかった。人形のように、ただ、魂を抜かれたような目をして。
 それでも、昇吾が口元に食事を宛てがえば、弱々しい反応であっても返って来る。夜、腕に抱いて眠れば、胸に顔を寄せて来る。
 外界を完全に遮断している訳ではない──その事実は、昇吾や皆にとっても救いであった。
 回復した春さんは、美鳥が食べやすいものを、しっかりと栄養バランスも考えて作ってくれている。
 
 数日後。
 傷の痕が完全に消えた頃、転機の予兆は訪れた。
 
 穏やかな天気の日。
 
 いつものように、美鳥はベッドの上に人形のように座っていた。その傍で『本来、昇吾が行なうべき仕事』を、朗として行なっていた昇吾が席を立ち、部屋から出た直後である。
 
 美鳥が不意に視線を動かした。何に反応したのか、美鳥にしかわからない何か、に反応したのだ。
 少し伏せ気味の硝子玉のような目が、少しずつ左右前後に動き、周囲を見回すように。
 やがて腹部に乗せていた手を動かし、ゆっくりとベッドから降りると、おぼつかない足取りで歩き出した。扉のところで止まり、壁に手を付いて身体を支える。
 僅かに開いた扉。部屋の外では、昇吾が本多と電話で話している。その声に耳を傾けているのか、それとも昇吾の声に反応しているだけなのか。
 ふたりの話が終わる前に、美鳥はふらつきながらベッドの方へと戻った。電話を終えた昇吾は、美鳥が自分で動いた形跡を見て取った。もちろん、扉のところまで歩いた事まではわからなかったのだが。
(座り方が変わってる……!)
 それは昇吾にとって、これ以上ない励みだった。頬をなで、抱きしめる。
「……動けるようになったのか……?……美鳥……ゆっくりでいい。慌てなくても、ぼくはいつでもここにいる……戻っておいで……ぼくのところに……」
「………………う…………」
 微かな声。
「……美鳥……翠……そうだよ。朗だ……ここにいる……ずっと……」
 その時、美鳥が『朗』と言ったのか、『昇吾』と言ったのか、それは昇吾にはわからなかった。ただ、昇吾の中には『朗』として在る自分しかいなかった。
 
 そのことを境に、美鳥は少しずつ周囲の声や音に反応するようになった。会話としてしゃべる事はなかったが、時たま声を発する事もあり、外界と意識が繋がりつつあるのは間違いない。
 美鳥の回復が目に見えた賜物か、私設の内部には和やかな雰囲気が訪れていた。
 
 そんな中、昇吾が考え始めていたのは黒川玲子の事である。
(……このまま済ますつもりはない……実行した奴らへの断罪だけでは済まさない……)
 では、どのように己のした事を償わせるか──その事を考えていた。
 本多の話によれば、美鳥を襲った連中の遺体発見直後は、玲子の周りにボディーガードと思しき男が数人付いていたと言う。
(自覚はあるってことだな……自分のやってる事の……自業自得なのに自分の身は可愛いなんて……勝手なもんだ……)
 あの狡猾で残忍な女にも恐れることがあるのか、と考えると、昇吾は鼻で笑いたくなった。
「……黒川玲子、か……」
 呟いた時、ふと人の気配を感じて振り返ると、扉に手を付いた美鳥が虚ろな目で立っていた。
「……美鳥……!動けるように……歩けるようになったのか……!」
 傍に行き、顔を覗き込む。やはり言葉を返すことはないが、それでも昇吾にとっては大きな進歩であった。
 
 その後もたびたび、美鳥がベッドから抜け出し、中を動き回る様子が看護師たちにも目撃されるようになった。ある時は、休憩中の看護師たちが集まってテレビを見ている部屋の外に、ただ立ち尽くしていた事もある。
 意識的に動いているのかは微妙なところで、正確には『徘徊』に近いのかも知れないが、それでも何かに反応して動いている事は感じられた。
 
 何が美鳥にとっての鍵になったのか、昇吾にもわからなかったが、人の声──特に会話に反応しているようには思えた。たびたびテレビやラジオ、人の会話に耳を傾けている様子が窺えたからである。
 
 そして、ある日。
 昇吾はリビングのソファでパソコンを開き、黒川製薬を含むその他の情報を集めていた。
 傍らにはベッドから連れ出した美鳥が座り、窓の外を眺めている。『眺めている』と言う表現は正しくないのだろうが、外の方に顔を向けている様子は、少なくとも昇吾にはそう見えるのだ。恐らくは、暖かい陽の光を感じているだけなのだろうとは思っても。
 やがて、穏やかな曲が流れていたテレビ放送が終わり、ニュースに切り替わった。
 内容としては、別段、昇吾の関心を引くものではない。ある企業が買収され、権利が他企業の物になった、と言うニュース。事故や傷害などのニュース。そしてドラマや映画の宣伝、天気予報や交通情報など。
「……消すか……」
 昇吾がリモコンを手に取ると、美鳥がじっとテレビの方に耳を傾けているように見える。
「……美鳥……?……何か気になるか……?」
 問い掛けた瞬間、いきなり立ち上がった美鳥が、信じられない速さでリビングを飛び出して行った。
「……美鳥……!?……どうしたんだ……!?」
 慌てて昇吾が追いかける。
 後ろから補助するように付いていると、所々、壁に掴まりながらも自分の部屋に辿り着き、ベッドの上に座り込んだ。深呼吸のように肩が上下している。
 前に回って顔を覗くと、目を見開いたまま瞬きをしていない瞳。
「……美鳥……?……どうした……?」
 昇吾が訊ねても反応はない。だが、何かを考えているような、思い出そうとしているような、そんな様子。かと思えば、周囲を見回すような目の動き。
「……美鳥……!?」
 もう一度、呼び掛けると、じっと昇吾の顔の方を見つめる。しかし、ふっと目線を外したと思うと、また硝子玉のような目に戻ってしまった。
(……何だ……?……美鳥の中で何があったんだ?一体、何に反応したんだ?……さっきのニュース?……いや、特に何か特別な内容だったとは思えないが……)
 考えても結論は出なかった。美鳥にしかわからない何か、なのだ。
 様子を見る事にし、昼寝のためにベッドに寝かせて部屋を出た。
(とにかく、美鳥の中では何か変化が起きていて、きっともうすぐ繋がる……!)
 
 ベッドの上で、美鳥は天井を見つめながら、何かを考えているようであった。その証拠に、眼球が目まぐるしく動いている。
 昇吾の予想は間違っていなかった。美鳥の中では、変化が急激に起きていたのである。
 
 本当に小さな、些細なきっかけが引き金となり、昇吾たちが望んだ美鳥の回復を促す──だが、それが思わぬ方向に向かうなどと、誰も想像出来なかった。
 

 
 それは、見事な月夜であった。
 
 眠っているように見えた美鳥が、突如、目を開いて天井を見つめた。月明かりだけの仄明るい部屋の中で、ゆっくりと起き上がる。
 そのまま、しばらくじっとしていたかと思うと、サイドボードに置いてあった自分の携帯電話を手に取った。画面をじっと見つめる。やがて、思い定めたように電話をかけ始めた。
『……本多ですが……』
 美鳥の携帯電話の番号だったことで、本多が訝しげに応じる。
「……本多さん……?……美鳥です……」
『……美鳥さま……!?』
 本多にしては珍しい驚きぶりであった。だが、本多ではなくとも、まさか美鳥がかけて来たなどと思わなかったであろう。
『……どうされたのですか?……お身体の具合は宜しいのですか?』
 昇吾からも夏川からも、美鳥の肉体的な回復の話は聞いていても、その他のことは聞いていなかった。第一、数日前に本多自身が会った美鳥は、まだ『人形』のような状態だったのだ。
「……うん……かなりね……」
『そうでしたか。それは何よりです。……ところで今日は一体……?美鳥さまが直接ご連絡くださるなど……朗さまに何かあったのですか?』
 本多は、朗──昇吾が本多に連絡出来なくなるような事態に陥ったのかと心配していた。
「……ううん……私がね……本多さんにちょっと訊きたいことあって……」
『私にですか?何でしょうか?』
「……うん、あのね……私が連れて行かれた時のことなんだけど……」
『……は……』
 
 通常、本多にとって美鳥は最大級の主であった。それは間違いなく、昇吾よりも優先されるべきレベルの。
 美鳥の身を守るためであるなら、嘘も裏切りも飛び越え、あらゆる非道な手段も使うであろうし、逆に真実の全てを明かさない事もあるだろう。
 だが、そうとは思えない事態であるなら──。
 
「……そう……。……ありがとう、本多さん。……朗には言わないでね」
『……心得ております』
 
 本多の松宮に対する忠誠は疑いようもない。
 だが、歯車の掛け違いに、誰ひとり気づいていなかったとしたら──。
 
 本多との話を終えると、美鳥は携帯電話を胸に抱いたまま窓の外に目を遣った。
 
 迫り来るように大きく、淡く清冽な月。
 目を逸らすように下を向くと、瞑った目の際が次第に潤いを帯びて行く。
 じっと堪え、堪え切れなくなったのか、湛えた透明な雫を逃さぬかのように天を仰いだ。
 零れ、流れるひと筋の軌跡。次々と後に続く雫たちが、そのまま宙に伝い落ち、床に小さな水の溜まりを作って行く。
 堪え、震える唇から洩れたのは──。
「…………ごめん、昇吾…………ごめんね…………」
 自分にしか聞こえないほどに微かな空気の振動。
 
 美鳥は静かに目を開き、流れる涙はそのままに、月と見つめ合った。
 哀しみを湛えたその雫も言葉も、月だけが知り得る夜──。
 昇吾の知り得る『松宮美鳥』は月の光の中に吸い込まれて消えた。
 
 そして、その日、同じ夜──。
 同じ月の光の中で、美しい鬼は生まれた。
 
 
 
 
 
 
 
 

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