薔薇の下で ~ Under the Rose 奇譚 ⑫ ~
【~Under the Rose~】 秘密で・内緒で・こっそり
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捨て去った名前は
もう自分のものではない
美しい花も
そして 雪も
*
微動だにしない京介(きょうすけ)の、睫毛だけが微かに震えた。
今、彼の中をどれほどの思い出が駆け抜けているのだろう。どれほどの記憶を掘り起こせばいいのだろう。
美花(みか)と美雪(みゆき)。
もう、『私たち』ではない二人のことを。
*
美雪が京介の元を去った時、二人の間には互いに知らない事実が横たわっていた。
それは、本来なら気にする必要がないくらいに小さなことで、『いつもの』二人なら何も起こるはずはなかった。ただ、ほんの些細な噛み合わせのズレで、本当にどうしようもないくらいに外れてしまうものが、あの時には確かにあったのだ。
京介がその『事実』を知ったのは、美雪を失った彼が全てを捨てて町を出た後。何故、自分の元を去る必要があったのかを知るために。そして、もう一度、取り戻すために。
美雪のために着けていた鎧を、彼は美雪のために捨てた。
自分の本質を隠す全てを脱ぎ捨てた京介は、文字通り天性の『魔性の男』だった。しかも、先の先まで見通す頭脳をも持ち合わせた本物の。
身ひとつで故郷を跳び出したことなど何程のものでもなく、二十歳にも満たない少年の皮をかぶっていた分、却って性質(たち)が悪かったとも言える。
生きる糧を得るために、名を変え、素性を隠し、群がる女たちを手玉に取っていた京介。少しずつ増えて行く取り巻きの中には、もちろん大垣の関係者も混じっていた。
彼は、美雪の失踪には絶対に大垣が絡んでいる、と確信していたから、意識的に近づいていたのだろう。
それほどに回転の早かった彼が、何故、美雪が去った理由(わけ)を読み切れなかったのか──それを責めることは出来ない。わかり合っていたはずの二人、だからこそ、互いを想う気持ちを利用されたのだから。
大垣の身辺を探っていた京介は、その女たちからの情報で知ったはずだ。しばらく前に大垣の元に現れた少女が、近々、山際の元に連れて行かれることを。
彼は、即座に動いた。
女に手引きさせて大垣の元に忍び込み、『少女』を探したけれど、見つけることは叶わず──。
知りたくて、知りたくなかった事実、それも断片だけを知った。
美雪に目をつけた山際の息子。
物陰で聞いてしまった会話。
『恋しい男のために身を投げ出すなど、健気で泣かせるじゃないですか』
そのひと言は、美雪が無理やり連れ去られたのではなく、やはり己の意思で姿を消したことを示していた。しかも、それは自分のためだったのだ、と言う含みまでも。
ただ、京介はその後の奴らの会話を聞くことは出来なかった。内線が入って彼らは部屋から出て行ってしまい、にわかに動き出した周囲も相俟って、身動き取れずに潜んでいるしかなくなったから。
でも、それで良かったのかも知れない。もし、そこで彼が事実の全てを知ってしまっていたら──。
彼はその場で奴らの前に姿を現し、殺されていたかも知れない。
『恋しい男が、自分の力を試したがっている。都会に出たいとまで考えているようだ』とデマカセを並べられ、不安を煽られたなどと言う事実を知らずに済んで。
京介が本当は都会に出て己の力を試したいと思っている、などと言う嘘。美雪のために地元を離れられないのだ、などと言う嘘。京介の望む待遇を叶えてやってもいい、などと言う嘘。
いくつもの、想い合う心を翻弄する嘘ではない嘘たちが、ふたりを確実に引き離した。
美雪が唆された理由は、ある意味、無理やりとも言えるほどの強制感を持っていた。しかも、その原因が自分の心の奥に潜む、微かな願望であったのだ、と知ったら、さしもの彼も逆上していたかも知れない。
幸か不幸か、京介がそれを知るのは、彼が大垣と山際を追い詰めた時だった。
*
「……美雪は、ぼくの心の奥の奥を先読みして……いや、先読みし過ぎて姿を消してしまった。それは、ぼくの責任だ。わかってくれている、などと勝手に思い込んで、きちんと全てを言葉にしなかったぼくの……」
そう。彼が辿り着いた時には、全てが終わっていたのだから。
山際を追い落とし、やっとの思いで迎えに行った京介は、美雪が死んだと言う話と、大垣たちの卑劣な唆しを知った。詫びることも、自分の気持ちを伝えることすら出来ずに、ただ事実だけを。
「美雪はどうして死んだ? 奴らに殺された……訳はない。山際の手助けをした『奴』は、美雪を手に入れたかったんだろう?」
「……美雪の母方の実家の前主、つまり美花の曽祖父でもある人は、政界にも意見出来るほどに通じている人物だったわ。結果的に、その権勢は次世代まで続いていた。何かのキッカケで、“あの男”は美雪がその直系であることを知ったのだと思う」
「それは……」
京介には、美雪の母親の家系だとピンと来たようだった。とは言え、まさかそこまでの家柄とも考えていなかっただろう。
「美雪を手に入れたい理由は、単に気に入ったから、だけではなかった、と言うこと……」
京介の目が見開かれた。
「いや……」
けれど、すぐに首を振るように下を向き、拳を握りしめる。
「結局、始まりはぼくだ。それは変えようのない事実だ……」
『違うわ!』
思わず、そう口走りそうになった。言ったところで、気休めにすらならないとわかっていて。でも、今の私の立場では言えない。言うべきではない。
「貴方が山際を追い落とすと、息子は美雪を置いてさっさと逃げた。そして、山際は命乞いのために美雪を売り、まさにそのタイミングだった。取り残された彼女の前に、美花が姿を現したのは……」
京介の目線が上がった。上目遣いで私を見据える。
「……美雪を助けるために? 一体、どうやって……?」
「駆け落ち同然で実家から離れた両親に、のどかな田舎町で育てられた美雪と違って、美花はその家に相応しくあるように教育されていた。少女ながらに、ありとあらゆる手段を駆使して美雪の行方を追って、追って、追って……」
「見つけた? 美雪を……」
私は下を向いた。即答出来ない私を見つめ、京介が返事を待っている。
「……ええ……」
「何故、その大層な“家”に助けを求めなかったんだ?」
「それは……」
当たり前の質問なのに、答えることを躊躇う。でも、このことを知れば、京介の罪悪感は少しは軽減されるのだろうか。
「家が……美雪を助けるために動くことはない、とわかっていたから」
京介が息を飲んだ。
「そして、美雪自身もそれをわかっていた。自分は厄介者でしかない、と。家に恥をかかせたとして、母親は縁を切られていたし、自分のためになど指一本動かさないことなんて想像がついた。そのまま、また別の男に利用されるのか、それとも……そう考えあぐねていた矢先だったから、美花が自分の目の前に現れた時は、信じられないものを見たように驚いていた」
「だが、よしんば美雪を連れ出せたとして、その後、どうするつもりだったんだ? 女二人、しかも20歳そこそこの……一生逃げ続けるなど容易じゃないはずだ。第一、美雪がおとなしくついて行くとも思えない。きみを確実に逃がす方に全力を傾けるだろう」
京介がそう考えるのは自然だろう。
「……大切な男(ひと)が故郷を捨ててまで捜している、と……手筈は整えてあるから、どこか遠くに二人で逃げろと……美花は美雪を説得した……」
京介が硬直した。
「……ぼく……? ……知っていたのか……その頃からきみは……ぼくの動きを……?」
「ええ……」
「……手筈って……一体、どうするつもりだったんだ……? いや、それ以前に美雪は納得したのか……?」
「近しい親戚筋の女性が、実家とは比べ物にならない大財閥に嫁いでいて……そこに頼ったの。良心的なその家は、快く力を貸してくれた。それで、『もう、貴方に合わせる顔などない』と頑なに拒む美雪を無理やり連れて逃げて……」
その後の顛末は、彼にも予想出来たのだろう。
さっきよりも大きく息を飲む音、そして、目の端に映る震えるこぶし。
「……逃げ切れなかった……?」
「……ええ……」
「……どこで……」
「……わからない……無我夢中で逃げて、追い詰められそうになって……彼女は私を振り切って、そして目の前で……」
それ以上、言葉に出来なかった。
必死で手を伸ばしたけど届かなかった。自分のいる場所すらわからなくなり、途方に暮れていたところを、協力を約束してくれた人に発見され、保護されたのだった。
「じゃあ、きみの背後にいるのは、その親戚筋の人なのか……?」
「……正確には、その人たちのツテ、よ。でも、そうね……山際を逃がした代議士を押さえてくれたのは……」
息を止めていたかのように、京介は大きく息を吐き出した。
「山際はどこにいる……?」
訊かれると思っていた。奴が生きていた、と話した時から。知れば、京介が見過ごすはずはないとわかっていたからこそ、先に片をつけなければならなかった。
「旅に出たわ。永遠に戻らない旅に……」
「………………!!」
驚きで見開かれた目に、私は『薔子』としての顔を向けた。やっと、終わらせる時が来たことを確信しながら。
「終わらせる、と言ったでしょう? 今日で全て終わり……貴方の役目もここまでよ」
僅かに見開かれた京介の目。瞬きも忘れ、私たちは互いの瞳の中に映る己の姿を見つめる。
「……ぼくを……殺すのか……? 証拠隠滅のために……」
感情の色のない京介の言葉に、私は薄らと口角を持ち上げて睫毛を伏せた。
「そうね……『並木京介』には死んでもらうしかないわね」
その言葉に驚くでなく、怯えるでなく、京介は黙って私を見つめている。けれど、もう京介の視線に飲まれたりしない。京介がそうであったように、私も引き返すことは出来ない。
「……美雪が……もう確実にこの世にいないことがわかったんだ……後は心残りなどない」
ポツリとつぶやいた彼の言葉に、私は足を一歩引いた。
薔薇の花が見守る下で。
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