かりやど〔四〕
『 も う も ど れ な い 』
*
何故、いけない
わからせようとすることが
*
副島(そえじま)と対面を果たした二日後の朝。
朝といっても『ブランチ』と言える時間ではあるが、リビングで朗(ろう)の淹れたコーヒーを飲みながら、翠(すい)は新聞3紙に目を通していた。
「……北進ガスはどうですか?」
トーストにバターを塗りながら訊ねる朗に、翠は楽しげに唇の両端を持ち上げる。
「いい線行ってる。あの男が専務になる社ってどうかとも思ってたけど……意外と遣り手なのか、それとも他に切れ者がいるのか……」
「……では、どうします?」
朗の質問に、翠は少し考える様子を見せ、
「……今日の手応え次第かな。使えそうなら継続、そうじゃなければ……」
そこまで言って言葉を止めた。
「……予定通り……ですか?」
躊躇いがちな朗の問いに、
「当然、そうなるね」
新聞に目を落としたままの返事。
その言葉の調子は、「今日、面白そうな番組ないなぁ」という程度の意味合いしか持っていないかのようで、訊ねた朗の方が手を止め、半分目を伏せてしまう。
「……副島の集まりに参加する前に、もうひとり……堀内の件も片をつけておきたいしなぁ……どうしようか……」
朗の様子など気にも留めず、ひとり言のように呟くと、自分の前に置かれたトーストを齧る。
「……まあ、今日のことが済んでからでいいや」
結論付けて新聞を置き、オムレツと野菜が乗った皿を引き寄せた。フォークでトマトを口に運びながら、動きを止めたままの朗を見上げる。
「……冷めるよ」
自分が作った訳でもない、翠の講釈が如き言葉。ネジを巻かれたように反応した朗は、向かいの椅子に腰かけた。コーヒーをひと口含み、再び黙り込む。
「……何かあったの?」
オムレツを頬張りながら翠が訊ねるも、
「……いえ……何も……」
俯いたまま言葉を濁すだけだった。
「……ふーん……」
相変わらず、それ以上は干渉しない翠ではあったが、『何かがあった』ことは察知し、食べながら時たま朗に視線を送る。
とは言え、直に食べ終えてしまった翠は、同時に気持ちも切り替えてしまったようで、
「ごちそうさま」
そう言って食器を持つと、さっさとキッチンへ消えた。
翠の背中を見つめながら、朗は日課のように溜め息をひとつ。
夕方、坂口に会うための準備──主に変装であるが──を終えた翠がリビングに姿を現すと、マイクなど備品を整えていた朗がイヤリング型のマイクを差し出した。
翠は受け取ろうとはせず、代わりに朗に向かって耳を突き出す。一瞬、動きを止めた朗は、小さく溜め息をつき、差し出された耳にイヤリングを着けてやった。すると、さらに反対側の耳も向けて来る。
呆れた表情を浮かべながらも、結局、朗は翠の両耳にイヤリングを着けてやった。翠は悪戯っぽい目付きを向け、からかうように口角を上げる。
「……イヤリングくらい自分で着けてください」
諦めが混じった朗の言葉尻。だが、見下ろすその目を、白い首筋に映えるイヤリングの煌めきが射る。
思わず目を細めた朗の首に、翠の両腕がするりと巻き付いた。半ばぶら下がっている状態の翠が首を傾げ、突っ立ったままの朗の顔を見上げる。
映しているはずなのに何も見ていないかのような、どこか定まらない硝子玉のような翠の瞳。やがて、その瞳が朗の目を真っ直ぐに覗き込んだまま近づいて来る。
「……翠……!せっかく化粧したのに落ちてしまいます……!」
「……つけ直すからいい」
押し留めようとする朗に言い返すと、翠はそのまま唇を重ねた。
やわらかい唇が、しっとりとした小さな舌が、朗から抗う気力を奪い、リビングの中でふたりの呼吸音が重なって溶け合う。夢中で求めあっているうちに、いつしか周囲の音は色を失っていた。
翠の唇から洩れる吐息だけが朗の耳に響き、否応なしに昂らされる心と身体。知らぬ間に、翠の身体を折れそうなほどに抱きしめている腕。
息が上がる程に繰り返された口づけの後、何事もなかったかのように翠は口紅を引き直した。それを眺めながら、朗は自分の唇を拭う。
それからすぐに、「じゃあ、先に出るから、後はよろしく」と言い、翠は予定通り部屋を出て行った。
残された朗は準備を終え、出かける直前、暗い瞳で携帯電話の受信メールを開く。最新の着信メールは、先日も連絡をよこしたかつてのバイト仲間の女性。
『お疲れさまです。お仕事がお忙しいとのことですが、今回は玲子の三回忌と言うことで、当時の仲間たちとお参りに伺おうと話しています。少しだけでも、ぜひ参加してもらえないでしょうか。きっと彼女も喜ぶと思うので。──承子(しょうこ)』
その文面を見つめたまま立ち尽くしていた朗が強く目を瞑る。
「……三回忌……二年……あれから……」
苦し気に呟き、やがて思いを断ち切るように頭(かぶり)を振って瞑目を解いた。手短に返信し、送信されたのを確認すると全ての痕跡を削除する。いつものように。
履歴が消えた画面をしばらく見つめていた朗は、準備した荷物を持って翠の後を追った。
*
坂口と最初に会った高級ホテルのフロント。
約束の19時までは30分程度と言う時間、翠は鍵を受け取ると最上階のレストランへと向かった。
夜景が美しい窓際の席に通されると、翠はまた硝子玉のような目で眼下を見下ろす。
「……きらびやかにコーティングされた世界なんてまやかし……」
そう言うと、耳たぶに着けているイヤリングにそっと触れた。
「……だけど、これが現実……」
声が薄れ行くと同時に、硝子玉のようだった翠の目が、ふいに強烈な光を帯びる。が、それも一瞬だけで、すぐにその瞳は浮遊感を湛えるものに戻ってしまった。
「……朗……」
脈絡もなく、ふいに呟く。何を映している訳でもなく、目線をどこか遠くに漂わせながら。
──と、その時、ボーイに案内された坂口が姿を現した。
目の前の現実に戻った翠は、坂口の姿を見て危うく吹き出しそうになった。恐らくは本人が持っている中で、一番良いスーツを選んで来たのであろうが、見え見え過ぎて滑稽なのだ。
(初デートに気合いを入れる十代みたいなことされても……ねぇ)
笑いを噛み殺しながらイヤリングのスイッチに触れた翠は、徹底的に食事と表向きの談笑に興じた。
それにしても、坂口はわかりやすい男であった。食後の妄想で既に頭の中がいっぱいらしく、気もそぞろ、と言った様子。
(……このまま放っておいてもいい程度の男ではあるけど……)
脳内で坂口の質を測っていると、ふと、耳に飛び込んで来た名前が翠の心を引き付けた。
「……副島先生の集まりに出席されるなら、ぜひ堀内社長ともお近づきになるといいですよ。先生の懐刀と呼ばれるお一人ですから。秘書の隅田くんも中々の切れ者で、懇意になっておいて損はないと思います」
(……堀内の秘書の隅田……)
翠の機嫌を取ろうと出した話題なのは見え見えである。が、情報網として使うメリットはあっても、口が軽いデメリットが高いことも間違いなさそうな男であった。
「……ご親切にありがとうございます」
口先だけの礼の言葉に、ひとり満足気に頷いているところは単純過ぎて憎めなくもなかったが。
「……そろそろ場所を変えましょうか」
いい加減、終わらせたくなって来た翠の言葉に、坂口の喉がいよいよ大きく波打つ。
「は、はい……!」
わかりやすい反応を示す坂口を、翠は用意していた部屋へと誘(いざな)った。部屋の前に立つと、坂口は驚いた顔を見せる。
「……この部屋は……」
「どうかなさいましたか?」
翠が問うと慌てた様子で、
「い、いえ、何でもありません……」
そう言って首を振った。わざとらしい程に。
(『重要案件』の時には、いつもこの部屋を使っていることなど、とっくに調べはついておりましてよ、坂口専務さん。先日、お持ちだった鍵のナンバーもこの部屋のものでしたわよね)
心の中では失笑した翠が、
「……では、どうぞ」
笑顔を張り付けて促すと、すぐに期待でいっぱいの表情に戻り、室内へと足を踏み入れた。
『先日』と言うのは、もちろんふたりが初めて会った時のことである。坂口が条件を提示した際に、指の隙間から見せた鍵の部屋番号までも翠の目は捉えていた。
(さて、どうしようか)
浮かれている坂口の背中。眺めながら思案する翠の口元が妖しく微笑む。
後ろから部屋に入った翠は、静かに扉の鍵をかけた。
*
翠の後を追いかけていた朗は、ホテルから程近い駐車場へと車を入れた。
目立たないよう隅に停車し、遮蔽してあるバックシートに移って、用意して来た荷物の中から機材を取り出す。イヤホンを着けてスイッチを入れると、翠の声と坂口の声が流れ出した。はっきりと聞こえるふたりの会話に、朗はじっと耳を傾ける。
『……副島先生の集まりに出席されるなら、ぜひ堀内社長ともお近づきになるといいですよ。先生の懐刀と呼ばれるおひとりですから。秘書の隅田くんも中々の切れ者で、懇意になっておいて損はないと思います』
得意気な坂口の声。
「……堀内の秘書……使えるか……?」
翠が反応したのと同じ箇所に、朗もまた反応して呟く。
その後、すぐに会食が終わったようで、ふたりの移動に合わせて朗も動き出した。必要な荷物だけを担いで車から降り、駐車場を出ようとした、その時──。
「……小松崎くん……!」
朗の足が止まった。
瞬きも呼吸も、全ての機能が止まってしまったかのような身体。かろうじて顔だけを、声のした方へと向ける。スローモーションのように。
「……小松崎くん……よね……?」
呼びかける女に、朗は見覚えがあった。
それは、今、一番会いたくなかったうちのひとり。そして、二度と関わりたくはなかったうちのひとりでもあった。
「……堀内……さん……」
呟きのように小さな声を発する朗に、
「……こんなところで会えるなんて……」
『堀内』と呼ばれた女が嬉しそうに笑いかける。
まるで、魂を抜かれでもしたかのように、朗はただ呆然と女の顔を見つめた。
つい数時間前に、自分にメールを送って来た相手──かつてのバイト仲間のひとりである堀内承子(ほりうちしょうこ)を。