里伽子さんのツン☆テケ日記〔8〕
ウン年ぶりに涙なんか駄々洩れた翌日、つまり金曜日は、泣き目をひかせるのに必死だった。幸い、誰にも指摘されることはなかったから気づかれてはいないと思う。
何しろ私が泣き腫らした目なんかしていたら、絶対、各方面からツッコミが入ったはず。そして社内中をあらぬ噂が駆け巡ったに違いない。想像しただけで恐ろしい。
ただ、別に泣いたお陰ではないし、何かまだ頭の中がゴチャついて整理がつかないけど、ひとつだけ、ハッキリとわかってしまったことも間違いない。北条くんのこと、片桐課長のこと、私の中で結論が出てしまった。
それは、私は北条くんではダメなんだ、と言うこと。……ううん。北条くんに限ったことじゃない。私、この十年以上、何をしてたんだろう。人のことなんか言ってられる立場じゃなかった。
そんな風にモンモンとしていたその夜、なかなか寝つけないでいた私に課長がくれたメール。課長が意識しているのかどうかわからないけど、自分で思ってる以上に私の心を読まれている気がした。
でも、イヤじゃない。それが。何故か。
これが、きっと、『心まで守られている』感覚なんだろう。
そして土曜日の夜には、課長は今度は電話をくれた。もう日付が変わるか変わらないか……くらいの時間だったから、ホントに寝る前の挨拶程度だったけど、それだけですごく安心できて。
つくづく読まれてて、やっぱり敵わないな、って思う。
実は、課長から電話をもらう前に、北条くんからメールが入ったのだ。
『すみませんでした』
━ひと言だけ。
でも、それだけで彼の心情はちゃんと見えた。本心から私を想ってくれていたらしいこと。そして、心から謝罪してくれていること。
まあ、あれで逃げれてなかったら、さすがにそうは思えなかっただろうけど。そうしたらきっと、課長のところに逃げ込むことも出来なかった。とてもじゃないけど。
そして日曜日の夜、課長は前夜よりかなり早めに連絡をくれて、急な出張が入って木曜日まで戻れないこと、金曜日のことは帰社してから伝えるということを、ちゃんと説明してくれた。
それでも、木曜日まで逢えないのか、と心のどこかで何となく不安な気持ちになる。たかだか4日の短期出張。私たちの仕事にしては短い部類に入る。それなのに━。
一度、守られていることを自覚した心はこんなにも脆い。
こんな情けないことじゃダメだ、と心を奮い立たせる。
「そうですか。木曜日ですね。お気をつけて」
帰社までの無事と仕事の成功を祈りながら、私も目の前のことを頑張っておこう。
*
片桐課長が不在の米州部は忙しそうだ。半分、気楽なところもあるのかも知れないけど、仕事的にはかなり大変だと思う。特に朽木くんは必死な様子が伺えた。
それでも何とか、根本先輩について行ってるのがわかるから、やっぱりあの子は新人にしてはデキる子だと思う。
それだけのことを、課長は当たり前のようにいつも背負っているのだ、とつくづく思わされる瞬間。
(知れば知るほど……敵わないよなぁ……)
いや、ホントに勝とうとか思ってるワケじゃないんだけど。
そして、夜、ひとりになると迷う私。課長が私にしてくれたように、連絡してみようか、それともするべきではないか。……迷ってる時点で、やめとけ、なんだけどさ。
たぶん、課長は遅くまで仕事だろうし、しかも平日だから翌日のことを考えてくれてると思う。その証拠に、日曜日の電話を最後に連絡はないから。
用事もないのに連絡なんてしたことない私は、当然、こんなことで迷ったことがない。瑠衣にはよく『素っ気ない』だの『親身になって聞いてくれてない』だの文句を言われたっけ。
結局、連絡をしないまま木曜日。夜、連絡をするのしないの迷い続けたお陰で、何となく寝不足気味なのは否めないけど、こんなことでいちいち考え込んでる場合じゃない。そう思いながら仕事に集中していると、昼をだいぶ過ぎた頃、朽木くんが大部屋から出て行くのが目に映った。
(ずいぶん遅いお昼じゃない?……あ、課長を待ってはいたけど、お腹空いてガマン出来なくなったのか)
目的は違えど、待つ身は同じ……そんなことを考えたら、何となくおかしくなる。実際には、彼らの方が仕事がかかっているワケだし切実なはず。しかも、何か厄介事が起きているらしいことは、この間、朽木くんの様子が少し変だったから薄々気づいてはいた。
あの子は何を考えているのかわかりにくいタイプではあるのだけど、やっぱり、まだ業務的にはほんの数ヶ月の新人だ。何かあれば不安気な様子が見え隠れする。この4日間、課長が不在だったことで、そのことが顕著に見て取れた。
頭の片隅でそんなことを考えながら仕事を片づけていると、目の端に、入室してくる片桐課長の姿が映った。バカみたいだけど、一瞬、心臓が跳ね上がったような気がする。
ちゃんと平静を装おうとしながら、軽い会釈で挨拶するのがやっとなのが情けない。でも課長は目で頷き、いつもの明るい笑顔を向けてくれた。たったそれだけのことで、重い曇天が一気に晴れ間に取って代わったように感じる不思議。
私は口元が綻びそうになるのを堪え、追いかけそうになる目を必死にパソコンに戻した。すると、程なく朽木くんが戻って来たのも目に入る。彼は米州部の方ではなく、何だかこちらに向かって歩いて来る……みたいなんだけど?
「今井先輩」
呼びかけられて顔を上げる。
「どうしたの?」
「先輩にこないだ教えてもらったアレ……実家に送ったら母が大喜びでした。ありがとうございました」
「あぁ、そうなの?それは良かったわ」
思わず顔が綻んだ。朽木くんが言ってる『アレ』と言うのは、私が気に入って取り寄せてるドライナッツやドライフルーツのこと。国内ではなかなか入手出来ないのが難点だけど。
朽木くんからご家族に何か贈りたいと相談を受けた時、たまたま購入したばかりで手元にたくさんあったから、試しに、といくつか譲ったのだけど、どうやらお気に召したようだ。
そんな話をしていると、ふと、視線を感じる。視線を巡らせると、米州部の方から課長がものすごい形相でこちらを睨みつけていた。
(あっちゃ~)
こ、こ、こ、これは、まずいんじゃない?朽木くん。
「朽木くん。先に戻らないと、ほら……課長が痺れを切らしてるわよ」
小声で言いながら後ろを促すと、
「えっ?」
米州部の方を振り返った朽木くんはギョッとしたように目を見開き、一気に「ヤバい!」と言う表情になる。
「うわっ!課長、いつの間に戻って……!今井先輩、ありがとうございました!失礼します!」
そう言って、コメツキバッタみたいにペコペコしながら走って行く朽木くんを眺めるフリをしながら、私は米州部の方を窺った。
何となく不穏な空気。朽木くんが課長に何かを言っている。きっと、この間から気になっていた件だろうけど、課長も何だか深刻そうな表情に変わったのがわかる。……それにしては、途中で朽木くんの頭を一発ポカッとやっていたのは何だろう?
(何があったんだろう?)
何となく気になる。まあ、気になったからと言ってどうなるワケでもないので、私は再び仕事に集中した。
夜、私が帰る用意をしていると、米州部はまだバタバタしている。課長が不在の間に溜まった処理に追われているのだろう。
「お先に失礼します」
小さく呟いて退社した。
ぼんやりと電車から外を眺めながら、課長の無事な姿を見ただけで、もう明日のことなんてどうでも良くなっていることに気づく。風景の一部として流れて行く、誰の家かもわからない窓の灯りが、昨日よりも優しく暖かく見えた気がした。
ここ何日かぶりの穏やかな気持ちでベッドに入る。まだかなり早い時間だけど、寝不足感を否めない私はすぐにでも落ちそうな気がしていた……のに。
これが、なかなか寝つけない。心とは別に、頭の中は興奮しているのだろうか。寝返りを打ちながら目を瞑る。
(ダメだ、眠れない……)
明日の眠気を考えると切実だ。すると、突然、携帯電話に着信。
びっくりして起き上がり、ランプが点滅する携帯電話を見つめる。
普段、マナーモードにしていることが多いから、ある程度の人は、着信音ではなくて着信ランプの色で判別できるように設定している私。点滅しているその色で、片桐課長からのメールであることに気づく。
確認すると、明日のこと。
『遅くなってすまない。明日は近くの店で食事しよう。ちゃんと予定を立てられなくて本当にすまない』
画面を見つめたまま、私は少しの間、身動きひとつ出来なかった。……この時の、この気持ちを何て言えばいいんだろう。
『うれしい』━もちろん、そうなんだけど、そのひと言では到底表せないようないろんな感情が押し寄せてきて。
押し寄せてきたワリに、綺麗なマーブル模様を描いたみたいにまろやかな気持ち。なのに、そのまろやかさに翻弄される。矛盾している、自分の気持ちにかき回される。
携帯電話を握りしめながら固まっていた私は、ゆっくりと返事を打ち始めた。
課長はたぶん、このメールを社から送ってくれたのだろう。帰宅してからならもっと遅いはず。
何回か連絡を取っていて気づいたのは、本来、課長はひとりになって落ち着いてから連絡をくれる傾向があるらしいこと。だから、あまりに遅くなることを避けてくれたに違いない。
だから逆に、私は文面を入力してもすぐには返事を送らなかった。文面と言っても、いつもの通り用件だけ。変に作ろうとすると絶対にボロが出るから。
『おかえりなさい。おつかれさまでした。明日の件、楽しみにしています。おやすみなさい、課長』
これだけの内容なんだけど、送るタイミングだけは私なりに図った。課長からのメールが届いてから、大体一時間ちょっと。課長が帰宅して、落ち着いたであろうタイミングを見計らう。……まあ、外してるかも知れないけど。
課長からの返事はすぐに来た。
『ありがとう。おれも楽しみにしてる。おやすみ』
それを確認し、私は明日、課長に何をどういう風に話すべきか考えながら、再びベッドにもぐり込んだ。
いつもなら考えてる最中に寝てしまう私なのに、その夜は何故か、なかなか寝つけない夜だった。
~里伽子さんのツン☆テケ日記〔9〕へ つづく~
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