背中合わせの心
「わかれよう」
久しぶりに会った彼女に、ぼくはそう切り出した。久しぶりに会ったぼくの顔を見上げ、嬉しそうに笑顔を浮かべていた彼女に。何の前置きもなく。
一瞬にして凍りついた彼女の笑顔。心の中に湧き上がる微かな苦みをかみ殺しながら、ぼくは言葉を続けた。
「このまま続けても、ぼくたちはうまく行かなくなるよ」
こわばった表情でぼくを見つめている彼女のその唇が、微かに震えているのがわかる。と、彼女がその唇から掠れたような弱々しい声を絞り出した。
「どうして…」
見開かれた瞳がみるみるうちに潤んで行く。
ぼくは俯きながら、一番、自分の心にふさわしい言葉を探していた。
「どうしてですか!?私、何か悪いことしたんですか!?何が藤堂先輩の気に障ったんですか!?」
彼女は声を振り絞りながら、さらに瞳を潤ませる。
「違うよ。きみの何が悪いとか、ぼくの気に障ったとか、そういうことじゃない」
努めて冷静に、声音を強めないように意識しながら言葉を発するぼくの顔を、彼女は涙目で見つめている。
「じゃあ…じゃあ、何で…」
唇を噛んで俯いた彼女の顔を隠すように、髪の毛が流れ落ちる。
うまく伝えられるだろうか。ぼくに。彼女を嫌いになったわけじゃない。それなのに別れを切り出さざるを得なかった理由を。
好きとか嫌いとか、いいとか悪いとか、そんなことではない。いっそ、そんなことで気持ちが白黒つくのならどれほど楽か、とも思う。
「私が…いつもいつも…先輩からの返事がなくても連絡するからですか…」
彼女がつぶやくように問う。
「…私がいつも先輩の気持ちを確かめたがるから。だから私のことが…鬱陶しくなったんですか…」
言いながら、彼女の両目は涙でいっぱいだった。
「そうじゃない…」
そうじゃない。ぼくは。
「ぼくは、きみが望むようなつきあいは出来ないんだ…これ以上」
彼女は少しだけ顔を上げ、つぶやくような声で言った。
「…それって、やっぱり私が鬱陶しいってことなんじゃないんですか…」
そうじゃない!ぼくは荒げそうになる声を飲み込んだ。
「私がもっとガマンすれば、このままつき合ってくれるんですか?先輩からの連絡をずっと待って、先輩から連絡をもらった時だけ会って…私が…」
彼女の瞳から、堪えていた涙が溢れた。
「私がもっとガマンすれば…」
堪らずにぼくは言葉を挟んだ。
「…我慢してほしくないんだ」
流れる涙はそのままに、ぼくの言葉に驚いたように顔を上げた彼女は、次の言葉を待っていた。
「きみが、ぼくのこととは関係なく自分の生活を楽しんでいてくれて、その上で楽しみにしていてくれると思えば、ぼくもきみと会える日を励みに…心待ちにして頑張れた。でも…」
自分の気持ちに一番ふさわしい言葉を探す。
「…きみが…ぼくからの連絡を、ぼくと会える日をずっと待っているって言った時…」
どう言い訳しても、残酷で自分勝手と思われるであろう言葉を告げるべく、苦みを無理やり飲み込むような感覚で言葉を絞り出す。
「重いんだ…」
彼女が目を見開いたのがわかった。
「重いって…何が…」
小さくつぶやく彼女の声が胸に突き刺さるようだった。
「きみが我慢していると思うと、きみに我慢させていると思うと辛い…ごめん。ぼくにはそれが…とても重いんだ…」
彼女の顔がクシャと歪み、涸れることのない泉のように涙がとめどなく流れていく。
こんな状況なのに。
彼女の流す涙を見ながら、女の子の涙は宝石みたいだ、なんて。そんなことを頭の片隅で考えてる自分がいて。
「ぼくが就職することになったのは希望していた商社だ。海外赴任も視野に入っている。会う時間もますます減っていくと思う」
言いながら、ぼくは過去のことを思い出していた。
高校の時につき合っていたガールフレンドにも、同じようなことを言われた記憶が甦る。ただ、高校生だったこともあって、大学よりは時間的な余裕もあった。一緒に授業を受けたり、委員会やら何やらで自然と一緒に過ごせる時間も多かった。
何より、今、目の前にいる彼女よりも自分自身の時間を大切にする女の子だったというのもあるかも知れないが、大きな揉め事にまで発展したことはなく、受験や進学を期に何となく離れてしまった、という感じだった。
それでも、そんな彼女にすら何度かは、「連絡が少ない」だの「返事が遅い」だの言われた記憶はある。
その後、大学2年の時からつき合い始めたこの彼女とも、それなりにうまくつき合えていた。と思っていた。少なくとも、ぼくは。
3年、4年と徐々に課題が増え、就職希望の企業へのアプローチ、準備にアルバイト。しだいにやらなければならないこと、優先的にやるべきことに忙殺され、会うどころか連絡すらままならない…いや、正確には疲れて億劫になってしまっていた。
彼女からの着信やメールも、最初は励みになってはいたけれど。
『まだ家に着いていないの?』
『次はいつ会えるの?』
『いつ返事をくれるの?』
『最近、全然連絡くれませんね。私のこと、嫌いになったんですか?』
そんなメールが増えていくにつれ、夜遅くの帰宅も相俟って、ぼくからの連絡は滞って行く。もう電話をするような時間ではない、自分も一刻も早く眠りたい。自分で自分に言い訳をしながら。
そんな状況が続き、それでも何とか週末には返事をしたり、短い時間でも食事をしに行ったり、自分にできる限りのことはしているつもりでいた。彼女もそれはわかってくれていると。
だけど。だけど、ぼくはあの日に思い知ったのだ。
ひと月ほど、週末も会えない日が続いたあの日。彼女から届いたメールに書かれた言葉が、ぼくの心を別れへと傾かせた。
『先輩、ずっと忙しそうですけど、身体は大丈夫ですか?まだまだ忙しい日が続きそうですか?少しでも時間ができたら連絡くださいね。いつでも先輩のこと待ってますから』
その言葉。
『いつでも先輩のこと待ってますから』
この言葉を見たぼくの脳裏には、久しぶりに会えた時に見せる彼女の表情がフラッシュバックした。
最初の頃は、会うたびにいつも見せてくれていた、こぼれるような笑顔と比べて。ここ最近の彼女の、切なげな、どこか物言いたげな表情。
あれは、ぼくに対する無言の抗議。連絡が少なくなり、会う時間が少なくなったぼくへの。
そして、同時にぼくは理解した。
女性はいつでも繋がりを大切にするのだ、と。
いつでも言葉で、態度で、愛情を示されたいのだ、と。
押し黙っているぼくをじっと見つめていた彼女は、涙に塗れた睫毛をそっと伏せて言った。
「…わかりました」
ぼくが視線を動かすと、彼女はこう続けた。
「先輩が海外赴任をしたら…じっと待ってるなんて私には出来そうもありません。きっと先輩がうんざりするほど連絡しちゃうようになってしまう…から…」
そう言いながら、再び顔を歪める。
ぼくは情けなさと申し訳なさでいっぱいだった。こんなことも満足にできない男だったなんて。
彼女が喜んでくれることなんて、本当にちょっとしたことだったのに。
俯いて自分の爪先を見つめるぼくに、彼女は、
「先輩。ひとつだけ。ひとつだけ教えてください」
躊躇うように聞いて来た。
「うん」
そう答えたぼくに。
「先輩。先輩に告白したの、私の方からでしたけど…」
「うん」
「私のこと、好きになっていてくれましたか?…好きでいてくれましたか?」
震える声で彼女は言った。
「好きだったよ、とても。大切に思っていた」
過去形にしていいものか悩みながら、そう答える。
「告白してくれた時、とても嬉しかった」
それを聞いた彼女は大粒の涙をこぼしながらも、嬉しそうに口角を上げた。
「ありがとうございます。それだけで…充分です」
「ごめん…本当に」
彼女は慌てたようにかぶりを振った。
「謝ったりしないでください。先輩のこと、私も大好きでした。先輩とおつき合い出来たこと、私の自慢の思い出です」
彼女はそう言ってくれた。
ぼくたちは、ちゃんと見るべき方向を見ていなかった。
向き合ってもいず、同じ方向を見て進んでもいなかった。
傍にいるだけで背中合わせだった心。
もっともっと彼女に夢中になれれば。もっと。大切に思っていたのは本当なのに。
なのに、昔から何に対しても、誰に対しても、一歩引いている自分を、ついに越えることが出来なかった。今さら何を言っても言い訳だけれど。
送ろうとするぼくを制して、彼女は小さく会釈をして歩き出した。囁くような声で「先輩…大好きです。ありがとうございました」と呟きながら。
小さくなっていく彼女の後ろ姿を眺めながら佇むぼくの前髪を、風が撫でて行く。
この後、数年の時を経て、自分の中の壁をたやすく越えさせる出会いが待っていることを、その可能性があることすら、この時のぼくはまだ知らずにいた。