薔薇の下で~ Under the Rose 奇譚 ⑥ ~
【~Under the Rose~】 秘密で・内緒で・こっそり
***
全ての均衡が
崩れゆく予感
*
京介(きょうすけ)が何かに感づいたようだ。
さすがと言おうか、計画通り、うまい具合に吉岡怜子(よしおかれいこ)を誘い込んだあの夜、私を抱く彼の様子は明らかにいつもと違っていた。
ベッドの中では、常に私に集中している彼。それが、他の何かに思考の一部を捉えられ、心ここに在らずの気配を感じたのは気のせいではないはず。
本来、彼は女に慣れているし、つまり扱いにも長けている。それが高じて、私に弱味を握られたようなもの。そんな彼が、他に気を取られていることを、今、まさに抱いている女に気づかせるはずはない。
(……何があったの……?)
山際産業に関する情報と、京介が今までに誘い込んだ女たちの資料を依頼され、彼に届けた、と調査員から報告を受けたのは3日前。それが無関係のはずはない。
(……山際産業……)
不安が過る。
(もし、京介に私たちの素性が知られれば……)
彼は、知られたくなかったこと、もう二度と触れたくなかったことを自分自身に突き付けなければならなくなり、何より、知りたくなかった事実を否応なしに知ることになり──。
きっと、私たちのことを赦さないだろう。
*
いつものように仕事を終え、私の待つ部屋へとやって来た京介に、彼のお気に入りのスコッチを渡す。受け取った彼は片手で私の腰を抱いて窓際に誘(いざな)い、高層マンションの眼下を眺めた。
琥珀色の液体をひと口含むと、蜜のような光を帯びた氷がカラリと音をたてる。
「………………!」
私は京介の首に腕を回し、彼がそれを飲み干す前に唇を重ねた。隙間なく重なった唇を通して、琥珀の蜜が私の喉を流れて行く。鼻腔の奥に、特有のスモーキーな匂いを残して。
「……薔子(そうこ)……?」
唇を離して見上げると、京介が不思議そうに私を見つめ返した。答えずにいる私の唇から洩れた一筋の蜜に気づき、それを自分の唇で拭う。
「どうした……?」
ほとんど触れているも同然の彼の唇から、熱い呼気と共に言葉が洩れた。
『どうした?』
そう訊かれ、私はどうすればいいんだろう。
何故、山際産業のことを調べているのか問い質すべきなのか。それとも、知らぬふりをして泳がせるべきなのだろうか?
私は一体どうしたいのだろう。何を怖れているのだろう。
彼に真相を知られること自体が怖いのか。
それとも、彼が真相を知ることによって生じることが怖いのか。
「……何故、山際産業のことを調べているの?」
逡巡する間はほとんどなく、何かはわからない勘、のようなものが私を促した。
その瞬間、私を抱く彼の腕と、重なる胸の筋肉が収縮したのが感じられ、反射的に自分の身体にも力が入る。
初めて見る目だった。
怒りでなく、驚きでなく、哀しみでもない目で、京介は私を見下ろした。その唇が、タメを押し出すように小さく動く。
「……己の罪の全てを……知る時が来たのかも知れない」
「……えっ……?」
京介が何を言わんとしているのか理解出来なかった。けれど、考えようした時には、逆に今度は私の方が唇を塞がれていた。
「……んっ……」
いつもの京介の口づけだった。
私をとかす熱。巧者であることを思い出させる唇と指先。
私の唇を捉えたまま、流れるように窓枠に腰かけた京介の手が、脚から力が抜けかかった私を膝の上に引き上げた。
口づけの僅かな合間に必死で息を継ぐ私に構わず、京介の指が背中から腰を滑って行く。シャツの上からなのに、鳥肌が立ちそうなくらいになめらかな動き。
洩れそうになる声を封じられ、酸素と、声の解放を求めて喘ごうとする私の唇はさらに覆い尽くされた。苦しさと眩暈に崩れそうになる身体を支えられ、喉の奥が焼けつきそうなくらい深く押し入って来る。
「……綺麗だ」
意識が遠のくかと思った直前、ようやく解放された唇にかかる熱い息と言葉は、私にはまるで遠くの物音のようだった。朦朧としたままの感覚の中、シャツの裾から中に滑り込んだ京介の手の熱と、もう片方の手が外したボタンの隙間からは、胸元に当てられた唇の熱を感じる。
「……薔子……」
私を呼ぶ息が熱を増した。それだけで身体の芯からとかされて行く。決して焼かず、トロトロと炙る焔のような熱さ。
全てを読む経験値、計算し尽くされた動き。何より、持って生まれたものであろう、女を虜にする魔的とも言うべき力。
何人の女が堕ちたのだろう。
何人の女が貶されたのだろう。
それを知っていて引き入れたのは私。その腕を買ったのは……過去を暴露されるのを怖れていた彼を脅したのは私。
なのに、私の気づかないうちに、彼はその怖れから解放されていた。
京介は、知られてもいい、と腹をくくったのだ。引き換えにして、自分の知らなかった『事実』を知るために。
いつの間にか逆転していた立場。
危険だとわかっていながら、私はまかせた身をとかされて行く。
数日前の迷いなどなかったかのように私を抱く京介は、きっと昔の彼に戻っているのだろう。そう……きっと、私も彼にとっては、かつての標的であった女と何ら違いはないものなのだ。
京介の心を本当に動かせるのはひとりだけ。
もういない、そのひとりだけが全てを彼に与え、そして、彼から全てを奪うのだ。
最後の最後まで彼に追い上げられながら、私は天井から見下ろす薔薇を視界に滲ませ、意識を手離した。
*
京介が彼女の名に行き着いたのは、それからほんの数日後のこと。