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うろ覚え備忘録

 
 
 
今年も8月の半ばを迎え、過去にも何度かあちこちで書いてはいるものの、私の記憶頼りのうろ覚えなことをこれ以上忘れないうちに、また書いておこうと思う。あくまで、聞いた記憶をそのまま書くのみ。

私にとっての『戦争』は遠い。私の歳でさえ、既に遠いものだ。戦中産まれの父でさえ記憶はないそうで、母は完全に戦後産まれなのだから、当たり前と言えば当たり前なのかも知れない。

そもそも、母方の祖母や一番上の伯父からの話でさえ、直接と言うよりは又聞きと言ってもいい。
ただ、当時、新潟・長岡を攻撃すべく向かっていたのであろう米軍機が、今の柏崎の上空を飛んで行く音を、何年経っても忘れることは出来ない、と聞いたことがあるだけだ。

それと、母が5歳の時に亡くなった祖父は出兵中に脚に銃弾を受け、戦後亡くなるまでずっとそれが脚の中に残っていたのだと言う。そのためなのであろう、いつも冷たい脚をしていた、とも聞いている。

これが、父方の話はまた全く違う様相になる。

まだ戦争が始まる前、祖父は仕事の関係で中国・天津へと渡った。それを祖母が追っかける形で、二人は結婚したと聞いている。祖母の父親、つまり私の曽祖父は祖父の勤め先の工場長だったらしく、渡中に当たって独身だと形がつかないだろうと、祖母と結婚することになったらしい。

天津にいる間に戦争に突入し、昭和17年(1942年)に伯母が産まれ、19年(1944年)に父が産まれているが、祖父はそのまま家族を置いて中国から出兵した。いつの段階で聞いたのかは定かでないが、祖母は祖父が戦死したと聞いていたらしい。

その後、終戦を迎え、敗戦国となれば財産は全部没収。それでも、とにかく日本に帰らなければと、昭和21年、祖母は幼い伯母と父を連れ、大連から引き揚げ船に乗り込んだと言う。

この時、祖母は27歳~28歳くらい。

こっそり隠し持っていた氷砂糖(当時は貴重品だった)を厨房の人に渡し、父のために重湯などを分けてもらっていたのだとか。

父は全く記憶にないそうのだそうだが、何となく背負われながら「気持ち悪い」と思った感覚が残っていると言う。恐らく、船酔いか何かの記憶ではないか、と言っていたことがある。

この時、祖母が連れて帰って来れなければ、伯母と父はいわゆる『中国残留日本人孤児』となっていたはずだ。もっと悪ければ、死んでいただろう。そうしたら当然、従姉兄たちも私も産まれていない。本当に運が良かったとしか言えないのだろうと思う。

そして内地(日本)の港に辿り着いた祖母を待っていたのは、戦死したと聞かされていた祖父で、さすがに腰を抜かしかけたとも聞いている。
祖父は戦地で栄養失調になり、戻されたらしい。

お陰で、今の私の自宅住所の場所で、無事に叔父は産まれた。
とは言え、実は産まれた時に息をしていなかったらしく、産婆さんが両足を持って逆さ吊りにし、お尻を叩く光景を障子の穴から覗いていたことは、幼い父の記憶にも衝撃として残っていると言う。

祖父の戦地での話と言えば、私が聞いたことは本当に少ない。

隊の中で1番だか2番目に食べるのが速かったと言うこと。(特に必要のない情報なんだけど、そんな風に早食いを自認していた祖父が、後に母の食べるのの速さに驚いたと言うのでw)

列車で移動中、夜陰に紛れて狙撃された折、床に寝ていた祖父たちは助かったけれど、椅子に座っていた上官たちは撃たれて、そのままの状態で亡くなっていたこと。

歴史の本とか、ドキュメンタリー番組とか映画とか以外、知ってる人から私が直接聞いたことがある話はたったこれだけ。

ああ、あと、強いて言うなら、勤め先のボスが子どもの頃の話。ボスのお父さんの実家がある山梨に疎開していたそうなんだけど、家の庭に爆弾が落ちて来たそうで。
ただ、それはいわゆる焼夷弾ではなく、落とした衝撃で家を破壊するものだったらしく、とにかく重量がすごいのだと。落ちた瞬間、ドーーーーーン! とすごい音と衝撃で、子どもだったボスは身体が跳ね上がり、ボスのおじいさんは衝撃で気絶してしまったと言う。

それでも、無事だったんだから御の字だと、それだけ聞いたことがあるくらい。

もっと壮絶な話が数え切れないほどある中で、この話だけでも、既に私には想像し切れない。

ただ、それでも忘れずにいようと思うのは、亡くなった人と生き残った人がいて、そして忘れ得ないものを抱えて生き続ける(た)人がいて、だから自分が今ここにいると言う事実。
それは、自分のご先祖に限ったことでなく、存在した命すべてに言えることだとも思っている。
 
 
 
 
 
 
 

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