DOLL〜表面(オモテメン)〜
きみを救い出してあげたかった。
こんな牢獄のような場所から
輝く陽の光の下(もと)へ──。
*
父亡き後、何くれとなく世話をしてくれていた男爵に連れられ、郊外に佇む豪奢なその館を訪れたのは秋の入り口の頃。
貴族や金持ちが夜な夜な集う秘密のサロン。仮面をつけていても見目麗しいとわかる男たちにアテンドされる館内、抑えた照明の妖しい雰囲気が纏わり付く。
ぼくはそこで、得も言われぬ、と表現する以外にない人形たちと遭遇した。
美しい顔、豪華なドレス、中には東洋のキモノを纏った絹のような黒髪の人形もいる。等身大のリアルな姿は硬質な硝子のようでいて、血の通っているような生々しさを感じさせる。
富裕層の道楽であることは理解出来た。だが、敬愛する男爵にまでこんな趣味があったのかと、半ば幻滅しかけた時、一体の人形に目を引かれた。
烟るハニーブロンドが艷やかに螺旋を描き、陶磁器のように白く滑らかな肌には、まるで血が通っているかのようだった。何より印象的なのは、淡く澄み、冴え渡る空を映した青い瞳。
今にも動き出しそうな姿。それでいて、感情の襞のない。
……いや、違う。
寂しげな、哀しげな人の感情を、吸い込まれそうな深度の青い瞳に湛えている。
それが彼女──『レベッカ』との出逢いだった。
その美しさよりもぼくを驚かせたのは、精巧過ぎる人形だと思った彼女たちが、実は生きた人間、つまり本物の少女だと言う事実。その驚きの後には疑惑と怒り。
少女たちに売春まがいのことをさせているのか、と憤るぼくに、仮面の男はハッキリと否定を示した。だが、例え売春でなかろうと、こんな愛玩具のような扱いを許せるわけもない。
『こんなところ二度と来るまい。いくら男爵に誘われたのだとしても』
そう決めたはずなのに、レベッカのあの瞳だけが、いつまでも脳裏から消えず──。
このサロンの存在を否定しながらも、ぼくはレベッカの元にただ通い続けた。
何を話すでなく、本当に傍に座っているだけの訪問。
それは不思議な空間だった。
レベッカをただ眺め、独り言のように話しかけるだけの。それでもぼくは、レベッカに何気なく問いかけてみる。何の反応も示さないとわかっていながら。
「……こんなところにいるの嫌じゃないのかい?……こんな愛玩具みたいなことさせられて……ここを出たくならない?」
もし本当は嫌だったとして、正直に言えるはずもないだろう。けれどその時、ほんの僅かにレベッカが首を傾げたのがわかった。恐らく、初対面の時のぼくでは、絶対に気づくことは出来なかった、と言うくらいの動き。青い瞳が仄かに翳る。
「……レベッカ……」
その哀し気な色を見た時、ぼくの決意は固まった。
ぼくはその後、サロンに関する情報を、それこそありとあらゆる手段を使って手に入れた。かなり危険な橋を渡る行為すら厭わずに、綿密な計画を立てながら。
そうして──。
冬のある日、ぼくは実行した。
客が入れ替わる僅かな隙間。その時間を見逃さず、ぼくはレベッカを連れて馬をひた走らせた。遠くへ、遠くへ、出来る限り遠くへ。ただ、彼女を自由にするためだけに。
協力してくれる相手が、途中に手配しておいてくれた馬に乗り替え、落ち合う場所へと無我夢中で馬を駆った。レベッカを連れて行くには馬車の方が良いことはわかっていたが、どう考えても馬の方が速いし、通れる道も広がる。
(……そろそろ橋が見えるはず……渡ってしまえば安全だ……!)
鬱蒼とした森を越えたところに、隣の領地に入る橋があり、そこに辿り着けば逃げ切れたも同然だった。森の切れ目が目の前に近づいたのがわかる。
(……見えた……!)
広がる視界。地面が消えた裂け目が領地の境界線。
「…………っ…………!」
だが、そこに架かっているはずの橋が見当たらない。
(そんなバカな……!)
近づくと、縄を切られた橋がだらしなく吊り下がっていた。嵐で落ちてしまったのか、古くなって朽ちてしまったのか、それともまさか、人為的に落とされたのか──。
どちらにしても、迂回せざるを得ない。ひどく遠回りになってしまうが、果たして約束に間に合うだろうか。
(考えているヒマはない……!とにかく進まなければ……!)
そう思い、手綱を引こうとした瞬間──。
「……随分と大胆な真似をなさいましたね、アンドリューさま」
若い男の通る声。ゆっくりと振り返ると、馬の横に立つ背の高い男。仮面を着けていないが、レベッカ専任の世話係の男──確か『ジェシー』と言ったか。
「レベッカをこちらへ。今なら見逃して差し上げますから、あなたはこのまま遠くへお行きなさい」
何の抑揚もないようでいて、密やかな強制……いや、むしろ脅迫めいた色が感情の底に蠢いている声音。レベッカの肩を引き寄せる。
「……断る!あんなところにレベッカを帰せるものか……!この子たちは人間なんだぞ!」
ジェシーの目が吊り上がった。だが、その口元には妖しい笑みを浮かべている。
「……なるほど。さすがにお育ちが良いだけあって、素晴らしい正義感です。今までにも少女たちを連れ出そうとしたり、我が物にしようとした輩は数多(あまた)おりましたが、あなたは正真正銘、道徳的な良心からこの行動を起こされたようですね」
ひどく馬鹿にしたような、見下したような口調。頭に血が昇りそうになるのを必死で抑えた。馬から降り立ち、ジェシーと向き合う。
「……きみだって本当はわかっているんだろう。これがどれほど非人道的なことか……!」
ぼくの問いかけに、上目遣いで見据えたジェシーの口元が笑みを打ち消した。そのあまりの冷たさにヒヤリとする。が、今さら引くことなど出来る訳がない。
「……だから、どうなると言うのです?」
「……何……?」
「これが非人道的なことだ、と言って……幼い頃からここでしか生きたことのない、このためだけに育てられ、こうとしか生きてゆく術のない彼女たちを、今さら世間に放り出してどうなるというのか、とお訊きしているのです」
一瞬、言葉に詰まる。
「……そんなことは、これから然るべき場所で教育を受け、日々の生活を教えて行けば済むことだ……!」
「あなたは何もご存知ない!」
押し返すように激しい語気だった。思わず黙ったぼくの顔を、氷のような目が突き刺すように見ている。
「……身元が不確かだからこそ、こんな場所にいるのですよ、彼女たちは。これから良い家に養女に入り、幸せに暮らせる子たちがどれほどいると思うのです?……教育は受けられるかも知れない。だが、それも『可愛い娘』としてではない。ほとんどの末路は良くて愛人……悪ければ幾人もの男たちの玩具として扱われる……下手したら奴隷だ。この美しさ故に、引く手は数多にあるでしょう。けれど、何人が娘として、妻として、ひとりの人間として、真っ当に扱ってくれると思いますか!?」
一息に言い放ち、ジェシーの表情は再び元に戻った。けれど、ぼくもここで引く訳には行かない。
「ぼくはレベッカを、ちゃんとひとりで生きて行けるようにするうもりだ!行く行くは我が家の娘として然るべき相手に嫁がせてもいいと考えて……」
「話になりませんね」
「………………!」
いつの間に、ジェシーの手には銃が握られていた。目を見張る。
「あなたがやったことは、扱い上は誘拐になるのです。何より、レベッカひとりを救えても、そのことで損害を被むるのはサロン……そして実質的に負担を被るのは他の少女たち、と言うことなのですよ」
他の少女たちのことを引き合いに出され、さすがに咄嗟の言葉が出て来なかった。
レベッカを救い出すだけでは根本的な解決にならないことなど、端からわかっていることだった。ただ、全てを動かすには、今のぼくの力ではあまりに非力過ぎた。だからこそ、とにかく始めにレベッカだけでも連れ出そうとしたのだ。そのことで、さらなる協力者を得ることも出来るだろうとも思ったからこそ。
「……それでも、今さらレベッカを返すことは出来ない!金の問題なら何とかする!だから、ここは引いてくれ!」
──瞬間。
「………………!」
ひどく乾いた音が空に響き渡った。森からは鳥が一斉に飛び立ち、ぼくの脳内には自分の鼓動と共に血流の音までが大音響で鳴っている。次いで、身体の一部に燃えるように熱い感覚。
「……レベッカを真に思いやる心に免じて、せっかく見逃して差し上げようと思ったのに……残念です」
ジェシーの声が耳の遠くでこだまし、自分でも訳がわからないうちに地面に膝をついていた。服が濡れて行く感覚。その大元に両手を触れると、ヌルリとした生暖かい感触。膝をついた辺りに赤い水溜まりが広がって行く。
耳鳴り、動悸、身体中を高速で巡り、流れ出して行く本流。熱さと息苦しさで噎せた口からも、赤い烟りが広がる。
「…………ふ…………」
言葉にならないまま、ぼくは地面に倒れ伏した。尚も流れて行く何かを感じながら。残る感覚の中、草を踏む足音が近づき、ぼくの馬の傍でとまった。
「さあ、レベッカ……帰りましょう」
身動きひとつ出来ない身体。地面から見上げるぼくの目に、僅かに残った視力がレベッカの姿を映し出させる。ゆっくりとジェシーの腕で抱き降ろされ、そのまま抱えられた姿が。
(……レベッカ……!)
必死に口を動かしても声として発されることはなく、ただ遠ざかって行く後ろ姿を見ることしか出来なかった。
(……レベッカ……!)
そんなぼくを、ジェシーに抱かれたレベッカが肩越しに見下ろしている。哀しげな、寂しげな、例えようもないほどに美しい青い瞳が。ぼくのことを嘆くでなく、恨むでなく、ただ、現状を受け入れざるを得ない、と言うように。
(……レベッカ……すまない……)
小さくなって行くレベッカに呼びかける。
(……きみを助け出すことが出来なかった……赦しておくれ……)
遠ざかるレベッカ。遠ざかる意識。最後の最後まで、レベッカの青い瞳がぼくを見下ろしている。
それが、最後の記憶だった。