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片桐課長のあれやこれやそれや〔転編〕

 
 
 
 帰宅途中、おれはぼんやりと色々なことを考えていた。

 社のこと、社長や専務のこと、米州部のこと、藤堂と坂巻さんのこと、里伽子のこと、過去のあれこれ。そして何より、どうすることが、その過去のあれこれに、里伽子を極力巻き込まないで済む方法なのか。

 『おれと関わらなければ良かったのだ』と言う選択肢は、今は、もう、ない。無理なのだ。おれの方が。今さら里伽子を手放すことなど出来ない。

 里伽子とこうなった今になって初めてわかるのだが、彼女とつき合うまでのおれは、女性に対して本当に熱くなったことなんてなかったらしい。

 いや、女性に興味がなかった訳でも何でもない。むしろ、はっきりと好きだ。つきあってた女性だっていたし、結婚を考えたことがなかった訳でもない。

 ……あの時までは。

 今になって、こんな出逢いがあるとは……いや、出逢いがあったとしても、自分がこんな気持ちになるとは少しも思っていなかった。

 一生、特定の相手は作らずに生きて行く、と決めたあの日から。

 それなのに。

 頑なに変わることがなかったものが、こんなにも簡単に変わる、変えられて行く。良きにつけ、悪しきにつけ。

 おれはひと気も疎らになった駅からの道を歩きながら、里伽子の住まいの最寄り駅周辺の賑わいを思い出していた。彼女の、しっかりと『生活している』様子をひしひしと感じる環境。

 この駅周辺も、決して生活しにくい環境ではない。むしろ、かなり良いと思う。おれが、ただ生きているだけで『生活していなかった』だけだと、今ごろ気づいたのだ。

 何年もそうやって生きて来て、これからもそうやって生きて行ける、と信じ込んでいたことが、一瞬にして、根こそぎ覆された。

 こうして、ひとりの部屋に帰ることさえが虚しいものになる。ずっとそうして生きていたのに。

 目の前に現れた、自分の住んでいるマンションを見上げ、『灯りのない窓に帰るのは、気楽さと引き換えに虚しさや寂しさを覚える』と言っていた友人の言葉を思い出す。

 立ち尽くし、しばらく窓を見上げていたおれは、こんなにも脆い自分に情けなさを感じつつ、振り払いながらエレベーターで11階に上がった。

 里伽子は、おれのしつこさと情けなさに呆れているんだろうな。仕事で見ているおれとのあまりのギャップに、もしかしたら、もう気持ちまで変わっているかも知れない。未だに何の返事もないのは、そう言うことなのか……。

 もし、本当にそうだとしたら、おれはどのくらいのダメージを受けるんだろう。立ち直れる気がしない。

 とことんまでテンションを下げながら、おれは鍵を取り出した。この間、里伽子から受け取った合鍵とおれの部屋の鍵がぶつかり、チャリンと音を鳴らす。

 合鍵を見つめながら、また意識が飛びそうになるのを堪えて扉を開けた。

 真っ暗な玄関に足を踏み入れると、本当に何か物足りない気分になる。何年もそうして帰宅していたはずなのに。

 溜め息を洩らしながら靴を脱ごうとすると、足に何かがぶつかる気配を感じ、不思議に思って手探りでライトを点ける。

 ━すると。

「……………!」

 そこには、女物の細くて華奢な夏用サンダル。

 自分の目が何を見ているのかわからず、頭の中が混乱する。奥を見遣るも暗くて人がいる気配はない。

 おれは靴を脱ぎ、リビングへと急いだ。

 扉を開けた途端に目に飛び込んで来たのは、薄暗いリビングのソファで、体育座りのような姿勢でうたた寝をしている里伽子の姿。

 驚きで声も出ず、指一本動かせずにその場に立ち尽くす。

 しばらく動けないでいたおれの気配に気づいたのか、「……ん……」と声を洩らしながら里伽子が微かに頭をもたげた。

「……あ、寝ちゃってた。……課長……おかえりなさい。おつかれさまでした」

 目を擦りながら言ってくれた迎えの言葉を聞き、ボケッと突っ立ってたおれの意識が覚醒し、コンセントを差し込まれたかのように身体がビクッと反応する。

「……た……ただいま……」

 言葉は何とか出たものの、まだ突っ立ったままのおれの傍を通り抜け、キッチンに行こうとする里伽子を目で追う。

 出勤用のスーツじゃないし、玄関にあったのもサンダルだった。

 ……と言うことは、一度、自宅に帰ってから来てくれたと言うことだ。

 ようやく動いた身体をキッチンに向けると、里伽子が何やら保温ポットらしきものを開けている。

「……軽くて消化のいいものを作って来たんです。もう遅いので、良かったら先に召し上がってください」

 その言葉に、何とも言えない、泣きたいような気分になる。ただ、逢いたい、と言うだけで子どものように駄々をこねていた自分に対して。

 思わず、後ろから里伽子を抱きしめる。

「……すまない……」

 言うべきことはいくらでもあるはずなのに、言えた言葉はそれだけだった。

 里伽子は「冷めちゃいますよ」と言いながら、おれの腕を下側からポンポンと叩く。

 おれは、里伽子がわざわざ一度帰宅して作って来てくれた、まだ仄かに温かい食事を食いながら、これからどうするべきか、早めに決めなければならないことを痛感していた。

 お茶を入れてくれている里伽子の横顔を見上げる。

「連絡もしないで、いきなりすみませんでした。……今日は、本当は本当に来るのやめようと思ってたんです」

 ふいに里伽子が言う。

「……ん?」

「たぶん課長は遅いだろうし、私が待っていると思えば気も急くだろうし。だから、今日のうちにいろいろ済ませてしまっておこうって。そしたら、明日ゆっくり出来るのかな、と思って……」

 おれは何も言えずに聞いていた。

「今日の夜でも明日の朝でも、そんなに変わらないんじゃないのかな、って、私は思ってたんですけど……違うんですね」

「……里伽子……」

「それが、今、ゴハンを食べてくれてる課長の顔を見ててわかりました」

 里伽子は湯飲みに口をつけながら小さく笑った。

「……いや、おれの我が儘だったんだ。すぐにでも顔を見たいなんて。きみにもやるべき事はたくさんあるのに……すまなかった」

「あ、大丈夫ですよ。大体、終わらせて来ましたから」

 ……そんなに時間あったか?……さすが、里伽子さま……万能だ。

「ごちそうさま。うまかった。ありがとう」

「お粗末さまでした」

 里伽子が食器を片し始める。こうなると役立たずなおれ。

「シャワー浴びて来る。眠いだろうから、先に寝ててくれ」

 洗い物をしてくれてる里伽子の後ろ姿に声をかけ、スーツを脱いでバスルームへ向かった。

 シャワーを浴び、洗面台の鏡に映る自分の顔を見て苦笑いがこみ上げる。何て情けない面(ツラ)してるんだ、おれ。

 おれはこうやって、里伽子を待たせて、待たせて、待たせて……ずっと待たせ続けることになるだろう。この仕事をしている限り。

 だからと言って、今さら他の道などおれには考えられない。

 里伽子は仕事について、これからについて、どう考えているんだろう。お互いに海外営業部に所属する身だ。どちらも、いつ、海外赴任の辞令が下りるとも限らない。

 話し合わなければならない。里伽子と。お互いがちゃんと納得出来るように。

 リビングに戻ると、里伽子はまたソファでうたた寝をしていた。

(ちゃんと寝るように言ったのに……いくら夏でも冷房効いてちゃ風邪ひいちまうぞ)

 近寄っても、今度は目を覚ます気配がない。おれは里伽子を抱き上げ、ベッドへ運んだ。

 そっと寝かせ、布団をかけて離れようとすると、クッと腕を引かれる気配。見ると、里伽子が無意識におれの袖口を掴んでいる。そっと解こうとすると、これが……意外と離さない。無意識の力はかなり強力だった。

 その寝顔を見ていたら、何だか起こすのも忍びなくて。

 仕方ないので、おれもそのままベッドにゴロンと寝転んだ。ひと仕事しようと思っていたが、このまま寝てしまっても構わないのだ、と思い直す。

 里伽子の寝顔を眺めながら、こうしていつも、いつまでも隣で眺めていたい、と思う。そのためにはどうすればいいのか。

 考えながら灯りを落とそうと、里伽子の背中側にあるライトのスイッチに腕を伸ばす。

 ━と。

(ひっ!)

 おれは声を上げるのを必死に堪えた。

 里伽子の上を跨ぐようにして腕を伸ばしたところで、彼女が両腕をスルリと首に巻きつけて来たのだ。

(……や、やめてくれ、里伽子……!)

 冷や汗が流れそうな勢いに、おれは心の中で懇願する。

「……ん……」

 寝息を洩らしながら、里伽子がおれの首の後ろに指を這わせるのを感じ、真剣に焦る。

(ヤバい、ヤバい、ヤバい、ヤバい!!勘弁してくれ、里伽子ーーーっ!!)

 おれは絶叫しそうな自分を必死で抑えた。

(この状態からじゃあ、鬼畜かって話になっちまう!里伽子、頼む!勘弁してくれ!きみの寝顔で吹っ飛びそうになる理性を必死で押し留めているんだ、おれは!)

 しかし、意識のない里伽子さまは情け容赦なかった。おれの首に指を這わせながら、耳元で「……ん……かちょう……?」と疑問形で囁く。

 その吐息が耳にかかったのを感じた瞬間。

 ━暗転。

 ……終わった。おれの脆弱な理性。
 
 
 
 
 
『片桐課長のあれやこれやそれや・転編』~おしまい~
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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