課長・片桐 廉〔10〕~焦燥編
翌日、土曜日の朝。久しぶりの休み。
時間的にはぐっすり寝た……はずだが、何かスッキリしない。理由はわかっている。昨日、調子が今ひとつに見えた今井さんのことが心配で、何となく寝つきが悪かったからだ。
時計を見ると7時半。今までの話から、彼女は休みの日でも余程のことがない限り、どんなに遅くとも7時半までには起きると聞いている。だが、もしかしたら昨日は本当に不調だったかも知れない、と考えると……まだ寝ているだろうか?
8時になったら連絡してみることにし、コーヒーをセットして顔を洗う。タオルで顔を拭きながら、ふと、自分の手に目が吸い寄せられた。指先に残っているのは、確かに昨日、彼女が握り返してくれた感触の記憶。細く、しなやかで、それでいてやわらかな指。
煩悩を頭から振り払い、コーヒー片手に新聞に目を通す。一昨日、朽木が言っていたように、R&Sが微かに動き始めている気配。何故か、どこか、気になる社だ。
読みながら、ちょうど8時になったので今井さんにメールを送っておく。
『おはよう。昨日はすまなかった。調子が今ひとつに見えたけど大丈夫か?』
そのまま、再び新聞に目を戻しながら、ノートパソコンを開く。朽木がチェックしていた画面を見つつ新聞にも目をやる。何が気になるのかわからない、だけど、気になる、と言う予感にも似た妙な気持ち。何故、こんなに気になる?
新聞とパソコンを交互に見ながら、記憶の引き出しから過去のあれこれを引っ張り出す。似たような動きを、過去に見たことがある気がする。いったい、いつ、どこで?
思い出せず、ひとまず新聞を最後まで読み進めた。が、その時になっても今井さんからの返事はない。
彼女はどちらかと言うと、全てにおいて合理的に進めるタイプだ。仕事にしても何にしても、それが手際の良さを際立たせると言ってもいいだろう。
つまり、メールの返事もいつも比較的早い。まあ『合理的』だけあって、用件以外のメールはほぼないし、返事も用件だけなのだが。彼女にしては返事が遅かったのは一度だけ。一昨日の夜、おれが帰宅するのを見計らったように連絡をくれた時だけだ。
そのことと、昨日、調子が悪そうだったことが、後になって考えてみると、おれの判断力……いや、想像力を変な方向へと引っ張っていた。
休みなのだから寝ているかも知れない、何か用事を片づけているかも知れない、出かけているかも知れない。そんな、当たり前の発想すら出て来ないほどに。
おれは再び、彼女にメールを送った。何もなければそれでいい。ただ、何事もなく無事である、という確証がほしい。
『休みの日に何度もすまない。具合は悪くないか?大丈夫か?』
仕事をしながら待つこと30分。……返事なし。
電話を入れる。……応答なし。さらに30分経っても折り返しなし。
この辺りからおれは完全に焦り始め、仕事も手につかなくなり、後々、自分でもどうにもわからないくらいに思考回路もおかしくなって来ていた。
高熱でも出しているのではないか。具合が悪くて動けないのではないか。いや、もしかしたら倒れているかも知れない。一度、悪い方へ考え出すと、悪いことだけが際限なく脳内に押し寄せて来る。
ほぼ、20~30分おきにメール、電話、メール、電話……後で考えると、もはや本当にストーカーレベルだ。
昼近くになっても全く返事がないことで、おれの焦りと不安はピークに達した。普段のおれなら『高校生かっ!』と突っ込めたのだろうが。
おれは彼女の安否を確認しに行くことにした。財布と携帯電話を掴むところまでは、まだ多少の思考は働いていたようだが、車で行くか、電車で行くか、で鍵を持ってパニクっているところでアウトとしか言いようがない。
結局、家を飛び出して駅まで走る。その時の自分は必死だから気にもしていないが、通り過ぎる人、通り過ぎる人に振り返られていた気がする。大の男が血相変えて全力疾走していれば、そりゃあ、周りも何事かと思うだろう。
電車の中でも気持ちだけが先走る。気持ちだけならとっくに彼女の家に着いているレベルだ。
大丈夫なのか。無事なのか。何事もなくいてくれ。頭の中は嫌な考えしか回っていない。本来は悲観主義ではないはずなんだが。
最寄り駅に着くと、扉が開くなり再びの猛ダッシュ。学生時代のマックスタイムに迫れるんじゃないかと言う勢いで、構内から飛び出し商店街を駆け抜ける。ここでも視線の集中砲火を浴びていたようだが、本当に気にしていられる余裕はなかった。
マンションの前まで走り抜ける。いつもとどこか印象が違う。……いつもは夜送ってくるだけなんだから当たり前だ。土曜日の昼間なんて他の住人も山ほど出入りしている。
外から窓を見上げたことしかなかったおれは、ポストで部屋番を確認。
……ものすごい視線を感じる。そりゃあ、そうだ。荒い息の大の男がポストをガン見してたら警戒されて当たり前だ。が、何度も言うように、この時のおれには気にする余裕が全くない。
━309号室。
階段を駆け上がる。脚が重い。やはり運動不足を実感せざるを得ない。いや、歳なのか。余裕がないはずなのに地味にヘコむ。
(309号……ここだ!)
インターフォンを押す。
「………………………………」
しばし待つも応答がない。気ばかりが逸る。
(返事をしてくれ!)
再度、押す。耐え切れない沈黙。
(誰か助けてくれ!!)
おれの心が悲鳴をあげる。しかし、この状況で何をどう助けろと言うのか、おれにもよくわからない。
もう一度、インターフォンを押し、次いで扉をノックする。いや、ノックと言うより叩いた、と言う方が正確だ。部屋に入ろうとしていた数部屋先の住人が、不審げにこちらを見ている。
「……今井さん……」
呟きながら扉を叩く。もう、どうしていいのかわからない。そうだ、いっそ、大家さんに事情を話して確認してもらうか。そこまで考えた時━。
カチッ。
小さな音が聞こえた気がした。
驚いて動きを止めると、ドアノブが微かに回って扉がゆっくりと開く。
「は~い、お待たせしまし……」
硬直したままのおれの耳に、今井さんの声が神の声の如く入って来た。
「…………た?」
目を見開いて、ポカンとした表情でおれを見上げて来る今井さんの姿。
お互いに固まったまま、数秒。特に具合が悪そうにも見えない、いつも通りの彼女の様子。
彼女の無事を脳が認識した途端、おれの身体中が脱力。
「……はぁぁぁ~~~~~~……」
息を吐きながら、その場にグッタリとへたり込む。
「……無事かぁ……」
項垂れながら呟いたおれの頭上に、
「……か、片桐課長……?」
今井さんが恐る恐る発した声。
おれが彼女の顔を見上げると、まださっきのポカンとしたままの表情。再びおれはガクリと項垂れた。
「心臓が停まるかと思った……」
「え、え、え、え?いったい……」
何だかよくわからない、と言った表情で言いかけた今井さんは、こちらの様子を不審げにガン見している住人に気づき、営業スマイルを向けて会釈した。
「課長。とりあえず、入ってください」
そう言っておれの腕を取る。ようやく、上がった息が落ち着いたおれは立ち上がり、腕を引かれるままに彼女の部屋に足を踏み入れた。
リビングに通されると、彼女はまず、熱いおしぼりと冷たいおしぼり、それとデカいグラスで氷水を出してくれた。
熱いおしぼりと冷たいおしぼりとで交互に手と顔を拭きながら「オヤジくさっ」と自分に突っ込む。だが走りっぱなしで暑かったのは事実だから気持ちがいい。
かなり大量の氷水を勢いよく飲み干すと、カラカラになっていた身体が活性化するようだった。
「はぁ~~~……」
一息ついたところで、彼女はおれの前に湯気の立ち上るマグカップを置いた。
「今、ちょうどいれてて……コーヒーじゃなくてミルクティーなんですけど……」
「……サンキュ……」
ゆったりと湯気を湛えるマグカップを持ち、ひと口。
「あ、うまい……」
思わず洩れた本音に、今井さんはニッコリ笑って自分もミルクティーを含む。小さく「うん」と呟いた今井さんは、もう一度、嬉しそうな笑顔をおれに向けた。
その顔を見ていたら、さっきまで死ぬほど焦っていた状況がマジマジと頭に浮かんで来て、自分がおかしくて吹き出しそうになる。
おれたちは顔を見合わせて笑いながら、温かいミルクティーを楽しんだ。
ちなみに、今は真夏なんだが、本当に美味しく感じた。
~課長・片桐 廉〔11〕へ続く~
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?