悠凜家の一族☆父方編2
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いらない情報No.1更新ちう!の『悠凜家の一族』です。
某・有名ミステリーホラー小説界の大御所にあやかろうとパクりもいいトコのタイトルですが、いったい何をあやかろうとしているのか、既によくわからない状態です。
なので、登場人物の名前も当て嵌めてみようかと思いましたが、やめときました。
今回は父方の祖父の話です。
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父方の祖父は、私が高校3年生の1学期。
・・・の期末試験の真っ只中に亡くなりまして。
当年とって、79歳9ヶ月くらい?
惜しかったね、じーさん。あと3ヶ月で傘寿だったのに。
とは言え、じーさんは私が幼少の頃にガンを患った経験がありますので、それから10年以上はがんばってますね。
若い頃には結核も患って、戦争中も栄養失調(?)だかで死にかけて、ばーさんには先立たれて、直後にガンを患って。
よくがんばりました(何気に上から目線)。
さて、じーさんの両親、つまり私の曽祖父と曾祖母ですね。
曽祖父は新潟出身、曾祖母は東京出身らしく、明治時代の新潟と東京の二人が、どこでどうやって出会って結婚に至ったのか…その辺りは私には皆目わからないのですが(聞けよ)、とにかく二人の間には5人の子どもが生まれます。
と言っても、そのうちの二人は早逝したらしく、私が知ってるじーさんは兄と姉がいる3人兄姉の末っ子です。
ところが曽祖父という人、息子であるじーさんが母親のお腹の中にいる時に、結核により29歳で亡くなります。結核率が高いな。
それよりも、29歳で5人目の子どもってスゴいな~…って、そーゆう問題じゃないですけど。
この曽祖父の早死ににより、じーさんの運命は大きく変わります(そりゃそうだ)。
曾祖母は働くためにじーさんを親戚に預けて東京に戻ります。
ところがじーさんのお兄さんとお姉さんは連れて行ったらしいのですね。恐らくじーさんが幼かったためと推測されますが、子ども目線からすれば…。
このコトで、じーさんの中には『自分は捨てられた』感が生まれ、生涯において母親との関係に微妙な溝ができたようです。
で、新潟でイトコたちと育ったじーさんですが、農業をやりたい、ブラジルとかに渡って開拓からしたい、というのが夢だったそうで。ま、その夢は叶いませんでしたが、確かに野菜作るの上手だったですね。
結核にかかったり色々あったらしいですが、どういう経緯で東京に来たのか、肝心なところを私は知りません。
余談ですが、農業が夢だったというだけあり、じーさんは農業学校を出ています。その学校は農業高校となり、何十年後に母が卒業し、つまりじーさんは母の先輩になります。そのツテで母はじーさんの工場に就職することになったのです。
ちなみに母は、実家で手伝いばっかりしていたので「農業なんて、でぇっきらい」だそうです。「じゃあ何で農業高校に?」と思われる方もいらっしゃるかと思いますが、単に他の高校はレベルが高くて入れなかったのだとか。ちーん。な~む~。
で、じーさんの腕前に戻りますが。
私が小学生の頃、区が抽選で土地を貸し出ししたんです。じーさんがそれに応募しまして。一区画は二畳分強くらいに区切った小さな土地でしたけど、端から端まで隙間なく、それはそれは立派な作物をいっぱい実らせていました。
私は学校から帰るとよく水撒きなどについて行き、間近で見ていましたので、ホントに農業が夢だったのも納得が行きます。実家が農家の母ですら誉めるくらいでした。じーさんの隣の土地を借りていた農大の教授よりも立派な作物を実らせ、その教授が教えを乞いに来たのが密かな自慢だったようです。
話が逸れましたが、恐らく働くために東京に戻ったと思われる曾祖母は、その後、与謝野晶子ばりの情熱の女と化します(と聞いています)。
ある男性に惚れ込み、その男性の家に押し掛け女房よろしく転がり込み、後妻に納まった…というような感じで聞いてます。
ま、惚れた腫れたはともかくとして、女がひとりで生きていくのは、今よりももっと大変な時代だったでしょうから仕方ないのでしょう。が、じーさんたちからすれば『見捨てられた感』はあったかも知れません。
じーさんはじーさんで、東京に来て何やかんやで『東京パン粉(確か)』という会社に就職し、そこで私の祖母となる女性の父親が上司となります。その後、中国への工場設立の話が出てじーさんが任されることになり、祖母との結婚への流れとなりました。
父から聞いた話ですが、じーさんは「お酒を飲まない」という触れ込みだったらしく、ばーさんはそのつもりで中国に赴いたそうですが、行ってみたら部屋の中に酒瓶ゴロゴロだったとか何とか・・・ホントの話か知りません。
ただ、私の知ってるじーさんはわかりやすく『呑兵衛』でした。はい。
それから伯母が生まれ、父が生まれ。
また脱線しますが、当時の中国の寒い地域って(現在は知らない)、風邪をひいてしまうからという理由で、基本お風呂に入らないんだそうで。何しろ、酔ってそこらで寝てしまったら間違いなく凍死するっつーくらいだそうで、とにかく「酒を飲んでも玄関入るまでは寝るな!」というのが教訓だったらしいですね。
そんで、そんなコト知らないで中国人従業員にお風呂を勧めたらしいんです。そしたら、あーた!
垢が風呂釜に数センチの厚さで溜まってたってさ
ええ。そーゆう場所だったんですって。
それ以来、お風呂を勧めるのは止めたそうな。
ちなみにその従業員さんたち、ご期待通り(?)カゼをひいたそうです。
さらに、元々水が豊富じゃないから洗濯も最小限。小さい子どものズボンも、お尻のところがパカッと割れてるんですって。オムツいらないしトイレが楽だから。
またまた話を戻して。
その後、じーさんは召集されていなくなり、ばーさんの帰国までの逃避行は『悠凜家の一族☆父方編』に書いた通りです。
日本に送還されたじーさんと、命からがら帰国したばーさんは無事に再会し、再び家族とプラスばーさんの弟妹たちとの生活が始まります。
そんな頃、情熱の女・曾祖母はたまにじーさんたちに会いに訪ねて来ていたそうですが、やっぱりじーさんは余所余所しい態度だったみたいですね。
代わりと言ってはナンですが、ばーさんはいろいろと手伝ってもらっていたみたいです。「お義母さん、ちょっとアレお願いします」みたいな感じで。
ちなみに、父はホントに面白い人で、ずっと曾祖母のことを自分のおばあさんだと知らなかったと言っていました。
「たまに来ては、○○(叔父)がつけた足跡を拭いたりしてるんだけど、いったいドコのばーちゃんだろうと思っていた」のだそうな。
父たちは仕事の関係で、数年間は武蔵野に住んでいたこともあるようですが、また今の住まいに戻り、その後は建て直し以外では移動していません。父なんか、今では地元の生き字引みたいな感じです。つーか、父を知らない人はモグリと言えるかも?ってレベル。
その間に、パン粉工場のボイラーから火事を出し、結論からいうと会社はダメになります。工場は夜間も回しっぱなしだったそうなのですが、その間の担当者が居眠りをした挙句の火事だったそうです。
その後は債務整理に負われ、家中のありとあらゆるものに差押えの札を貼られたそうですが、その時にばーさんが言ったセリフ。
「見えるところに貼られると恥ずかしいから、中側に貼ってください」
そりゃ、そうだ。うん。
でも、パン粉会社がダメになる前は、父たちは結構いい生活だったらしく、写真を見ると伯母なんか三つ編みにセーラー服のお嬢様ですし、周りの子は坊主頭にランニングシャツなのに、父たちはぼっちゃんカットに襟付きのシャツ、チョッキ(死語)、バッシューですよ。
じーさんは、ホントに『家庭』『家族』っていうものに憧れがあったみたいで、自分が頭に描いた『理想の家族像』を目指して一生懸命だったようです。その方法が良かったか悪かったかは別として。
毎年、家族写真を撮るとか、家族で旅行に行くとか。父の年齢(70代)でクリスマスプレゼント貰ってる人とか珍しい気がします。
そして、パン粉工場がダメになった後、じーさんはカメラの部品工場を作ります。
ここに新卒の就職者として来たひとりが母です。
母はもうひとりの新卒の女性と一緒にやって来たそうですが、父からの第一印象は、
デカい女がふたり、
肩をイカらせてやって来た
だそうです。
一緒に来た女性は身長170センチ。当時の女性としてはかなりの長身です。母は身長は161センチくらいですが、とにかくガタイが良かった。
反して、父は身長は母と同じくらい。体重は母より全然軽い。女性用の28サイズだかのジーンズがフツーに入ったらしいですから。私の身長がチマいのは父の遺伝ですね、肩幅は母だけど。って、いらない情報ですね。
当時、じーさんの工場にいた番頭的立場の人は、カメラレンズの研磨に関しては名の知れた人で、その人が研磨を教えた奥さんもその筋では有名な人だったそうです。『日本光学(後のニコン)』出身だと聞いたような聞かないような。
工場の建物自体は私が子どもの頃は遊び場になっていて、『ライカ』だののポスターなど貼ってありました。
その後、私が2歳になってすぐに、ばーさんは膵臓ガンのため57歳で亡くなりました。その工場もダメになって行くのと並行するように、じーさん自身もガンになりました。
幸い手術して生き延びましたが、退院する時に、
「いつからお酒を飲んでいいですか?」
と聞いていたのはホントの話ですww
それから10数年。
たまに断食したり、焼酎を牛乳で割るといいとか言われて飲む口実に使ってみたり、注ぎ足してるのに「量って飲んでる」とか言ってみたりwwしながら、とりあえずがんばりました。
父たちは親子ですからね。私たちにはわからない複雑な思いもいろいろあったようですが、私たちが後から聞くと、ホントに『理想の家族像』を追い求めて一生懸命って感じの、かわいいトコのあるじーさんだったと思います。
最期は、ホントにあっという間だったように思います。
家を建て直して1年ちょっと。少しずつ衰えて来ているところに、腫瘍のようなものが脚の付け根に出来たりして、それがガンになったというか再発なのか・・・覚えてない私。
入院して2ヶ月くらいで亡くなりました。
前々日までは、自分で点滴をガラガラ引きながら電話をかけたりしていたんですけどね。
私たちが病院に駆け付けた時には、既に意識はありませんでした。
伯母が枕元でじーさんの手を握り、うわ言で皆の名前を呼ぶのに返事をしていました。叔父は「おれ、銀行廻って来るわ」と言って出かけて行きました。
父は、医師がじーさんに薬を投与するのを見て、もう終わりが近いことに気づいたようです。とても悪い表現ですが、後々こう言ってました。
「医者がオヤジに薬を投与するのを見て、あぁ、もうオヤジを殺す気なんだな、と思った」と。
ホントに言葉が極端ですが、もう無駄に延命して苦しめても仕方ない状況だったので、苦しまないように痛み止めを投与したということです。
まあ、病気を患ったにしてはがんばったのだろうと思います。
そして、さらに後日談。
じーさんは、私たちに最後の笑いを残して行ったコトが伯母から明らかに。
次の年のお正月。
伯母たちが新年の挨拶に来てくれていた時の話です。
伯母が「そう言えば、お父さん(祖父)の病院に最後に行った時ね」と切り出しました。
「お父さんが皆の名前を代わる代わる呼んでてね。私が手を握って『はいはい』『はいはい』『いるわよ、いるわよ』『皆いるわよ』って全員分返事をしてたんだけど。○○(叔父)の名前だけなかったわね」
一同、爆笑
あの場にいなかったイトコたちの名前までちゃんと呼んでたのに。
一番、可愛がられていた末っ子の叔父の名前は呼ばれなかったのでした。ちーん。
叔父曰く、
「おれだって遊んでたワケじゃないのに!銀行廻りしてたのに!」
とのことでした。チャンチャン。
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