かりやど〔伍拾八〕
『 も う も ど れ な い 』
*
命を引き換えても良かった人と
共にいきたいと願った人と
*
朗が、美鳥と結婚する、と報告した時、一番喜んだのは春さんで、聞いた途端に泣き出した。
夏川は一瞬、驚いた表情を見せたものの、朗の目から、全て知った上での事なのだ、と理解した。
「……おめでとうございます。朗さま……美鳥さま」
ふたりの祝福の言葉に、朗は目で挨拶し、美鳥は少し恥ずかしそうに俯いた。
「では早速、お嬢様の着物とドレスを用意しなければ」
ウキウキと春さんが呟くと、慌てて美鳥が止める。
「春さん!別に式とか披露宴なんてしないから!衣装なんていらないよ!」
その言葉に、春さんの目が光った。明らかにいつもと違う。
「……何を仰っているのです!例え大々的に披露しなくても、記念の写真くらい残さなければ!」
普段の穏やかな姿からは想像も出来ない迫力。それ以上の反論は雰囲気的に許されず、ふたりは唖然として黙り込んだ。
「……でもさ……春さん……ね……」
春さんの盛り上がりを、美鳥が何とかクールダウンさせようと試みるも、
「朗さまだって、美鳥さまのドレス姿や着物姿、ご覧になりたいですよねぇ?」
……などと問われれば、本心を言えば朗も否定は出来ない。見たくない訳がないのだ。
「……あの……ま、まあ……その……」
しどろもどろの朗の返事を『諾』として満足気に頷き、春さんはふいに夏川の顔を見た。ギクリとした様子の夏川に笑いかける。
「先生の衣装も新しくお作りくださいね」
「えっ!おれもですか!」
「先生は仮にも新婦の父親、でございますからね」
驚きで言葉が素になってしまう夏川。
「親しい方たちだけでも集めて、せめてパーティーでも致しましょう」
「………………」
全員が、何か言いたげな表情を浮かべながらも、誰も、何も、ひと言も言い出せないまま、春さんが全てを決裁すると言う事態。顔を見合わせる三人を残し、春さんは喜びを隠せない軽い足取りでリビングを出て行った。
「……春さん、やり手だなぁ……」
夏川が呆気に取られた顔のまま呟く。
「先生、感心してる場合じゃないよ。その前に解決しとかなくちゃならない、根本的な問題があるんだってば……」
眉間をコイル巻きのようにした美鳥が言う。
「……戸籍上、敷島みどりの名前を使うべきなのか、夏川美薗の名前の方がいいのか、とか……」
夏川も納得の表情で頷いた。
「……確かに、その辺りははっきりさせておかなければなりませんね」
「……この手の問題、信用出来て、尚且つ詳しい人……誰か知ってる?」
「……そりゃあ、佐久田しかいませんな」
「えっ!」
夏川の即答に、美鳥ではなく朗の方が驚愕する。
「……会計士の佐久田さんが何故……」
その疑問はもっともであった。
「佐久田は元々、大学は法律関係の学科を出てるんです。……と言うか、司法試験受かってるんですよ」
「……じゃあ、何で会計士に……検事でも弁護士でもなれたんじゃ……いえ、会計士がダメと言う事ではなくて……」
不思議そうに洩らす朗に、夏川は可笑しそうに笑う。
「そこがヤツの面白いところです。全く……変なヤツですよ」
──と、その時。
「変は余計だ」
声が聞こえたかと思うと、突然、佐久田が姿を現した。
「佐久田!どうしてここに!」
冷ややかを装おった半眼開きで、チラリと夏川を見遣る。
「……悪いか?……決算の件で来たんだよ」
「いーや!ちょうど呼ぼうと思ってたところだ」
佐久田の不貞腐れた様子など気にもせず、悪びれもしない。気味悪そうな顔をしたのは、むしろ佐久田の方であった。
「……何だよ?」
少し引き気味に、だが何となしに、寄り添うように立つ朗と美鳥の方を見た佐久田の目が見開かれる。次いで、口元が微かに緩んだ。
「……色々と手続きする事がありそうですね……」
嬉しさを堪えている微笑。
その目は、美鳥の指に輝くグリーンの指輪を捉えた瞬間、全てを察した。
「そうなんだよ!おれは、そっちの方はさっぱりだからな」
ひとり明るい夏川を、少し忌々しそうに横目で見る。だが、すぐに意識も目も美鳥の方に逸らした。
「……どうしたらいい?……って言うか……どうだったら、出来る?」
訊ねる美鳥に、不敵な笑顔を向ける。
「どのようにも、美鳥さまのお好きなように出来ますよ……私が、します。……どうなさりたいですか?仰ってください」
自信たっぷりに言い放ちながらも、その顔は美鳥に対する優しさに満ちていた。一瞬、考えるように視線を泳がせた美鳥が、佐久田の目を見上げる。
「……夏川先生の娘として……夏川、の名前がいい。……でも……朗に呼んでもらうのは……“みその”より“みどり”の方がいい……」
佐久田が頷いた。
「わかりました。少し時間をください。必ず何とかします」
「……ホントに出来るの?大丈夫なの?難しいならムリしなくても……」
「問題ありません!」
心配そうに訊ねる美鳥に、勢いづいた佐久田の返事。驚きで夏川と朗の目が拡大する。
「……ただ、何ぶん、決算と重なっているので……申し訳ありませんが、少し時間を戴きたいのです」
そう付け加え、美鳥の目を覗き込んだ。
「……全然、大丈夫。……ありがと、佐久田さん」
頷いた佐久田は、テーブルに封筒を置いて夏川を見る。
「……まずは、この間の件だ」
「……サンキュ」
ふたりの間の話なのか、それ以上はどちらも口にしなかった。訊いてはいけない雰囲気を感じ、朗もふたりの遣り取りを黙って見ている。
「……そして、美鳥さま……今回の決算の件ですが……」
今度は美鳥に向かって言うと、別の封筒に入った書類を手渡した。ざっと目を通す。
「……利益出過ぎ?」
「はい。損益の方が昨年と比べて……」
夏川も朗も内情の話には口を挟まず、そっとふたりから離れて向き合った。
「……朗さま……この事、ご家族には……」
心配そうな目を向ける夏川に、朗は少し下を見る。
「……もちろん、報告はします」
そのひと言に、夏川は全てが詰まっているのを感じた。だが、敢えて訊く。
「……春さんの事ですから、必ずお披露目パーティーを開催するでしょう。……それには……?」
一度、夏川と目を合わせたかと思うと、朗はすぐに目線を下げた。唇が微かに動く。
「……いえ……」
何かを言い淀んだかと思うと、絞り出すように答えた。
「……何故です?ご両親だって、緒方社長だって……ご家族の方は、朗さまの晴れ姿をご覧になりたいでしょうに……」
「……家族や叔父は……連絡すれば、喜んで来てくれると思います。……けれど……」
遠目に見える美鳥に、チラリと視線を走らせる。
「……恐らく、美鳥が気にするでしょう……」
やはり、と夏川は思った。
「……美鳥は未だに……いや、たぶん一生、変える事は出来ないのでしょうが……昇吾の死を自分のせいだと思っています。……叔父に合わせる顔がない、と……それに……」
「……それに?」
「……美鳥は自分の身体の事も気にしています。調子が悪い自分と結婚するなんて言ったら、家族は不安になるだろうし、不審に思うだろう、と……」
美鳥の方を気にしてか、朗の声のトーンが下がる。美鳥が気にしている『身体の事』と言うのは、朗が考えている問題だけではない。それが夏川には痛いほどわかった。
「……しかし、朗さま……あなたの事は……?」
「……ぼくの事は構いません。……どんな事情であれ、家族がぼくの幸せを喜んでくれる事はわかってますし……」
目を伏せ、静かに答える朗に、夏川は気遣わしげな眼差しを向けた。
「……朗さま……それでも……逆にその事を、美鳥さまの方が気にされる可能性もあるんですよ?」
「……えっ……?」
目を上げた朗が不思議そうな顔をする。
「……本当は、朗さまだとて、ご家族に来てもらいたかったはずだ、と……美鳥さまは思うでしょう……自分に気を遣って呼ばなかったのだ、と……」
「……それは……」
夏川の言葉に、朗が再び言い淀んだ。
「……それでも、その時だけでもいいから、美鳥に笑っていて欲しいんです……叔父たちの目を気にせずに……」
「……朗さま……」
朗の気持ちもわからなくはない。
「……思い合う事は大切です。……でも……自分を殺して相手を思い過ぎる事が……知らぬ間に重荷になっている事もありますよ……」
静かなその言葉には、何か実感のようなものがこもっていた。少なくとも朗にはそう感じられた。
「……先生……」
「……いや、この話はとりあえず後回しにしましょう。とにかく、佐久田の手続きが済まない事には、話にならないのですから」
「……はい……そうですね……」
「夏川!」
ちょうどその時、話が一段落したらしい佐久田から呼ばれた。
「おう。話は終わったのか?」
「一応、方針は決まった。お前の方も帳尻は合わせとく」
「頼む。その辺りはお前頼みだ」
何だかんだと信頼し合っているふたりの会話に、朗は自分と昇吾の姿を重ねていた。歳を経た時には、ふたりのような関係でいられたはずの自分たちを。
「朗さま。直に、おふたりにとって、一番良い形を取れるように致します。少しお待ちください」
羨望を含んだ朗の視線を感じたのか、佐久田は思いの外、優しい顔付きで言った。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
頷く佐久田に、ふと思い立った朗が訊ねる。
「……佐久田さんは……何故、会計士の道を選ばれたんですか?」
佐久田の口元に、小さな笑みが浮かんだ。
「私には検事やら弁護士は向かない、とわかったからです」
「……向かない……どこがです?」
「他人に興味もないのに、正義のためだとか、人権どうのと熱く語るだとか……心にもない事を『仕事』のため、だけにやるべきではないでしょう?そんな人間に裁かれたり、弁護されたいはずがない……私なら御免です。そして、人は嘘をつく、なんて前提がある私には、そんな資格もない。依頼者を信じ切るなど、到底出来ません」
キッパリと即答する佐久田に、朗はむしろ潔さを感じた。そう言う佐久田のような、私欲に流されにくい人間こそ、むしろある意味では向いているのではないのか、と。
「……じゃあ、何故、会計士だったんです?」
佐久田は、今度はニヤリと笑った。
「金は……数字は嘘をつきません。動きがあるところには、必ず理由と事実があります」
朗は息を飲んだ。
佐久田と言う男への興味が湧き出す。そして、その佐久田が仕える気になった『松宮陽一郎』と言う人物への興味が。何より、佐久田を惹き付けて止まない、美鳥も持つ松宮家直系の不思議な引力にも。自分もそれに引かれているひとりとして。
佐久田が去り、朗が自分の仕事を片づけている間、夏川は美鳥に検査結果の説明を行なった。
「美鳥さま。今後は、検査の結果を全て、朗さまにも開示致します。よろしいですね?」
一瞬、戸惑った様子を見せながらも、美鳥は頷いた。
「……もう、今さら隠しても始まらないしね……」
やや自虐的な言い方に、夏川が眉をひそめる。
「……美鳥さま……」
「そんな顔しないでよ、先生。約束した通り、努力はするよ」
何か、を考え込んで一点を見据えた夏川が、一拍置き、躊躇いがちに顔を上げた。
「……私は、今さら後悔しています……」
思いつめた声音に、美鳥が不思議そうな目を向ける。
「……後悔……何を……?」
「……先代の……お考えを流してしまった事を、です……」
「……お祖父様……?」更に不思議そうな顔。
「……そうです。美鳥さまがまだ幼い頃、私は先代から依頼を受けました……陽一郎さまが反対されていた事なので……話は流れましたが……」
夏川の言いにくそうな様子に、美鳥は彼の言わんとしている事を読み取った。
「……私の遺伝子保存の事……?」
目を逸らした夏川が俯く。
「それで良かったんだよ」
事も無げに美鳥は答えた。そして、美鳥にはわかってしまった。夏川は、本当は『そうした』のだ、と。だが、それは自分が気づかなくて良い事だ、と判断する。
「……例え、父様がその気になって、お祖父様の言う通りにしていたとしても……私はその方法を使う気はないから……」
夏川が顔を上げ、美鳥の目を見つめた。
「……その方法で産まれた命を否定はしない。……でも、私はその方法は使わない……例え、出来たとしても、使わない」
夏川の目を見つめ返し、美鳥は静かに言い切った。
「……この状況で……ほぼ未来がわかっていて……それなのに、朗にそれを背負わせるなんて……私はしたくない。……それはひどい……重過ぎる呪縛だよ」
「しかし……!それが支えになる事もあるのですよ……!」
美鳥は微かに睫毛を伏せた。
「……わかってるよ……」
「ならば、何故……!」
「……先生……私は、それを朗に望むような人間でありたくない」
美鳥は再び夏川の目を見つめる。真っ直ぐに。
「……もし……もし私が、何事もなく普通に朗と恋をして結婚をして……自然に子どもを授かったのなら……それでも何らかの理由で、私が朗たちを置いて去らなきゃならなかったとしたら、その時は何の疑問もなく、子どもの事を頼んで逝ったと思う……でも……」
「……でも……?」
「……はじめからなかったはずの事を……もうわかっている未来に逆らってまでやって……その挙げ句に、手放す事が出来ないものを押し付けるなんて、私はしたくない」
「……美鳥さま……」
「……それにね……もしそうするとしても、今の私じゃ……私の身体で子どもを産む事は……無理でしょ?」
夏川の瞬きが止まる。
「……誰か他の人に頼むしかないんだよね?」
「……それは……」
「……朗と私の子どもを、他の人に産んでもらう、なんて、私はイヤ。私は絶対に、その人に嫉妬するよ……感謝すべきところを憎んでしまう。そうまでしなくちゃ私の元に来てくれないなら……私はいい」
美鳥はふわりと笑った。
「……先生……私ね……もし、昇吾のためにならない人だって判断したら、きっと朗でも殺せたよ」
「………………!」
思わず夏川は息を飲んだ。
「……もちろん、そんな事あり得なかっただろうし、もしもその時は、私も朗と一緒に死んでたけどね。……でも、私にとって、昇吾と朗の違いはそれくらいかな」
何も見ていないような、浮遊感の漂う瞳。
「……医者である先生からしたら、信じ難い事だってわかってる。……それでも、私は自分がやった事に、後悔なんて微塵もない。だから私は、私がやった事の代償は、自分で背負って行く……始まりは、私が望んだ事ではなかったとしても……」
夏川も気づいていた。朗が全てを知っている事を。美鳥の身体の事も、そして罪も。その上で、結婚の話を持って来たのだ、と言う事を。
「……私の身体が元に戻る事は一生ない。奇跡的に今の状態を数年は維持出来たとしても、どんな治療をしても、薬物に侵される前には戻らない。少なくとも、私が生きてる年数で飛躍的に進歩するなんて無理だよ。だけどむしろ、良くはならないまでも薬とか治療で、私があと何年も生き永らえる身体だったとしたら……私は朗と結婚するつもりはなかった」
「何故です?」
夏川が不思議そうに問うと、寂しげに睫毛を翳らせる。
「……美鳥さま……?」
「……だって、そうしたら……私は何年、朗を縛り付けていなくちゃならないかわからないもの……。……でも、今の私なら先は見えてる……遠からず、私は朗を解放する事が出来るから……」
夏川には言葉が見つからなかった。美鳥の覚悟に。
朗と美鳥、ふたりそれぞれの覚悟を受け、九月初めの昇吾の誕生日を目処に入籍するため、皆が動き出した。