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薔薇の下で ~ Under the Rose 奇譚 ⑬ ~
【~Under the Rose~】 秘密で・内緒で・こっそり
***
*
夢のような日々の終わり
それは
夢から覚めたのではなく
夢など端から存在しなかったのだと
現実を知った日
*
今夜が全ての終わりで良かったのかも知れない。
己惚れている訳ではない。でも、自分以外が原因であるなんて考えられなかった。その予想通り、結局、美雪(みゆき)のことは全て、ぼくの責任に他ならなかったのだから。とは言え、知らないでいるより遥かにマシだ。
自分の罪も後悔も、何もかも丸ごと消え失せてしまえばいい。
美雪だけじゃない。幾多の女たちを貶めて来たこの肉体ごと、地獄の底まで堕とされてしまえば、むしろ救われるに違いない。
ただ、美雪にひと言だけ伝えたかった。それが許されぬなら、せめて贖罪の気持ちだけでも。
あの世で美雪に逢えるのかはわからない。ぼくが同じ場所に行ける、などと到底考えられないから。それでも、地獄の沙汰を待つ時に、彼女への謝罪の言葉くらいは伝えてもらえるかも知れない。
そんな馬鹿なことを考えながら、正面に立つ薔子(そうこ)を見つめた。僅かに足を引いた彼女の目線が、天井、床、そしてぼくの背後へと移動したのがわかり、反射的に振り返った時──。
「………………!?」
キナ臭さと微かな視界の霞み。視線を戻すと、薔子の背後の扉から煙が漏れ出ている。
「……終わりにしましょう……京介(きょうすけ)……」
初めて逢った時と変わらない、誰をも魅了する妖しいまでに美しい微笑み。危険だとわかっていて尚、求めずにはいられなかったその微笑みには、もはや感情の色を探すことさえ困難だった。
キナ臭さにも煙にも動じるこもなく、ただ、ぼくに向けられている視線から目を逸らせるはずもなく。
「まさか、このビルごと……」
最後まで問う前に、ぼくの唇は薔子にふさがれた。急襲に追いつけないまま掴まえる前に距離を取られ、ぼくたちの間には一瞬で炎と煙が立ちふさがった。
「……薔子……!」
煙と熱風を腕で防ぐぼくを見、ゆっくりと睫毛を伏せ、そして再び目線を上げる。
「……さよなら……イツキ……」
揺れる陽炎の中で薔子がつぶやいた。
『イツキ』
そのひと言に、ぼくの思考が急停止する。
『立野壱貴(たてのかずき)』
幼い頃だったか、その名を『たてのいつき』や『いちき』と読み間違えられたことがあった。その時、傍で聞いていてそのまま呼ぶようようになったのは──。
ぼくを『イツキ』と呼ぶ人は、この世にひとりしかいない。間違えられた時に一緒にいた人だけで、当時、ぼくといつも共にいたのは彼女ひとりだけだ。
「…………美雪…………?」
炎の向こうにいる薔子の身体が、ほんの一瞬、強ばったのがわかった。ぼくを見つめる瞳が、さっきよりも潤いを帯びて見えるのは炎のせいなのか──?
「……み……」
近づこうとした時、突然、ぼくの視界が回った。
自分が床に倒れたことはわかった。そのまま起き上がることが出来ず、必死で薔子の方に視線を向ける。
目に映るのは、泣きながら浮かべた美しい微笑み。あの最後の口づけで、ぼくは彼女に何かを盛られたのだと気づいた。
(……毒か……)
碌でもない人生。ぼくがこれで終わるのは悪くないが、薔子はまだ炎の向こう側から動かないでいる。彼女の背後には、部屋に続く扉だけで出口はない。このままでは──。
「……危ない……早く逃げるんだ……!」
薄れて行く意識をこらし、促す。
動こうとしない彼女に、ぼくはもう一度声を絞り出した。
「……薔子…………美雪……!」
だが、それ以上はピクリとも動けず、次第に薄れて行く視界に、炎が作り出す気流に煽られる薔薇の花が映った。やがて、それも炙られて焦げ、燃え尽きて落ちて行く。
その真っ黒な花が薔子の姿と重なった瞬間、口元には薔薇のような微笑みが浮かび──。
それが最後の記憶だった。
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気がつくと、見覚えのある天井が目に映った。それは、自宅のベッドから見上げる光景。長い長い夢を見ていたような気だるさ。
「……生きてる……? ……何で……」
不思議なことに、いつもと全く変わらぬ状態で目覚めたのだった。薔子との日々が、まるで夢ではなかったのかと思える。
(……もしかしたら、本当に夢だったのだろうか……)
ぼんやりと部屋の中を見回した。薔子と出逢う前と、寸分、変わらぬ室内を。起き上がり、家中を見て回るも、彼女と関わるようになってからの痕跡は何ひとつ残っていない。
もちろん、彼女がこの部屋に来たことなど一度もない。泊まることはおろか、玄関先に足を踏み入れたことさえ。いつでも、逢えるのは彼女のマンションだけ。薔薇の花が見下ろしているあの部屋の中。
「……メモ書きひとつ……カレンダーに書き込んだ予定ひとつ残っていない……か……」
夢であろうと、現(うつつ)であろうと、ぼくの記憶に薔子──美雪はいる。
「……無事に逃げおおせたのだろうか……」
逃げ場のないあの状況では、到底、逃げられたとは思えない。けれど、ぼくもこうして生きていて、彼女が助かっていないなどと考えられない。何より、失ってしまった感覚がまるでなかった。
(それもこれも、あれが現実だったなら、なんだけどな……)
もしかしたら、自分には妄想癖でもあったのではないか、などと苦笑する。もし、そうであったなら、その方がどれだけ良かったか。
全て夢であったなら。
薔子のことだけじゃない。美雪のことも、美花のことも、故郷での全ても、ぼくが犯して来た罪すらも。
けれど、そんなことはありえない。
少なくとも、ぼくの罪だけはなくならないし、決して消すことは出来ない。どんなに真っ白な雪が降り積もっても、それは黒いシミを隠しただけに過ぎない。
美雪が生きていても、代わりに美花が死んでしまったことは贖えないし、美雪から美花を奪ってしまったことを償えはしない。
ならば、これからどうすればいい?
何もなかったように、薔子と出逢う前と同じように生きて行くのか? そんなことが出来るのだろうか?
いや、全て夢だったことにすればいい。
自らに言い聞かせ、そう思い込もうとするぼくの背後に何かの気配を感じ、恐る恐る振り返った。
「…………!」
思わず息を飲む。
そう、夢になど出来るはずがない。
あの微笑みも、あの肌も、そして耳に残るぼくを呼ぶ声すらも。全て残っている。この身体に纏わりつくようにして。それらが、生涯、消えるはずはない。
そもそも、夢であるはずがないのだから。
その証拠に──。
床からぼくを見上げていたのは、役目を終え、静かに天から舞い落ちた一輪の薔薇の花だった。
~終~
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~エピローグ~
ぼくの日常は全く変わらなかった。
本当にあれらのことが、全て夢の中での出来事であったように。もちろん、そんなはずないことは十分過ぎるほどわかっていたけれど。
いや、正確にはふたつだけ変わっていたことがある。
ひとつは、薔子と出逢ったバー『 Under the Rose 』のバーテンダーが変わっていたこと。
様子見を兼ね、久しぶりに訪れた店。内装も何も変わっていない一方で、カウンターの中にいた男を見かけたことは今までに一度もなかった。
いつものカウンター席に座り、ウィスキーをオーダーする。グラスも、見事にカットされた氷も、何も変わっていない。
ひと口含み、鼻腔を通る独特の香りを確認すると、改めてバーテンダーの顔を見た。
「以前、他のバーテンダーの方がいらっしゃいましたよね? 辞められたんですか?」
訊ねたぼくに、バーテンダーは不思議そうな顔をする。
「いえ、この店におりますのは始めから私です……そう、かれこれ15年ほどになるでしょうか」
喉の奥に残る酒の仄かな辛さが、洩れそうになった声を抑えてくれた。
「……失礼……勘違いしたようです」
謝罪の言葉にやわらかく微笑んで頷き、男は小さなプレートに乗せた二粒のチョコレートを置いた。
「……どうも……」
ウィスキーと共に含むと、ほろ苦いチョコレートが混ざり合って溶けて行く。それは、ここでの記憶が、まるで過去に溶けて行くようでもあった。
そして、もうひとつ変わっていたのは、ぼくの戸籍。
最初に気づいたのは表札とポスト。目覚めた後、表に出てみると、『並木』だったはずが『立野』の表記に変わっていた。しかも、部屋の契約名義、銀行やカードの名義までもが変えられており、戸籍を確認してみると、それも『立野壱貴』に戻されていた。
文字通り、『並木京介』の全てが消えていた。殺されてしまったように……いや、正確には、端から存在しなかったかのように。
『並木京介には死んでもらうしかない』
薔子のあの言葉は、こう言う意味だったのだ。
「……いつか、また、逢えるのだろうか……」
今度は立野壱貴として。
そんなはずない、と思いながらも、心のどこかに期待がくすぶる。なくしてしまった気配がないだけに、いつか、どこかで、そんな予感が胸の奥から消えない。
歩きながらそんなことをぼんやりと考え、そよ風と共にすれ違って行く人たち。その時、その中で憶えのある香りがふと鼻先を掠めた。
「…………!」
咄嗟に振り返るも、歩いて行く人たちの後ろ姿が重なっているだけの光景。
けれど、きっと彼女は同じ空の下のどこかで、今もぼくを見ているのだろう。
~完~
*