DOLL〜裏面(ウラメン)〜
どこからか聞こえる
誰かが私のことを呼ぶ声が
*
私の一番古い記憶は微かだ。でも、とても優しい笑顔。女の人と──。それが誰なのかはわからないけれど、私の家族だった人なのかも知れない。
気づいた時には既に、私はここでこうしていた。豪華で広い部屋の中、周りには私と同じくらいの女の子たちが、ただ黙って座っている。皆、綺麗な子ばかりで、私が何故ここにいるのか……それすらもわからなかった。
世話をしてくれる人たちも、皆、綺麗な人ばかり。たまに動きたくなって立ち上がったり、声を出そうとすると顔を顰められたりもしたけれど、おとなしく座っていればとても優しくて、私たちを丁寧に扱ってくれた。
ただただ、着飾られて静かに過ごす毎日。それでも、時々年配の男の人や女の人が来て、私たちに色々な難しい話を聞かせて行く。でも、皆の世話をしてくれる人たちをまとめているメイド頭の女の人に、その話の内容は出来るだけ覚えるように言われていたから、たぶん皆、一生懸命に聞き取ろうとしていたと思う。
そうして何年かが過ぎ、もう自分の歳さえわからなくなっていたけれど、10歳は超えていた頃だったと思う。
「レベッカ。あなたの専任の世話係が決まりました。名前はジェシー……これからは、彼があなたの世話をしてくれることになります。安心して、彼に全てを任せなさい」
メイド頭にそう言われ、私は『ジェシー』と紹介された男の人を見上げた。20歳くらいなのだろうか。淡いブラウンの髪の毛、ヘーゼルの瞳で背の高い人。とても綺麗な顔をしている。ぼんやりと見つめていると、その人は恭しく私の前に跪き、大きくて綺麗な両手で私の手を取った。あたたかい手の温度が心地好い。
「はじめまして。今日からきみの世話を任されたジェシーです。よろしく、レベッカ」
優しい声。その声を奏でる形の良い唇が、そっと私の手の甲に触れた。まるで、触れられたところから溶けて行きそうな感覚。
私たちの様子を見ていたメイド頭は安心した表情を浮かべ、満足気に出て行った。
専任の世話係がつく──それはつまり、私たちが『仕事』に従事する日、サロンで客に顔見せする日が近い、と言うこと。私より年長と思われる人たちは、既に世話係が決まってお披露目に行った。そうなると部屋も大部屋から別れ、個々に与えられるらしい。
世話係に選ばれる男の人たちは、私が知る限りでは綺麗な人ばかりで、だからと言ってそれだけで選別される訳でもないらしい。他の子の専任として決まりかかった人が、別の子の担当になったのを見たことがあるから、きっと相性とか、そう言うことも加味されているのだろう。それくらいに彼らの役目は重要なのだと言う。
まずは男の人に慣れるため。サロンのお客様はほとんどが男性なのだと言うし、仕方のないことかも知れない。それから日常のあれこれ……私たちの着付けから化粧まで、全て彼らが施すのだそうだ。
何よりも一番大切な役目は、私たちの状態を保つための日々のケア。フィジカル面からメンタル面まで。良い状態を保てるように、最大限の美しさをお客様に提供出来るように、惜しみなく愛情を注ぐこと、なのだと言う。植物に陽の光と水、栄養を与えるように。
その言葉の意味はすぐにわかった。ジェシーは、本当に温室の花を咲かせるように私を愛(め)で、丁寧に扱ってくれたから。
優しい声が私の耳元で褒め言葉を囁く。そっと顔に触れ、化粧を施してくれる。あたたかい手、そして指が、髪に、肌に触れると声を洩らしてしまいそうになる。ずっとこうしていて欲しいと思ってしまう。
それを望むのなら、サロンでうまく振る舞わなければならないのだろう。『商品』として売れ、価値を高めなければ。
……ならば、そうするしかない。
そう決意してしばらく後、私はついに初見せの日を迎えた。
私には、自分の容姿がどの程度のものなのかわからない。お客様が私を選んでくれるか……そのことで測るしかない。けれど、それよりも何よりも、怖いお客様だったらどうしよう。嫌なお客様だったらどうしよう。そのことが先に立ち、不安でいっぱいになる。すると──。
「大丈夫。きみは誰よりも綺麗だ。きみを気に入らない客などいるはずがない」
私の心の内を見透かしたように、ジェシーが優しく私の頬に触れた。
「何かあればすぐに飛んで行くよ」
心細さで見上げる私を、そう言って送り出してくれた。
メイドたちのおしゃべりで、このサロンにはお金持ちの紳士しか入れないと言うことは聞いている。その話は本当のことらしく、ほとんどのお客様は優しく、無理な要求をする人もいなかった。たまに馴れ馴れしく触れて来る人もいたけれど、あまりに度が過ぎればジェシーがすぐに助けてくれた。
どんなお客様に当たろうと、ジェシーがついていてくれると思えば頑張れた。それに、無事にお客様が喜んで帰ってくれれば、その後にはご褒美のような時間が待っていたから。
ジェシーが用意してくれる甘いお菓子と美味しいお茶。でもそれよりも、甘いお菓子なんか比じゃないほどの甘い時間。化粧を落とした顔と爪のお手入れ、髪も丁寧に梳いてくれる。それから、眠る前にはあたたかい手で私の肌のお手入れも。身も心も溶けて行きそうな瞬間。
毎日がそんな風に過ぎて行ったある年、秋の始まりの頃。一度も会ったことのないタイプの、ひとりのお客様が現れた。
まだ若く、優しげでいて真面目そうな顔立ちのその人は『アンドリュー』と名乗った。正直、このサロンのお客様と言うにはそぐわない人だと、ひと目で思った。恐らく、二度とは来ないだろう、とも。
けれども、何故かその人は幾度となくサロンに足を運び、そのたびに私を指名した。だからと言って、何を話すでなく、時折、ポツリポツリと自分のことを語るだけ。まるで独り言のように。
お父様が早くに亡くなったこと、その折にお世話になった男爵にここに連れて来られたこと、お母様と弟と妹がいること、など。
ただ聞くことしか出来ない。それしか許されていないから。それでも彼は通い続けて来た。そしてある夜、私に訊ねた。
『……こんなところにいるの嫌じゃないのかい?……こんな愛玩具みたいなことさせられて……ここを出たくならない?』
答えることなど出来ない、と……彼にもわかっていたはずなのに。困った私は、ほんの微かに首を傾げてしまった。どうしていいかわからずに。
その日、彼はやけに真剣な面持ちで帰って行った。その様子が、私の中に何か言いようのない不安を残し、その予感は図らずも的中してしまうことになる。
その後も、彼は同じ頻度で私を訪ねて来ていた。特に変わった様子を見せることはなかったが、数週間が経ったある日、突然、私を館から連れ出した。全てを見計らった、完全に計画的な行動だった。
「レベッカ。こんな牢獄みたいなところから抜け出すためなんだ。しばらく我慢しておくれ」
彼の言葉など耳に入らないくらい、私は動揺していた。こんなことがバレて捕まったらどんな目に遭うか、私でさえわかっていることだった。
(……どうしよう……どうしよう……)
心底、善意からの行動であることはわかっていた。けれど、だからこそ、その善意に答えられるようなものが私にはひとつもない。
だって、ここを出ることなど、私は一度も考えたことがないのだから。いいえ、それ以前に、私はここ以外での生きる術を持っていない。外の世界に今さら出るなんて考えたこともない。何より私は、ジェシーと離れては自分のことさえ満足に出来ない。
(……ああ……どうしよう……きっとこの人、殺されてしまう……怖い……外の世界に出るなんて……どうしたらいいの……)
私の内心など彼が知るはずもなく、鞭を入れられた馬はひたすら森の中を駆け抜ける。これからどうなるのか、初めて乗る馬の背、何もかもが怖かった。
鬱蒼とした森を抜けると、突然目の前の地面が割れていた。覗き込んだ彼が動揺している。どうやら渡るはずだった橋が落ちてしまっているらしい。
(……これで諦めてくれるかも……?)
そんな甘い考えを吹き飛ばすように、彼が手綱を握り直したその時──。
『……随分と大胆な真似をなさいましたね、アンドリューさま』
ジェシーの声だった。助けに来てくれた安堵と同時に、アンドリューがどうなるのか心配で堪らなかった。ジェシーは私を返せば見逃す、と言ってくれたけど、案の定、受け入れる様子はない。
(……ああ……どうしよう……このままじゃ……)
ふたりの言い争いを聞きながら、私にはなす術がなかった。そうしている内に、今まで一度も聞いたことのない鋭い音が響き渡り、森から鳥たちが一斉に飛び立つ。
私の目に映ったのは、スローモーションのようにゆっくりと崩れ落ちるアンドリューの姿。その向こうに立っているジェシーの手に握られたものからは、白い煙が棚引いていた。
(……ああ……)
それでも何も出来ずにいる無力さ。何故、こんなことをさせてしまったのかと言う罪悪感。気持ちだけでも答えられない自分。
打ち震える私の元に、ジェシーは何事もなかったように近づいて来た。馬から降ろした私をいつものように抱き、自分の馬の方へと向かう。
ジェシーの肩越しに見えるアンドリューの姿。私のせいで彼はこんな目に遭ってしまったのに、何もしてあげることが出来ない。
(……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……)
地面に倒れ伏したアンドリューの目は、真っ直ぐに私を見つめていた。私には、心の中でただ謝るしか術がない。
(……私のせいでこんなことに……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……)
彼に申し訳ないと思う気持ちに嘘はなかった。けれども、同時に……いいえ、それ以上に私の中では、ジェシーの腕の中に戻れた、と言う安堵感の方が強かったのも事実だった。
(……ごめんなさい……)
私は彼の目を見つめながら謝り続け──。
寂しげな、無念そうな彼の目が、いつまでも私を見つめている。それが、私が見た彼の最期の姿だった。