魔都に烟る外伝/終宴の始まり~part14~
突然の帰国取り消しを言い渡されるも、ヒューズは意外なほど冷静に受け止めた。
朝、姿を見せたクライヴの様子で、ヒューズは何かがあったことを感じており、指示が出るや否や、すぐさま渡航のキャンセルと延泊の手配を済ませる。
倭(やまと)の顔を見た五百里(いおり)に至っては、昨夜、二人の間に起きたことを全て見通したかのようであった。
「……倭様……」
何か言いたげに見つめるも主は何も答えず、ただ感情のこもらぬ目を向けて来る。その視線を受け、五百里は何も問わずに口を噤んだ。
「食事の支度が整っております」
それぞれが何かを思いながらも、秘したまま何もなかったかのように食卓に着き、ヒューズがいつものように茶を注いで征く──表面上は変わらぬ光景の中で、クライヴの心配は偏にライナスのことだけであった。
国を発つ前に、どんなことがあっても動かないように伝えてはある。娘のためにも無茶をするとは思えなかったが、マーガレットのことを知れば、どのように転ぶか楽観は出来なかった。
「ヒューズ……フレイザーに急ぎの知らせを頼む」
「かしこまりました」
どんなことをしても、彼を留めなければならない──それがマーガレットの望み。
クライヴの脳裏を、幼い(いとけない)ルキア・ローズの顔が過る。せめて、彼女の身の安全と、表立った平穏な生活だけは保証してやりたかった。そのためには、ライナス自身の安全が確保されなければならない。
ライナスとオーソン、そしてリチャードへの監視を怠らぬよう、フレイザーに頼むしか手立てはなかった。
「予定変更の件、共にお伝えして参りました。本日分のお便りには……特に変わったことはないようです」
クライヴが頷く。
しばし食事に専念した後、クライヴと倭は本格的に計画変更の詳細について話す場を設けた。ヒューズも五百里も同席の上で。
昨夜、マーガレットの魂が現れたことを説明すると、伊達に特殊な主に仕えている訳ではないヒューズと五百里は、直ぐ様、理解した。それがどう言うことであるのか、何を意味しているのか、を。
「……では、奥様は既に……」
ただし、ヒューズのショックはそれなりに大きかった。数ヶ月とは言え、同じ屋敷内で共に過ごし、特に彼は同じ時間を共有することが多かったので仕方ないとも言える。
「せめて、魂だけでも救ってやりたい……子と共に送ってやりたいのだ」
「……はい……」
鼻をすすって堪えるヒューズに、倭も五百里もかける言葉はなく、ただ下を向くしかなかった。
「……倭様……此度の件、大刀自様は何と……」
話の隙間を縫うように五百里が切り出す。それは控えめ、と言うよりは、恐る恐ると言った体。それもそのはずで、『此度の件』の中には、全て、が含まれていた。彼女が知り得る『全て』が。
倭が『第一の側近』と言うだけあり、五百里はそれなりの『力』を有していた。クライヴが感じる程度には。何より、観察力、洞察力、直観力もある大人の女でもある。彼女はひと目見て、倭の変化に気づいた。倭が、いわゆる表向き定義としての『巫女の資格』を失ったことに。
「予定の変更しか伝えておらぬ」
答える声に感情はこもっていなかった。いつも通りの倭である、としか言いようがない程に。他の巫女と違い、倭の場合『資格の喪失』と『力の喪失』は同義ではなく、単に表向きの『資格』を失ったに過ぎなかった。
「左様でございますか」
倭に動揺がないためか、五百里の返答も事務的なものに戻り、その返答で十分であることが窺える。それを見て、あくまで彼女の主は倭であるとクライヴたちにも理解出来た。だからこそ、倭は彼女を信頼し、呼び寄せたのだ、と。
「時が来るまで、ここにいらっしゃるおつもりなのですか?」
「わからぬ。その時々に考える」
「……御意……」
主従関係にあるとは言え、女性同士の会話とは思えなかった。クライヴでさえ「興味深いものを見た」と言うように目を細める。
当初、五百里を自分と同じくらいの年齢と見ていたクライヴは、実年齢を聞き、驚くと同時に納得もした。実際には、五百里はクライヴよりも三つほど歳上で、大人の雰囲気を纏っていることは当然とも言える。
とにかく、クライヴにしても、倭側──正確には倭が所属している背後──の思惑は読み切れないものの、一定以上の条件で彼らが倭を拘束することは出来ないのだと判断した。ある程度の枠はあれど、倭自身が決断し、実行したことに対して強くは出れないのだ、と。
そこに来て、初めて逢った時の、あの連れの老女との関係性に行き当たる。年功序列や立場以上に、倭の持つ強大な力が関与するのだ、と。それはリチャードとクライヴの関係に近い、とも言えた。
そんな互いの背後関係も加味しつつ、クライヴの元に思いもよらない知らせが届いたのは、それから数日後のことである。
*
クライヴと倭が部屋を共にするようになり、ヒューズがそのことに慣れ始めた頃──。
その朝も、クライヴは倭と共に朝食の席に姿を現した。
「カーマイン様……本日分のフレイザー様からのお便りです」
いつもの定期便をクライヴに渡す。すると、茶を注ぐヒューズの横で目を通していた主が眉をひそめた。
「どうなさったのですか?」
ヒューズの問いに、顎に指を当て、再び、内容を確認するように目で追う。
「リチャードがなかなか表に出て来ず、公務が滞り気味らしい、とある」
「え、国王陛下がですか? 何かあったんでしょうか……」
「原因はわかっている」
クライヴは小さく溜め息をついた。リチャードは厄介事は起こすものの、比較的公務には真面目である。だが、ひとつだけ、仕事が手につかなくなる『原因』があり、クライヴはそれを知っていた。
「……太王太后陛下が体調を崩されると、リチャードはいつもそうなのだ。気もそぞろで、奥に籠り切りになる」
「……わかりやすい方なんですね」
ヒューズが何気に不敬な言葉をつぶやく。それも無意識の内に。クライヴの口角が持ち上がった。
「育ての親、みたいなものだからな……実の母君とはそれほど関われぬのが、国王になる者の定めだ」
だからこそ、太王太后の実の甥であるクライヴに対しても、親しみと嫉妬、その相反する気持ちを抱き、そして隠そうともしない。いや、出来ないのだ。
「どちらにしろ、陛下は元々お身体が強くはない……いつものことではあるが、大事なければ良いがな」
そう言って朝食を口に運び始めた。
クライヴにとっては公務云々よりも、太王太后アリシアの容体の方がよほど重要であった。仮にも実の伯母であり、現在のところ、クライヴにとっては唯一の血縁でもある。マーガレットとの間に出来た子、ガブリエルを除いては。
「……クライヴ……先ほど申されていた太王太后陛下とは……?」
頃合いを見計らっていたのか、食事が終わる頃に倭が訊ねた。クライヴは自国の王室の現状について、まだ詳しく説明していなかったことに気づく。
「太王太后陛下アリシア・ロザリンド様は……私の母方の伯母に当たる。先々代国王陛下の後室となり、国母となられた御方だ。……ご自身にお子はおられぬが……」
事情を概ね理解した倭が頷いた。
「リチャード……国王は、決して無能でも馬鹿者でもないはずなのだが……太王太后に構ってもらいたいがために厄介事を引き起こす、と言う点では……やはり馬鹿者だな……」
情け容赦なく言い放つクライヴに、倭は微かに睫毛を伏せ、ヒューズは後ろで笑いを堪える。──と、扉を叩く音。
「……は、はい、ただいま……!」
堪えて飲み込んだ息が、返事となって飛び出した。急いで扉を開ける。
「たった今、急ぎのお便りが……」
渡されたのは、いつものように封印されたクライヴ宛の封書と二つ折りのメモのような紙。礼を言って扉を閉めると、ヒューズはメモの方を開いた。目を落とし、息を飲む。
「……カーマイン様っ……!」
思わず、ヒューズは声を上げた。
「どうした?」
「……フレイザー様からです……!」
訝しむクライヴに封書を差し出す。
「何だ?」
受け取るクライヴの眉の辺りに、不穏な感情が顕になった。
「カーマイン様に……後回しにせず、すぐにお読み戴くように、と……!」
「何……?」
さすがのクライヴもやや乗り出した。封を切るのももどかしく取り出す。
「…………!」
内容を全て確認するまでもなく、クライヴは驚愕と衝撃のあまり動きをとめた。息を飲み込んだまま、瞬きすらも。
「……カーマイン様……?」
不安気なヒューズに、クライヴは文字通り声を絞り出した。
「……太王太后陛下が……亡くなられた、と……」
「ええっ!?」
驚いたのはヒューズだけではなく、倭も五百里も息を飲み、顔を見合わせる。
時効の挨拶も何もなく、いきなり本題が記されていることは、フレイザーにしては珍しいことであった。いや、初めてと言って良い。そして、それ故に、最初の行だけで結末はついてしまっており、文を持った手が力なく脚の上に落ちた。
「……カーマイン様……陛下は、一体、何故……」
ヒューズがさらに不安気な様子で訊ねるも、クライヴは微動だにしない。窺っていた倭が、クライヴの手からそっと文を抜き出し手に取った。持ち主に遠慮しながらも目を落とす。
「…………!」
読み終え、倭は視線の動かないクライヴの横顔を見つめた。
「クライヴ……」
低く通る倭の声。さしものクライヴの目線も、ゆっくりではあるが声の主の方へと動いた。
「あの晩……」
「あの晩……?」
一瞬、倭の言葉が指す意味を読み取れず、オウム返しになる。
「……ご内儀の魂を救う手助けをしてくださったのは、太王太后陛下です……」
「…………! ……何……!?」
クライヴが目を見開いた。倭の言葉の意味を、理解しているのに理解出来ない、そんな風に見える。
「……いいえ……手助けどころか、あの晩、ご内儀を救ってくださったのは、まさしく陛下です」
そう言い直し、倭はクライヴに文の一文を指し示した。操られるように覗き込む。
そこには確かに、ある日の午後、茶の席にいた太王太后が、突然「いけない!」と叫んで立ち上がったかと思うとその場に倒れ、意識が戻らないまま亡くなった、と記されていた。
『──僅かに間を保たせてくださった方が……“いけない!”と言うお声と共に──』
マーガレットの魂が現れた夜──クライヴと倭が『契約』を交わした夜──倭が言った言葉と状況的にも日時的にも一致する。
「……命かけてまで……」
無意識につぶやいたクライヴは、自分でも驚くほどの衝撃を受けている、己に対して呆然としていた。
既に魂だけの存在となった者に、何故、そこまで──クライヴには理解出来ず、困惑しかない。いや、命をかけようとしていた訳ではなく、結果的にそうなってしまったのか、とも思えた。どちらにせよ、自分の責任だ、と。
「……であれば、国王陛下は……」
その時、放たれた倭の言葉に、クライヴは弾かれたようにハッとした。アリシアが寝ついただけで気もそぞろになるリチャードである。この事態に於いて、どう言う状況であるのかは想像に難くなかった。本気で暴走したオーソンを止められるなどと考えてはいないが、隙を見せれば容赦なく突いて来るのは目に見えている。
「……今の事態……せめて、リチャードにしっかりしていてもらわねば困る……」
クライヴの脳裏に思案が駆け巡っていた。一旦、戻るべきなのか──と。
「私が様子を見て来ましょう」
その時、突然、倭が言った。何でもないことのように、静かに。
「……倭……!?」
言われた意味がわからず、クライヴが倭の顔を凝視すると、背後で五百里だけが息を飲む。
「様子を見るなどと……一体、どうするつもりなのだ?」
「意識を飛ばします」
「意識を……?」
「魂魄、と言った方が良いでしょうか。実際に、私が肉体を以て赴く訳ではありません」
「……倭様……!」
クライヴが答える前に、五百里が口を挟んだ。明らかに心配の色が浮かんでいる。
「心配無用ぞ、五百里。逆に言えば、クライヴの傍におれば生身の方は安心出来る」
「……それは……確かにその通りではございまする……」
「一体、何のことを言っておるのだ?」
女二人のやり取りに、いまいち話が掴めずにしびれを切らせると、五百里は慌てて控え、倭は向き直った。
「先ほど申し上げたように、私はこの身体をここに置いたまま、意識だけを貴方のお国に飛ばします。肉を持たなければ、遮るものなく到達することが出来ます故……ただし……」
「ただし?」
「肉体の方はかなり無防備になります。もちろん、常人が何かしようとする程度なら、問題なく防げます。が、それなりの力を持つ者の中には、魂魄の存在を察知したと同時に、本体の在り処を探り出して仕掛けて来る輩もおります故……」
そこまで聞けば、クライヴには概ね理解出来る。
「……その間、私がそなたの身を守っておれば良い、と……そう言うことだな?」
「はい。お願い出来ますか?」
倭の言葉に、クライヴは皮肉気な笑みを浮かべた。
「その質問はおかしいぞ、倭。この場合、頼まなければならぬのは私の方だ。……そうであろう?」
返された言葉に、倭は敢えて言葉では肯定も否定もせず、ただ睫毛を伏せた。彼女にしてみれば「己から申し出たこと」に過ぎなかったが、逆にクライヴから見たその様子は、僅かながら不安を誘う。
「だが何よりも、その前にひとつだけ訊いておきたい。その行為は、そなたの身に危険や負担はないのだろうな……?」
クライヴが言う、この場合の『身』とは、魂魄と肉体、双方を指していた。二つが離れることでリスクはないのか、どちらかに、もしくは双方に負担が及ばないのか、と言う。
「問題ありませぬ。もちろん、ある程度の時間制限はございまするが、私にとっては、式神や護法を使うと同じ程度のことにございます」
「…………」
この時、クライヴはさりげなく五百里の顔を窺った。倭の言葉の中にある真実を見極めるために。
クライヴにとっても、倭は始めから感情の機微が読みにくい存在ではあった。それが、共にいる時間が長くなるごとに、解消されるどころか増していることにも気づいている。肌を合わせ、深い関係になって尚、彼女はクライヴが̪今までに知る女とは違っていた。それこそ、何もかもが。
クライヴの中に、倭に対する神聖視が残っている、などと言う次元の話でもなく、実際に男と女として触れ合いながらも、どこか現実の女ではないような感覚。夜ごと、腕の中に抱くそれは、間違いなく在るのに。
そんな印象を抱くのは、やはりこれまでに出逢ったことがないから、であった。
「……わかった。では、頼む……」
「はい」
五百里の様子から、その行為自体に危険性はないと判断する。嘘ではない、と。
「私はどうしていれば良いのだ?」
「何も……ここにいて、私の本体を見ていてくだされば……」
『本体を守る』などと大層な言い回し故に、身構えて訊ねたにも関わらず、返事はあっさりとしたものであった。
「……ですが……」
ふと、倭が何かを思い出したように付け加える。
「私のどこかに……手にでも触れていてくだされば、クライヴならばあるいは、強い印象の光景などは感じ取れるやも知れませぬ」
それを聞いたクライヴは、頭の中で意味をイメージし、納得したように頷いた。そして不意に倭の腕を掴み、引き寄せる。
「……あ……!」
驚いて声を上げた倭をふわりと抱き上げ、横抱きにした状態で椅子に腰かけた。ちょうどクライヴの膝の上に、倭が横向きに座った態勢に。
「これで良かろう」
「………………」
倭がクライヴを見上げた。
「これで良いのであろう?」
真っ直ぐに見つめる倭の表情に、特に感情がこもっている訳ではないが、何か言いたそうではある。
つまり、ここまでする必要はない、と。それでもクライヴにしてみれば、倭の身を確実かつ安全に守り、尚且つ、触れている、と言う状況としては最適な態勢なのだと理解し、敢えて反論はしなかった。
「……お願い致しまする……」
ポソリとつぶやくと睫毛を半分ほどに伏せ、何やら口の中で唱え始めた。その横顔をじっと見つめる。
「…………!」
ややして、クライヴは腕の中の重みに変化を感じた。それとほぼ同時に、傾いだ倭の頭がクライヴの胸に凭れ掛かる。
「……行ったのか……?」
己の胸に身体を預けた倭を抱え、クライヴが誰に訊ねるでなくつぶやいた。「はい」と答えた五百里が、倭に薄い羽織りをかける。
「……倭様は……伯爵のことを心から信頼していらっしゃるのですね」
眠っているかのような倭の顔を見つめ、五百里がやわらかい表情で言った。クライヴが五百里を見上げると、穏やかな微笑を向ける。
「この術を使われる時、大抵、倭様はおひとりでお籠りになられます。私たち一門はそれぞれに配置され、その場所で結界を張って本体をお守りするのです」
五百里の説明を、クライヴは黙って聞いていた。
「その折、倭様はご自身の前にも独鈷(どっこ)で結界を張り、座した態勢のままおわします。他人(ひと)にお身体をお預けになるようなことはありません……少なくとも、私が知る限りでは……」
クライヴの片眉が動く。
「……つまり、ご自身をお預けになっても良い、と思われるほどに、伯爵のことを信頼なさっていると言うことです」
クライヴは、興味深げ、と言うよりは、やや厳しく見える表情で五百里を見つめた。そうは言われても、俄には信じられない、と。もっとはっきり言ってしまえば、クライヴにとって真偽のほどは重要ではなかった。
そもそも、既に、互いに全てを晒し合った相手に、身体を預けられるだの預けられないだの、そんなことは重要ではなかろう、と。
「……倭様にとって身体を預けることは、命を預けることと同義……ともすれば、それ以上のことでございます故……」
だが、五百里はまるでクライヴの心の内を読んだかのように続けた。
「……倭の身は必ず守る……」
答えになっているような、いないようなクライヴの言葉。それを聞いた五百里は満足そうに頷き、ヒューズと共に少し離れた場所に控える姿勢を取った。
*
身体から離れた倭の魂魄は、ひとり、太王太后アリシア・ロザリンドの元へと向かっていた。
彼女が救ったクライヴの妻、マーガレットの魂を抱いて。
~つづく~