新規合成_2020-03-01_18-03-32

呼び合うもの〔壱〕〜かりやど番外編〜

 
 
 
 緑に囲まれたその場所に立ち、男は初めてそこを訪れた時のことを思い出していた。
(あれは……結婚してすぐだったな……)
 腕に抱いている子どもが不思議そうに男の顔を覗き込んだ時、背後からふたりを呼ぶ女の声が聞こえた。

 明るい陽光が差し込む開放的なリビング。
 
 数人の男女がくつろいだ雰囲気で談笑している中、数枚の書面に目を通していた、背の高い50代ほどの男が顔を上げた。
「小半優一(おながらゆういち) 32歳。学生時代から代議士・副島大造(そえじまだいぞう)氏に目をかけられ、首席で卒業した後、ほんの数年で第一秘書に。非の打ち所ない仕事ぶりで副島氏の信頼も厚く、彼が引退を表明した今後は、中核を成す存在となることは間違いない……か。……どうだ、智(さと)?」
 すらりとした、やはり50代と思われる女に訊ねる。
「兄さん、私は別に構わないのよ? 要は和沙(かずさ)がどうか、ってこと。和沙が気に入れば、私たちは反対する気はないわよ……ねぇ?」
 智と呼ばれた女は、隣に座っていた同年代の男に同意を求めた。
「ええ。和沙の人を見る目と判断力の方が、私などよりよほど確かです。我が三堂(みどう)家よりも、義兄さんや智の血を強く引いていますよ」
 笑いながら彼の目は、少し離れたところに座っている、20代半ばから後半と思しき女に向けられた。
「……ご謙遜を。ふむ……和沙、どうする? 会ってみるか?」
 男が訊ねると、和沙と呼ばれた女が持っていたグラスから目だけを上げた。爽やかでいて強い目線、瓜実顔に意思の強そうな口元。
 くわえていたストローを離した和沙は、自分の手元にあった書面を手に取った。
「……会ってみてもいいけど、会ったら否応なしに『はい、決定』とか言うんならイヤだよ、伯父さん」
「そんな昭和初期みたいな見合い、お前にさせんよ。気に入らなかったら木っ端微塵にされるのがわかり切ってるからな。それは端から先方にも伝えてある。これはあくまで、見合い、だ」
 可笑しそうな『伯父』の言葉に、別のテーブルに座っていた若い男たちが一斉に笑いを堪える。それを横目に微妙な表情を浮かべ、和沙は書面の隅から隅までを見通した。何度、読んでも内容は変わらないのだが、わずかに口角が持ち上がる。
「ん……いいよ。少なくとも、この前の人より全然面白そう」
「……面白そう、ね……わかった。日取りが決まったら連絡する」
 和沙の返事に笑いを堪え、男は答えた。
 
「それにしても、不思議な縁だなぁ」
 和沙たち三堂一家が帰った後、男はひとり言のように妻に向かってつぶやいた。
「不思議だから縁なんでしょうに」
 坦々と返され、男は楽しげに笑う。
「まあ、確かにそうとも言えるな」
「仁(じん)さん……和沙には話したの?」
 妻の問いかけに、仁と呼ばれた男が頷いた。
「和沙にも、智たちにも、一応は、な……。いくら何でも、何も言わないのはフェアじゃないだろう」
「そうね……あの子には?」
 一瞬の間を置き、男は再度頷く。
「話したよ。当たり前だが、驚いていた」
 やや表情を引き締め、書面を手に取り、何度も目を通したそれをさらに見通した。
「まさか、なぁ。つまり、この子は、兄、ってことなんだよな。てっきり倉田大樹(くらただいき)の方だと思っていたのに……」
 男の言葉に、妻の顔にも真剣味が増す。
「……呼び合うもの、なのかしら……」
「……ふむ……」
 結局、答えは出ないまま、男は電話を手に取った。

「小半」
「はい、先生」
 書面に目を通す副島の呼びかけに、小半優一が顔を上げた。
「先生はよせ。私はもう引退する身だ」
「私にとって、先生はいつまでも先生です」
 優一の返事に、副島が少々複雑そうな笑みを浮かべる。
「三堂家との話、先方から返事が来たぞ。来月第2土曜日……大安吉日、ではないな」
 カレンダーを見、特に思い入れもなさそうにつぶやいた。
「客観的に言って、お前にとっては良い縁だろう。だが、本当にいいんだな?」
「先生……その話は、もう……」
 少しうつむき加減に答える優一に、副島が目を伏せる。
「……わかった」
 もう一度、書面に目を落とし、副島は小さく笑った。
「先生?」
 不思議そうな優一に、副島は珍しく楽し気な目を向ける。
「いや……この三堂和沙くんか? なかなか面白そうな子だ。一筋縄では行かんかも知れんが、お前となら良い組み合わせになるかも知れんな」
「どう言う意味ですか、先生」
 少し納得が行かないと言う表情の優一に、副島の顔がほころんだ。
「そもそも、お前は一癖も二癖もある方が好きだろう?」
「そう言う訳では……! 私が変わり種好きみたいな言い方はやめてください、先生。それに、先方のご令嬢にも失礼です」
 珍しく慌てた様子の優一に、副島がさらに顔をゆるめる。
「まあ、いい。どちらにしろ、実際に会ってみなければ何もわかるまい。とにかく、話はそれからだ」
「はい」
 
 優一の心の中に、他の女──『夏川美薗(なつかわみその)』と言う──が残っていることは事実であった。
 だが、実際にはもう『夏川美薗』はいない。いや、正確に言えば、『夏川美薗』自身が作られた存在であり、そもそも優一が出会ったのは本来『美薗』ですらなかった。
 本物の『美薗』は何年も前に死んでしまった『西野美薗』と言う少女のことであり、『夏川美薗』はその戸籍を使って名乗っていたに過ぎない。
(しかも、それが実の妹だったなんて……)
 今でも鮮明に思い出せる。中性的ながら華やかな女の顔を。美しいその身体を。最後の最後で引き留められたのは、やはり神か祖父母の采配だったのか、とも思う。
「それより、その前にお前に会わせておきたい」
 はっと我に返って副島に視線を戻すと、先ほどまでの笑顔は掻き消え、真剣な眼差しを向けられていた。
「はい……先生のご子息、倉田大樹氏……ですね」
 副島が頷く。
「明後日はどうだ? ああ、沙代(さよ)さんの都合もあるが……」
「はい。母は大丈夫だと思います」
「では、その折にな……」
 
 そのひと言で会話は打ち切られ、優一は再び意識を仕事に戻そうとした。
 だが、一度、胸の内に甦った想いは、ようやく鎮まりかけた火に高濃度の酸素を投入したようなもので、消そうとして簡単に消せるものではない。
(今までに、本気で手に入れたいと望んだものなどあっただろうか……)
 記憶を呼び起こそうとしてみたが、思い当たるものが浮かばない。金も、名誉も、そして、女も。
 凡そ、今、手にしているもので十分過ぎるほどに事足りている。ただ、事足りてはいても、満ち足りているか、と問われれば『否』としか答えようがなかった。
(……彼女を……手に入れたかったんだな、おれは……初めて本気で……)
 そう自覚せざるを得ない。
 同時に、それが絶対に不可能であることもわかってしまっていることが、尚の事、優一の胸を疼かせた。初めて心から望んだ『女』が、実の妹であったと言う事実に。
 とは言え、惹かれたのは、もしかしたら血の近さ故であったのではないか、同じ血が呼び合ったのではないか──それも否定は出来なかった。
(……美鳥(みどり)……松宮(まつみや)……美鳥……)
 心の中で、妹の本当の名を呼んでみる。
 妹の姿と同時に、それと良く似た美しい女の顔も脳裏を過った。尊敬して止まない副島が、憧れ抜いたと言う祖母の若い時分の姿が。
(美鳥は今、どこでどうしているんだろう? 先生の話だと、緒方昇吾(おがたしょうご)はもう生きていない、ってことだったが……)
 黒沼邸での事件より後の美鳥たちの消息までは、副島にも掴むことは出来ていなかった。もちろん優一も、黒沼に関わる人間たちが、何者かの巧妙な圧力によって身動き取れないようにされていたことは聞かされている。
 だが、副島がそれを知り得たのも特殊なルートを通して、しかも間接的であったし、そもそも手助けに入るつもりはないと宣言し、実際に動きもしなかった。
 つまり、優一にはわかるはずもない、と言うことである。
(……いつか、会えるのだろうか……兄と妹として……)
 結局、考えても予測の域を超えることはなく、諦めた優一は二日後、副島の息子・倉田大樹との初対面の日を迎えた。

 その日、優一は母・小半百合子(ゆりこ)──本名・倉田沙代を伴い、副島に指定された場所を訪れた。
 
「ここか……」
 閑静な住宅地の、一段と環境の良さそうな中にある一軒家である。
 表札を見れば『倉田』の文字。その隣にあるインターフォンを押すと、すぐに女の声が答えた。
「小半と申します。本日は副島先生のご紹介に預かり……」
『はい、伺っております。少々、お待ちくださいませ』
 すぐに鍵が解除される音が聞こえ、お手伝いらしき年輩の女が姿を現した。
「お待ちしておりました。どうぞ」
 やわらかな物腰で会釈すると、女は二人を中へ促す。案内された部屋には、既に副島が待ち受けていた。
 
「先生、お待たせして申し訳ありません」
「おお、来たか」
 優一の声に振り返った副島が立ち上がると、奥に座っていた若い男も腰を上げる。
「沙代さんも申し訳ない」
「いいえ、とんでもないです」
 自分の座っていた場所に二人を招いた副島は、若い男がいる向かい側に移動した。
「紹介しよう。私の息子で倉田大樹。もちろん、本来なら小半大樹だが……」
「はじめまして。倉田大樹です」
「はじめまして。小半優一です。こちらは、母の百合子……いえ、沙代です」
 沙代が遠慮がちに会釈すると、副島が全員に座るよう促した。
 
 同じ歳のふたりの男は、切っても切れぬ縁を抱えて初めて向き合った。
 未だ知らぬ互いの心境へと、思いを巡らせながら。
 
 
 
 
 
~つづく~
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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