魔都に烟る~part28~
ローズも男爵も微動だにせず、時すらも止まってしまったかのような空間。鮮やかに変色したレイの右目。
その滴る血の色にも似た真紅の瞳が妖しく艶めく。
我に返ったローズは声を出そうと口を開くが、なかなか空気を震わせることが出来ない。
「……貴様……その目は……」
先に声を出したのは男爵の方であった。
ローズも固唾を飲んでレイの答えを待つ。
レイは変わらぬ静かな目で、真っ直ぐに男爵を見据えた。
「……左に宿るは神……」
ひとり言のような声。しかし、その小さな声が信じられないほどに耳の奥へと響き渡る。
「……何を言っている?」
訝しげに問う男爵。
すると、レイの唇の両端が薄っすらと持ち上がった。
「……何がおかしい!?」
馬鹿にされていると踏んだのか、再び男爵が激昂する。
「……右に宿るは……」
レイの両目がひときわ妖しく光を放った。滴る生命の源流の中に輝く黄金の光。
「……禁忌を還すゼロ……」
瞬間、レイの唇から一切の笑みも感情も消える。
その瞳が放つ光だけが、まるで辺りに漂うように。煌めく微細な粒子が、霧となって烟るかのように。
「……ぐうっ……!」
直後に響いたのは男爵の呻き声。ハッとしたローズが男爵の方に意識を引かれた。
「……貴様……何だ、これは……!」
男爵が、絡みつく光の糸の狭間でもがいている。
「……それはあなたを離すことはありません。あなたには……」
ローズが思わず息を飲むほどに冷たい声。
「……魂まで無に還って戴きます」
それは、聞いたことがないような低い声であった。
「偉そうなことを言うな!誰が貴様のような若造に!わしを甘く見るな!」
まくし立てた男爵は、血走った目で何やら唱え出す。それを聞いたレイの目が、一瞬、見開かれた。
次の瞬間。
ローズの目の前で激しい光と音が弾けた。思わず腕で顔を覆いながら逸らす。
音の余韻が消え、恐る恐る目を開くと、先ほどレイが張った『結界』に阻まれ、ローズは傷ひとつ負っていなかった。しかし、レイの方を見ると、彼は無傷ではないことに気づく。
ところどころ裂けた服。裂けた皮膚。数ヶ所、血が滲んでいる。
レイの身体を掠めて行く真空のような風圧は、さらに絶え間なく続く。それに晒されながらも、レイは眉ひとつ動かす様子もなく立っていた。
男爵の唱和は次第に激しくなり、ある種のトランス状態に陥っている。
その身体からは小刻みな振動が空気を伝い、身体に絡みつく金の糸はスパークしているが、それでも、一向に解ける様子はなかった。
ただ、一心不乱のその様子は鬼気迫っている。
「……もう手段を選ぶ理性をも手放したか……」
呟いたレイが腕を動かそうとした時、ローズの視界が紅く烟った。
(……えっ……!?)
目の前が紅く烟っても、逆に頭の中は真っ白だった。まるでスローモーションのように、ゆっくりとしなったレイの身体から、赤い液体が迸る。その光景を、ローズは夢の中の出来事のように己の目に映していた。
「………………!」
無意識に身を乗り出す。
「……レイ……!!」
叫んで駆け寄ろうとするローズの身体を、見えない何かが阻んだ。
「………………!」
そうなって初めて、結界の存在を認識する。
「……レイ……!……レイ!!」
ただ呼びかけるしかない自分を情けなく感じ、堪らない感情が胸にこみ上げて来る。
「……大丈夫です」
唇から滴る血を拭いながら、本当に何事もなかったかのようにレイが答える。━が、その途端、また何かに弾かれたように身体が揺らぎ、新たな紅い霧が烟った。
「……レイ!」
その時、ローズの耳は周りの壁が小さく軋み出した音を捉えた。小刻みな震動も。
「………………!?」
不安気に辺りを見回す。
「……屋敷ごと……全てを破壊する気ですか。そんなことをすれば、どちらにしても、あなたの身もただではすみませんよ」
『貴様を倒せば、その後などどうとでもなるわ』
血走った目。薄ら笑いを浮かべた男爵が得意気に言い放った。よく見ると、その顔には年寄りのような皺がいく筋も刻み込まれている様が見て取れる。ガブリエルの顔なのに、その輝く若々しい美貌は既になく、一気に50年も歳を経たようであった。
「……無茶なことを。ガブリエルの魂を離した今、あなたの力だけではその身体を維持するだけでも大変だと言うのに……あなたでは、ガブリエルの身体が本来持っている力を受け止めることなど、到底、出来ないのですよ」
『うるさい!わしの力が、ガブリエルに劣るとでも言うのか!その女がお前を庇った時に、跳ね返った力を防ぐことも出来なかったこやつより!』
ローズは変な罪悪感、のような気持ちに囚われた。殺されかけたのは自分の方だ。いや、レイがいなければ確実に死んでいた。それなのに。
「……当たり前です。彼女の護符、あなたでは防ぐことは出来ません。害意を持って彼女に手を出したのであれば、ガブリエルでさえ……数年前、彼がローズを自分のものにした時に死んでいたはずです」
(……え……?)
ローズは耳を疑った。
(どう言うこと?)
「彼女の身体の護符は、先代のアシュリー子爵と、彼女の母上に依頼された私の父が施したものです。我がゴドー家の秘儀中の秘儀。だからこそ、私は初めて彼女を視た時に、ひと目で素性がわかりました」
「………………!」
その言葉で、ローズは不思議に思っていた疑問が解けた。そして、彼は本当に『視た』のだと言うことも。
「そして、それは害意を持った相手には容赦なく発動します。それもあって、子爵は彼女を公の場から遠ざけていたのですから」
ひとつひとつ、謎が解けて行く。同時に、知らなかった父や母の自分に対する想いの深さも。
「もしもガブリエルが、ローズの護符を封じるために手を出したのなら、彼はその場で跡形もなく消えていたでしょう。先日、深手を負ったのは、私に対する敵意から放った力を彼女が受けたから、なのですよ」
━と言うことは、一体、どう言うことであるのか?
(……それは、一体……)
ローズの胸の内は混乱し始めた。
(……ガブリエルが……?……私に害意がなかった、って……じゃあ、何故あの時……)
「……どちらにしても、もうこれ以上はあなたに必要のないこと。そろそろ、あなたの力も限界でしょう?」
ローズの胸の内を余所に、強制的に話を打ち切ったレイが静かに一歩踏み出す。
「……全て……終わりにしましょう。屋敷ごと破壊したいのなら、して戴いて構いませんよ」
「……このまま、わしが力を放てば、せっかく結界で守っているその娘も共倒れだぞ」
男爵の言葉に、レイは冷たい微笑を浮かべて言い放った。
「……それが?……彼女とて、目的が果たされれば心残りなどないでしょう」
「……貴様……」
男爵の方が慄くほどに感情のない声。ローズも思わずレイを見遣る。━が。
レイの言う通りなのだ。自分も自分の目的を果たすために、レイと手を組み、利用して来たのではないか。
思い定めたローズは、その場で静かに立ち尽くした。