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声をきかせて〔第6話〕
企画室メンバーで行なった雪村さんの歓迎会は、ひとまず無事に終了した。
『無事に』というか、本当に『とりあえず』というレベルだ。
予想通り、彼女はプライベートな質問、特に家族に関することには全く触れなかったが、メンバーも次第に酔いが回っていき、雪村さんの口数が元々少ないことも手伝って、気まずい雰囲気になることもなかった。
室長は最初の挨拶をしてくれた後、ほんの小1時間ほどで引き揚げて行った。「あとは若い人たちで楽しんでくれ」と、お見合いの常套句のようなセリフを残して。
ぼくたちはそれから2時間ほどを店で過ごした。
その後、雪村さんは二次会の参加は辞退するというので、ぼくも一緒に引き揚げて彼女を自宅近くまで送って行った。
残った野島くん以下3名は歳も近く、久しぶりの飲み会ということもあり、4人で楽しく飲み直しに行ったことだろう。
それよりもぼくが気になったのは、雪村さんの様子だった。
酒に酔ったのかとも思ったが、それほど飲んだわけでもない。いや、ぼくはむしろ、少量とはいえ彼女が酒を飲んだことに驚いたのだが。
口数が少ないのは今に始まったことではないが、どこか、何か、今までと様子が違う。単にぼくの気のせいなのか、とも思うのだが。それならそれで問題はない。
だが、あの電話。
彼女が歓迎会の直前に、誰にも聞かれないようにこっそりとかけていた電話。
あの電話の現場をぼくに見られた直後から、何か様子が変わったような気がする。彼女は『家族への電話』だと答えたが、話している時の言葉の感じからして、どうもそうとは思えなかったのも一因だ。
現に彼女は自宅もあまり知られたくない様子で、家の前まで送ろうとするぼくを半ば振り切るようにタクシーから降りて行った。
人にはそれぞれ事情があることくらいわかっているつもりだし、無理に全てを見せろ、聞かせろ、などと言うつもりは毛頭ないのだが。
それまでがあまりに、まるで硬質なガラスのような雰囲気だっただけに、あの時の彼女の様子がどこか気になって仕方ない。
彼女のあの様子。ぼくには彼女が何かを怖れているように思えてならなかった。
そんな中で、ぼくはある噂を耳にすることになる。
ある日の午後、休憩室の前を通りかかった時だ。
『え~~~!うっそぉ~~~!!』
『ホント、ホント!経理部の子が見たんだって!』
『いやぁ~!クールなフリして意外にそっちもやり手なんだぁ~!』
『いや~。それ絶対に見間違いでしょ~?』
女子社員たちの噂話か、と苦笑いしながら通り過ぎようとしたその時。不意に聞こえた名前に、ぼくの足は硬直したように動かなくなった。
『ホントだって!あの人……最近、企画室に異動した……雪……雪村先輩?が専務の車に乗り込むとこ見たって!二人で見たから間違いないって!』
『専務の車にーーー!それ、いつよーーー!?』
『こないだの金曜日の夜だって!経理部のひとりが私と仲良い子で、もうひとりの子とゴハン食べた帰りだから絶対だって!』
『人は見かけによらないよね~』
金曜日の夜。
企画室の歓迎会があった日。
と言うことは、ぼくが彼女を家の近くまで送った……あと?
彼女はタクシーを降りて、その足で専務と会っていたということなのか。
立ち聞きなどするつもりはないのに、尚も聞こえてくる声から離れることが出来ない。
『うわ~。専務って結婚してたっけ?してたら、それって不倫じゃん?』
『どうだっけ?あんまり専務の話って聞いたことないよね。いやいや、でも結婚してるんじゃない?専務とかの役職だもん』
『でもさ~。ってことは藤堂先輩とはまだ何でもないってことだよね?』
『だよね!だよね!もうあんな綺麗な人が企画室に行っちゃったら、うちら絶対チャンスなくなっちゃうと思ってたけど!』
『でも専務と不倫とかすごくない?やっぱお金とか目当てなのかね?』
━不倫。
その言葉は、普段ぼくが見ている彼女にはあまりにそぐわない言葉だった。
確かに専務は結婚されている。……いるが。しかし。
雪村さんが……不倫?専務と?
人は見かけによらない、と言われれば否定は出来ない。確かに人を見かけだけで判断することは出来ない。出来ないが。
ぼくは専務のことをよく知っているけれど、そんな人には思えない。綺麗事と言われるかもしれないが、ぼくが知っている専務はそんな人ではない。
では、何故?
不倫でない方が、却って疑問が膨らむ。
何故、雪村さんが専務と一緒だったのか。
二人の関係が不倫である方が説明がついてしまうのだ。意図も簡単に。
ぼくが休憩室の前で立ち尽くしていると、噂をしていた女子社員たちが休憩を終えて出て来たところに遭遇してしまった。
「あ……きゃ!藤堂先輩!」
「え、あ……!……あ、あの……」
ぼくが入り口の傍に立っていたことに気づいた彼女たちは、顔を見合わせながら固まってしまった。
「あ……あの、今の話は私たち聞いただけで……」
ひとりがそう言うと、他の子たちも頷き合う。
「そうです。本当のことかどうかは……」
先ほどの勢いはどこへやら。電池が切れたように声が小さくなって行く。
「うん。でも不確かなことならなおさら、あまり言わない方がいいね」
ぼくが気持ちを抑えながら、努めて静かにたしなめると、萎れたように小さくなった彼女たちは急ぎ足で部署に戻って行った。
彼女たちが去った休憩室の長椅子に座り込む。頭が働かない。働かないのに、さっき聞いた話が脳裏を駆け巡るのだけは感じる。
『不倫』
専務が雪村さんと不倫をしているなどと、ぼくには到底信じられなかった。それだけは確かに信じられるのに。疑問だけは拭えない。
何故?
その疑問だけが。
自分の目で見たわけでも、直接聞いたわけでもない。信じるにはあまりに確証が少な過ぎる。
……と。
「藤堂主任」
ふいに名前を呼ばれ、ぼんやりしたまま顔をあげると雪村さんが休憩室の入り口に立っていた。突然、脳に電流が流れるように指令が走り、思考が戻って来るのを感じる。
「ごめん」
何が「ごめん」なのか自分でも良くわからなかったが、言いながら立ち上がったぼくに雪村さんが告げる。
「休憩中に失礼します。室長が主任のことを捜していらっしゃいます」
どうやらぼくを呼びに来てくれたらしい。
「本当?ありがとう。すぐ戻るよ」
雪村さんと企画室に戻りながら彼女を窺うが、何ら変わった様子はない。あの噂は、彼女の耳にはまだ入っていないのだろうか。ならば、他の人間の口から興味本意や陰口のように聞かされる前に、ぼくから真相を訊いてしまうべきなのか。
結論を出せないまま企画室に戻ると、永田室長と国内営業部の小池部長がご機嫌な様子で話している。
「遅くなりました」
ぼくが挨拶をすると、永田室長は満面の笑みで迎えてくれた。
「ああ、藤堂くん!待っていたんだよ」
「何かあったんですか?」
ぼくの質問に室長が答えようとしたところで、小池部長が割り込むように話し出した。
「いや~藤堂くん!きみが企画してくれたあれね、大当たりだよ!」
小池部長のいう『あれ』とは、少し前に国内営業向けに出した企画のことだ。部長は興奮した口調で続ける。
「大口が一気に3件も取れたんだよ!さすがだよ、藤堂くん!」
「そうでしたか。いえ、企画室全員ががんばってくれたお陰です。とにかくうまく行ったようで良かったです」
ぼくが答えると、満足気にぼくの手を握って大きく振る。
「まだまだイケそうだよ。次回の企画も頼んだよ」
「ご期待に添えるようがんばります」
部長の勢いにやや引き気味でぼくが答えると、そんなことには気づかない様子でうんうんと頷き、満面の笑みで国内営業部に戻って行った。
「主任!やりましたね!おめでとうございます!」
小池部長の姿が見えなくなると、後ろで聞いていた野島くんたちも嬉しそうに近寄って来て喜びを爆発させた。
「みんなが寝る間も惜しんでがんばってくれたお陰だ。ありがとう」
ぼくが本心から礼を述べると、4人は嬉しそうに照れくさそうに喜びを露わにした。室長も満足そうに見守っている。
企画室の仕事は、ともすれば営業からは叩かれる。成功すれば営業サイドの努力だけのように思われ、失敗すれば企画が悪かったと思われるのだ。
いや、もっと言えば、企画を打ち出した段階で叩かれることも多い。ノルマに縛られた営業サイドから見れば、上層部の気紛れな提案が少なくない企画や、ぼくたちが内部で考えた企画など、『理想論』や『お花畑的発想』にしか見えないらしい。
実際、ぼくも営業部に属していた頃は、企画自体をムチャだと思うことも多かったのだが、いざ企画室に入ってみて、その難しさと大変さに愕然とした。
それだけに、渋る営業を何とか説得し、成功に漕ぎ着けた時の嬉しさと達成感は格別なものがある。それをみんなで分かち合うことが、次の企画の原動力になるのだ。
「今回の企画も、みんなで協力して何とか成功させよう。よろしく頼むよ」
室長がそう締めるとみんなで頷き合い、また各々の仕事に戻って行った。
ぼくもひとつだけ肩の荷が下りた気分だった。もちろん、既に次の戦いは始まっているのだが。
すると、ぼくたちの様子を少し離れた場所でひとり見ていた雪村さんが、ぼくの方に近づいて来る。そこで突然思い出す。そうだ。彼女はこの企画の立ち上げ段階では着任していなかったのだから、ひとり蚊帳の外に出してしまっていたと反省する。
「主任、少し宜しいでしょうか。……企画のご成功おめでとうございます」
変わらぬ調子で話しかけて来た雪村さんに説明する。
「うん、ありがとう。雪村さんが企画室に来る前に着手したものだから訳がわからなかったよね。ごめん」
「あ、いえ。その企画なら、業者の手配など私の方で行ないましたので、大体の内容は存じております。それより……」
……どうやらぼくの杞憂だったらしい。
「次回、営業への企画説明を行なう際の資料ですが……作成してみましたので確認をお願いします」
それをぼくに言い出すタイミングを計っていたようだ。
「わかった。明日の夕方までに確認しておくよ」
「はい、お願いします」
彼女の後ろ姿を見ながら、相変わらず最低限の口数ではあるけれど、ほんの少しずつ会話が会話らしく成立するようになって来た……気がする。
この時のぼくは企画のことに気を取られ、雪村さんの噂のことなどすっかり忘れてしまっていた。
その夜━。
帰宅後シャワーを浴び、ソファに沈み込みながら資料の確認をしていると、携帯電話に着信。表示された名前を見ると片桐課長だった。
「はい。藤堂です」
『藤堂?片桐だ。今、大丈夫か?』
音が少し上下に揺れているように感じる。どうやら課長は歩きながら話しているようだ。
「はい。今、自宅ですので」
『そうか。実はちょっと嫌な話を聞いたんでな。きみにも伝えておいた方がいいと思って』
課長のその言葉で、突然、雪村さんの件を思い出す。もしかして、もう課長の耳にも入ったのだろうか?
「もしかして……雪村さんのことですか?」
こちらから切り出してみる。
『何だ。知ってたか。誰から聞いた?』
やっぱり。ぼくは思った。もう噂は出回っているのか。
「今日、休憩室で女の子たちが話しているのを聞いてしまいまして……」
ぼくがそこまで言うと、課長からは意外な言葉が返って来た。
『女の子たち?ああ、じゃあ違うな。きみが聞いた話とは別件だ』
あの話ではない?じゃあ、いったい?他にも何かあると言うことなのか。
『出入りの業者からの話らしいんだが、変な男が雪村さんらしき人の話を聞き込んでいたらしい。それから……』
変な男?雪村さんのことを……何故?彼女の何を調べていたのか。
『北関東エリア担当の営業で村瀬ってヤツ……藤堂も名前は知ってるよな?』
北関東エリア担当の営業で村瀬。詳しくは知らないが名前は聞いている。だが、いい話を聞いた覚えはない。
「はい。名前だけは聞いたことがあります」
『うん。あんまりいい噂は聞かないヤツだが、その雪村さんのことを聞き込んでいた男と一緒にいるところを見たヤツがいるらしい。もちろん雪村さんらしき人のことを聞いてたってだけで、彼女のことと断定されたわけじゃないが……』
「課長、その話の出所は誰なんですか?」
ぼくが尋ねると課長は意味がすぐにわかったらしく、
『欧州部の東郷くんだ。変な言い方だが、彼は社内では顔が広い。まあ理由はきみも知っての通りだが、彼が業者から聞いた話だから信憑性は高い』
欧州部の東郷くんが。では、あながち嘘ではないかも知れない。彼はある意味、社内の情報通だ。
『まあガセならガセで、それはそれでいいが、万が一ってこともあるし気になってな。念のためきみの耳にも入れておこうと思ったんだ。ところで、きみの方の噂と言うのは?』
「それは……」
ぼくは話すべきか迷った。が。
「雪村さんが専務と一緒にいるところを見た人がいる、ということでした。不倫ではないかと……」
『専務と不倫?……一緒にいたかどうかは別として、それはないだろう』
課長は即答だった。
「ええ。ぼくもそう思います」
ぼくも課長と同意見だった。
『まあ、どっちの噂にしろガセならいい。だが、念のため気をつけろ。雪村さんを守ってやれよ』
「はい……課長、ありがとうございます」
『それとな、藤堂。これだけは言っておく。ひとりで何とかしようとするなよ』
課長の口調は真剣そのものだった。
「えっ?」
思わず聞き返す。いったい、どう言う意味なのか。
『何かあったら必ず誰かに言え、ってことだ。何でもひとりで解決しようとするのはきみの悪いクセだ。いいな。おれでも永田室長でも誰でもいい。とにかく、誰かに話せよ。必ずだぞ』
ぼくはすぐに言葉が出て来なかった。自分ではそんなつもりが全くなかったからだ。
『いいな、藤堂』
課長が強く念押しする。
「はい。ありがとうございます」
そう答えて電話を切った。課長の優しさにはいつも胸が熱くなる。
それにしても、雪村さんらしき人のことを聞き込んでいたのは誰なのだろう?雪村さんのことだとするならば、いったい、何を調べていたのか?そして村瀬の意図は?
そこまで考えて、急に雪村さんの電話の相手に思い当たる。まさか、あの電話の相手が専務だったとしたら?
だが、片桐課長も二人の不倫説を鼻で笑っているような反応だった。
だとしたら、あの電話の相手は?
それは説明会まであと2週間という日だった。
***
忙しく準備を進めるうちに、いよいよ国内営業部への説明会当日となった。
雪村さんが作成した資料は良く出来ていたが、書面として配る資料と口頭で説明するための資料では若干ポイントが違う。その違いを明確に出した方がアクセントになることを説明すると、すぐに手直しをして来た。
そして━。
幸いなことに、その後、彼女に関する悪い噂は広まった様子もなく、あの時、休憩室で釘を刺せたのは良かったのかも知れない。
ただ、ひとつ気になるのは片桐課長が言っていた件だ。一応、あの後、なるべく彼女をひとりで行動させないように気をつけてはいるのだが。
そんなことを考えながら、午後の説明会のために最終チェックをしていると、ぼく宛の外線電話が入る。相手は取り引き先の広報の担当者で、急を要する案件が発生してしまい、至急ぼくに来て欲しいという。
時計を見ると10時15分。往復して小用を済ませるにはギリギリ間に合いそうだが、長引けば説明会までに戻って来れない。ぼくは先方に夕方への調整を打診したが、切羽詰まっているようでどうにも渋る様子が伝わって来る。
仕方ないので少し待ってもらい、室長に事の次第を説明し、万が一の場合のフォローをお願いしてみる。
「ああ、そう言うことなら仕方ないね。私が説明会の方は気にかけておくし、一応、野島くんにも待機しておいてもらおう」
最初の予定では、雪村さんには前半の一部だけ説明してもらい、残りはぼくが行なうはずだった。だが打ち合わせの最中に、
「これ、雪村くんが作ったのか。大したもんだな」
雪村さんが作成した資料を見た室長が完成度の高さに驚き、感嘆の声を挙げた。そしてその資料を読み込むとじっと考え込み、
「この流れなら、途中で藤堂くんに交替しないでそのまま雪村さんに最後までお願いした方が良くないかな?」
そう言い出したのだ。
それは確かにその通りだ、とぼくも資料を確認した時に思った。しかし、初めての説明会でいきなり通しと言うのもどうかと思い、敢えて分割したのだが。
そんなこととは知らない室長は、ぼくに説明の暇も与えずに雪村さんに尋ねる。
「どうかね、雪村くん。せっかくだからやってみないかね?どうしても無理そうな時は当然、藤堂くんがフォローに入るから」
室長は簡単そうに言っているが、我が社の場合、国内営業部への説明の方が却って厄介な場合も多い。さらに言わせてもらえば、最初から自分でやるよりも、むしろ途中でフォローに入る方が難しいのだが。
それでも既にぼくが口を挟める雰囲気ではなく、黙って聞いていると、雪村さんはいつもと全く変わらぬ口調でさらりと言い放った。
「ご指示とあれば」
やるつもりだ!
ぼくは彼女の何ら変わらぬ横顔を見つめた。室長は満足そうに頷き、「じゃあ、がんばってみてくれな」と気楽すぎる激励の言葉を残して戻って行った。
決まってしまった以上、もう仕方ない。ぼくは彼女に説明する側の注意点やコツのようなものを説明することにした。もちろん彼女は、その理論的な一切をあっさりと理解した。あとは実践できるかどうかだ。
そう言った経緯があったため、実質的にはぼくの出番はない。ただ、彼女の説明する様子を見て必要ならフォローし、終了した際に改善点などのアドバイスをする。もしもぼくが時間までに戻れなかった場合、それを室長に頼みたかったのだ。
野島くんと雪村さんにも簡単に事情を説明し、時間までに戻れなかった時のことを頼んでから、ぼくは急いで先方に向かった。
担当者との用件は、思っていたほど大変なものではなかったが、小一時間程度取られてしまった。先方からの『お礼に昼食でも』という強力なお誘いを丁重に断り、ぼくは急いでタクシーに飛び乗る。時計を見ると何とか間に合いそうだ。
シートに身を沈めるとタクシーの運転手がいう。
「お客さん、この先で事故があったみたいです。少し時間かかるかも知れませんよ」
こんな時に限ってこう言うことが起きる。ぼくは野島くんに電話をかけ、ギリギリには着けるかも知れないこと、可能であれば開始を少し遅らせてもらうように伝えた。
その後、やはり事故が影響しているのかタクシーの進みが遅い。ぼくはさすがに焦れて来た。ぼくが焦っても、車の流れが良くなるわけではないことはわかっているのだが。
仕方なく、窓の外を眺めて気を紛らそうとする。
……と。何故か、ふと、片桐課長の言葉が脳裏を過る。
『国内営業部の村瀬が……』
何か、胸に嫌な予感が走った。
今日の説明会は国内営業部向けだ。北関東エリアのチーフである村瀬という男も当然出席するだろう。
抑えきれない胸騒ぎに、今度は室長に電話をかけてみるが不通の音声が流れる。そのことが、どうしようもないくらいの不安感に拍車をかけた。心がざわつく。
仕方なく、再び野島くんに電話をかける。
『藤堂主任?今、どの辺りですか?』
「ごめん。事故渋滞でなかなか進まないんだ。ところで室長はいらっしゃるかな」
『室長も急用で、今、席を外されていて……すぐ戻れると思うと仰ってはいましたが』
その答えを聞いた時、自分が戻るまで開始を待ってもらわなければ、と直感的に思った。
「野島くん。何とかぼくが戻るまで開始を待ってもらって欲しい。営業部の人たちに事情を言ってしまって構わないから」
『わ、わかりました』
ぼくの声に何かを感じたのか、野島くんは緊張した声で答えた。
「たぶん営業のことだから文句が出ると思う。もし何か、どうしても収拾がつかないようなら……」
室長が戻れなかったらどうすればいいのか。
とっさにぼくの頭に浮かんだのは片桐課長の顔。
「室長が戻られなかったら、海外営業部の片桐課長に助けを求めるんだ」
『は、はい。わかりました』
管轄は違えど、片桐課長なら必ず助けてくれるに違いない。
ぼくは進みの遅い車の列を眺めながら祈るような気持ちでいたが、流れが完全に止まってしまったようだ。社までは2駅分くらいの距離だろうか。
「お客さん、こりゃあ当分流れそうもないですよ」
「すみません。ここで降ります」
運転手の言葉を受け、ぼくは逸る気持ちを抑え切れずにタクシーを降り、全力で走り出した。
~つづく~