新規合成_2020-03-01_18-03-32

呼び合うもの〔拾〕〜かりやど番外編〜

 
 
 
 暑さとは関係ない汗が、優一(ゆういち)の首筋に浮き上がる。
 
「逆に言えば、戸籍上、松宮(まつみや)の者であっても、実際に血を引いていないのなら、その人が受け継ぐこともありません」
 朗(ろう)の視線は揺らがなかった。たじろぎそうになるほど確固たる意思が伝わって来る。
 
「あなたが……あなただけが、今、この世の中で松宮の後継者と言える存在です」
 
 さすがの優一もめまいがしそうだった。
「……おれが間違いなく松宮の直系だって証拠は何もないんだぞ……! DNA鑑定した訳でもなし、あるのは状況証拠だけで、『小半(おながら)優一』に成り代わってるだけの別人かも知れない……! 関係者が納得するはずないだろう……!」
「納得しますよ。それこそが『松宮に仕える者』です。それに、あなたが松宮の血を引いていないなどありえない」
「何故だ……?」
「松宮の直系に関わっている人間なら、何となくわかるんです……松宮の者にしかない何か、が……」
 
 言葉が出て来ず、和沙(かずさ)の手を握り返したまま朗と見つめ合う。
「……ご心配なら、正式にDNA鑑定をしても構いませんよ。松宮の……敷島の研究所なら、概ね100パーセントの精度で結果を出せます」
 夏川(なつかわ)が微かに頷いた。
 
「……ならば……そこまで言うなら、もうひとつ訊きたい……」
 張り詰めた数秒の後、思いつめたような声音で優一が問う。
「……何でしょうか?」
 和沙は、自分の手を握る優一の手に力がこもったのを感じた。微かに汗がにじむのも。
「……その理屈なら、美鳥(みどり)ときみの子どもの方が順当だろう……」
 
 朗の目が、上目遣いで優一を捉えた。
 夏川の肩が強張り、拳に力が入る。
 
 その場にいた誰もが息を飲んだ。
 瞬きと共に朗の動きが全て止まり、それを見つめる優一もまた、息をひそめていた。
 
 これを訊くのは、優一ですら躊躇いがなかった訳ではない。禁忌、とも取れる質問であることはわかっていたし、下手をすれば関係性をも壊してしまう。
 和沙の手前、出来ればそんなことにはしたくなかったが、踏み込まずに終えてはいけない気持ちもあった。それに、これは当事者である優一しか踏み込んではならない問題でもあると、自身でも確信していた。
 
「……出来ないとは言わせない……そして、これまでの話を総合すれば、松宮家が美鳥の遺伝子を保存してないはずがない……違うか?」
 その質問は、朗に、と言うよりは、むしろ夏川に向けたものだったと言っていい。
 夏川が膝の上で拳をさらにきつく握った。同時に、生前の美鳥と交わした会話が脳裏に甦って来る。
(あの話を……朗さまにも話しておくべきだったのか……)
 さすがに美鳥が逝ってすぐに話すのもどうかと思い、喪が明け、少し落ち着いてから話してもいいと考えていた。まさか、今日この時まで関わりのなかった優一に、そこまで予想されるなどと考えてもいなかったのだから。
 
「……その通りです」
 
 知らぬふりを通すべきなのか、自分が答えるべきなのか迷う夏川の内心を知ってか知らずか、朗が坦々と答えた。驚きで夏川の瞬きは止まったが、朗の返答は終わりではなかった。
 
「……仰る通り、出来ますよ。やろうと思えば。……ただ、そのつもりはありません」
 結論だけを、明確に突きつける。
 
 夏川は朗の横顔を凝視した。
(……ご存知だった……? 美鳥さまが話されたのか? ……いや、それは考えられない。美鳥さまは可能性ごと、朗さまには隠しておきたかったはずだ)
 だが、逆に、断片的にしか知らない優一が予想出来るくらいなのだから、朗に出来ないはずがない、とも思う。
 
「……何故だ?」
「単にそのつもりがないからです。否定するつもりはありません。ただ、出来ることを知っていて、選べる立場にいて、そうするつもりはない、と言うことです」
 自身の出生に関して、朗が偏見を以って言っている訳ではないことくらい優一にもわかる。だが、それでも、疑問に思わざるを得ない。
 
「きみは、きみと美鳥の血を引く子どもを欲しいとは思わないのか……?」
 ほんのわずか、朗の眉が動いたのが見て取れる。
「……そう見えますか?」
 口調自体は変わっていなかったが、どこか抑えたような声音。
「……わからない。少なくとも、きみの表情からは読み取れない。いや、正直おれには、きみの声や振る舞い、どれを取っても何ひとつ読み取ることが出来ない。そんなはずないと思いながら、悲しんでいるのかさえわからないんだ……」
 迷っているような優一の言葉に、朗は視線を下げた。
「……正直、ぼくにも良くわからないんです。美鳥が遠くに行ってしまった感覚が夢の中の出来事のようで……眠る時や、夜中や朝、目が覚めた時に「いない」ことを実感するくらいなんです。悲しんでいない、というよりも……つれて行かせたからかも知れません」
 
 一瞬、優一の思考が止まる。
「……何だって?」
 何も映していないような朗の目が、優一の目を捉えた。
「……最後の時、ぼくは美鳥に言いました」
「……何をだ?」
 優一が訝しむように問う。
「つれて行け、と……」
「……朗……!」
 和沙が跳ねるように立ち上がった。そんな和沙を、朗は抑えた微笑で見上げる。
「ぼくの心をつれて行け、と……」
 続けられた言葉に、優一と和沙が同時に息を止めた。突っ立ったままの和沙を座らせ、呼気と共に声を絞り出す。
「……そんなのは今だけだ……! 必ず喪失感はやって来る……!」
 朗は睫毛を伏せながら頷いた。
「……でしょうね」
「抜け殻みたいなこと言わないでよ……!」
 今度は和沙が泣きそうな声で叫んだ。だが、朗が動じることはなかった。
 
「ある意味では間違ってないよ。でも、やらなければならない……美鳥の残したことをやり遂げなければ……それが出来るのはぼくだけだから、ただ抜け殻でいることは出来ない。
 それに、それほど悲観してもいない。すぐに逢いに行くことは許されなくても、こうして生きていることで、例え少しずつでも確実に近づいている。美鳥に逢える日に……」
「朗……」
 
「だからこそ、とは思わないのか……?」
 優一の問い掛けに、朗は首を振った。
 
「抜け殻でいるつもりはなくても、そこまでの責任は負えません。何より、美鳥が望まないことをしたくはないんです」
 夏川がピクリと反応する。
「知らなかったはずはありません。なのに、ぼくには何ひとつ話さなかった。それはつまり、望んでいなかったからで、ぼくにも知られたくなかった、ということです」
 朗は優一から視線を逸らした。その視線は、じっと自分を見つめている夏川へと向けられる。
「朗さま……私は……」
「わかっています。美鳥は先生にも口止めしていたのだろうと。先生のことですから、きっとほとぼりが冷める頃には、教えてくれるつもりだろうと言うことも……わかっていました」
 夏川が脚の上でぐっと服を握りしめた。
「……美鳥がぼくに言わなかった理由も、わかっています」
 優一と和沙が顔を見合わせる。
「理由? 自分が望まないから、以上の?」
「ええ。ずっとぼくの心の中にいたいと……ぼくがずっと美鳥に囚われていて欲しいと願いながら、それと同じくらい、自分から解き放たれて欲しいとも思っていたから……」
 
 全部見抜かれていたのだと、堪え切れずに夏川は下を向いた。
 それでも、あの時、美鳥が自分に言ったことを告げれば、その言葉自身も美鳥の恐れた呪縛になってしまう。「支えになることもある」と説得しようとした夏川に、「それを朗に望むような人間でありたくない」と答えた美鳥であったから。
 
──はじめからなかったはずの事を、もうわかっている未来に逆らってまでやって、その挙げ句に、手放す事が出来ないものを押し付けるなんて、私はしたくない──
 
 まるで昨日のことのように、一言一句、鮮明に焼き付いていた。
 
「……それでいいのか……? 美鳥の意思がどうであれ、きみ自身はそれで……」
 夏川の代弁をするように、優一が訊ねた。それでも、朗の表情に揺らぐ様子はない。
 
「抜け殻のように生きるつもりがないように、全てを閉ざして頑なに生きて行くつもりもありません。この先、ぼくの中に生まれる新たな何かがあれば、それに従って生きるつもりでいます。……もちろん、今はそんなことが起きる気はしませんが……」
 二人は、一切、視線を逸らさなかった。
 
「美鳥の意思が、ぼくの意思です。……少なくとも、今は……」
「賭けることすらしないで、本当にいいのか……?」
 
「もし、今、美鳥が生きていたとしても、きっとぼくらが踏み切ることはないでしょう。美鳥の根本には、自分の身体で不可能なことはしたくない、という考えがあります。例え、何らかの特効薬が開発されて改善したとしても、もう元には戻らないものもあるのだから……」
 朗の言葉に、夏川は動揺した。
 
「戻らない……? 何が戻らないんだ……?」
 一瞬、決意するような間を置き、朗は口を開いた。
 
「……美鳥には命を育むことは出来なかったんです……命を紡ぐ機能(ちから)を失っていたから……あの時に……」
 
 即座に意味を読み取り、口を覆ったのは和沙と春だった。
 言われた言葉を反芻した優一は瞬きを止め、佐久田も硬い表情でうつむく。
 
「それでも、ぼくは……」
 朗は静かに睫毛を伏せた。
 
 きつく目を瞑り、夏川が己の脚に身を屈める。
 やはり、朗は全てに気づいていたのだ、という事実を突きつけられ、美鳥にそのことを告げた日のことが鮮明に脳裏に甦った。
 
 初めて、美鳥に『お父さん』と呼ばれた日。
 『ありがとう』と言ってくれた美鳥を、抱きしめたあの日のことを。
 
 
 
 
 
~つづく~
 
 
 
 
 
 
 
 

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