かりやど外伝~松の宮 護る刀自〔参〕
明けて、1942年──。
昇蔵と冴子の婚儀が近づいていた。
周囲が準備で慌ただしい中、当の二人は落ち着いたものであった。少なくとも、周りの者たちの目にはそう映っている。
ただ、冴子の目に映る昇蔵は、以前にも増して口数が減り余所余所しかった。自分の事を避けているようにさえ感じられる。一度部屋に入ってしまうと、冴子が松宮家を訪ねても顔すら見せないことがあり、それは少なくとも以前にはなかった事である。
その日、冴子が不意に松宮家を訪れた時も、昇蔵は在宅ではあったが、キヨが呼びに行っても居間に出て来ようとはしなかった。申し訳なさそうなキヨに笑いかけた冴子は、帰ると見せかけて昇蔵の部屋の前に忍んで行き、そっと扉を叩いた。
「……はい……?」
本に目を落としたままの返事。
「冴子です。入ってもよろしくて?」
思いも寄らない声の主に、昇蔵が顔を上げた。聞き間違いかと扉を開けると、そこには確かに冴子本人が立っている。しかも、ひとりで。
「……冴子さん……」
「……お話したい事があるんです」
否、と言わせない面持ちに、昇蔵が息を飲む。押し切られるように身体を傾けると、スルリと滑り込むように足を踏み入れて来た。
向かい合いながら、冴子の視線は下を向いている。
「……冴子さん……お話とは……?」
一向に話そうとしない様子に、昇蔵の方から切り出した。膝の上で、迷っているように白い指が動く。冴子にしては珍しい間であった。
「……今なら、まだ間に合います」
昇蔵の思考が止まる。
「……何の話ですか?」
「……わたくしとの結婚です。……今なら撤回出来ますわ」
耳に入った言葉が脳に到達するのに、これほど時間を要した事はなかった、とすら思える。
「……何を言ってるんです?」
突然の話に困惑を隠せず、正しく理解出来ているのかもわからずに訊き返す。
「……それをお望みなのではないのですか?本当はわたくしと結婚などしたくないと……」
「……何故、そんな……大体、そんな事が出来る訳が……!」
思わず口調が強くなり、一瞬、冴子の指が強張った。
「……出来ますわ。……昇蔵さんが本当に望む事なら……!」
だが、冴子も退かず、ゆっくりと視線を上げる。互いの視線が、火花を散らすように絡み合った。
「……だから……!……何故、ぼくがそんな風に思っていると……!?」
「……だって、そうなんでしょう!?」
「そんな事……いつぼくがそんな事を言いました!?」
一瞬、口を噤んだ冴子が見上げて来る。
「……いつもいつも……困ったような顔をして目を逸して……わたくしが顔を見せるのが……会いに来るのが迷惑だったからではありませんの……!?」
「………………!」
思わず言葉を失う。
「……そんな風に……」
瞬きが止まる昇蔵の目。
「……そんな風に思っていたんですか……?」
「……違うと仰るの?」
何を言っても、冴子にとっては言い訳がましくなる事はわかっていた。自分の態度が曖昧である事は、昇蔵にも。
それでも、そんな風に見られていた、と言う事実は、昇蔵にとっては思った以上にショックな事でもあった。まさか、冴子に婚約解消を考えさせる程であったなどと。
だが、逆に昇蔵の中にも苛立ちが生じた。ならば、冴子の方はどうなのだ、と。持て余す苛立ちが、いつになく燻り始める。
振り払うように立ち上がった昇蔵は、背を向けて窓際へと離れた。
「……ならば、冴子さん……あなたの方はどうなんです……?」
「……わたくし……?」
訝しげな視線を向ける。
「……本当は、あなたこそが松宮家の正統な後継者なんです。もし、松宮に戻れば、あなたは何でも好きなように選べる……結婚相手すら。……ぼくと結婚したくないのは、本当はあなたの方なんじゃないですか……!?」
堪え切れず、昇蔵は己の心情を吐露した。冴子が背中越しに、今まで昇蔵が一度も見た事のない表情を浮かべる。
「……昇蔵さんは、一体、何をそんなに気にしているの?」
問われた昇蔵は、答えられずにただ立ち尽くした。気にしている、と指摘されたものが何なのか、当の本人にもわかっていなかったのだ。
「……わたくしが松宮の本当の娘であっても、わたくしたちの結婚が、産まれた時から親に決められていたものであっても……そこから逃れられようが、逃れられまいが、わたくしは……」
背中に投げかけられる冴子の言葉。心を逸らせず、瞬きも許されない空間。
ゆっくりと昇蔵に近づいた冴子は、正面に回り込み、その目を見上げた。
「……わたくしの往くところには、いつも昇蔵さんがいるのだと……わたくしの手を引いてくれるのは昇蔵さんだけなのだと……他の道を考えた事はありません……産まれた時からずっと……!」
昇蔵の眼(まなこ)が、最大限に拡大した。
『本当に?』
それを問う事は許さない、不思議な力を秘めた瞳が昇蔵を見つめている。正確には、既にその瞳の中に答えはあった。
疑う事も、問う事も許さない冴子の目は、まさしく父・瑛一郎から受け継いだ松宮の血。
しかし不思議な事に、その事に対する嫉妬心は浮かばないのだ。むしろ、この絶対的な存在を、自分だけが手に入れられる、自分だけのものに出来る──そんな思いの方が膨れ上がる。
「……冴子さん……」
まるで操られたように、冴子の頬に昇蔵が手を伸ばす。壊れ物であるかのようにそっと触れると、冴子の白い手が重ねられた。見上げる目が、微かに睫毛で翳る。
「……冴子です……」
言葉の意味を、脳が反芻する。心の潮が満ちるようにゆっくりと。
「……冴子……」
確かめるように、大切な呪文を唱えるように呟くと、昇蔵は吸い込まれるように顔を近づけた。
程なく、二人の婚儀は滞りなく執り行われた。美しい花嫁を、煌めく結晶が光の幕のように彩る、雪の舞う寒い日に。
遠く離れた戦場(いくさば)の事など、まるで嘘であるかのように。
*
それから終戦までの三年余り、情勢は凄惨を極めた。
幸いと言って良いのか、松宮家には何ら起こり得なかったが、関係する者たちまでが無傷で済んだ訳ではない。その最たるものが、冴子の戸籍上の実家である田宮家であった。
田宮夫妻は、出征した信太郎への面会に向かう途中で空撃に遭い、命を落とした。また、信太郎は戦地で若い命を散らした。
冴子は精神的に、昇蔵は物理的に、共に天涯孤独の身となったのである。
だが、むしろ二人よりも大きなダメージを受けたのは、松宮瑛一郎であった。田宮夫妻の実直さは、瑛一郎にとって心の拠り所であり、大きな支えでもあったのだ。
名目上、昇蔵に譲っていた家督を、完全に引き継ぎ、自身は隠居する事を決意させたのは、田宮夫妻の死に関与するところが大きい。
昇蔵と冴子は22歳であった。
戦争が終わっても、依然として松宮家は変わらぬ形で存続して行ったが、それは表面的なものである。他人からは見えないところで、少しずつ変わって行くもの──それは確かにあった。
結婚から十数年、昇蔵が名実ともに松宮家の当主となってから約十年。二人の仲は変わらぬものの、未だ子を授かってはいなかった。
松宮家の特性は周知の事実であったが、昇蔵にとっては、歴代当主と同じく最大の悩みどころともなっていた。
この件に関して問題なのは、乱暴に言えば、昇蔵が外に女を作っても意味がない、と言うところである。冴子との間に授からなければ。
松宮の血筋云々を別にして、昇蔵が単に『自分の子が欲しい』と望むのであれば、それも良い。だが、昇蔵が望んでいるのは、松宮の跡継ぎと言う以上に、『冴子と自分の子』なのである。
それほどに、昇蔵にとって冴子の存在は大きかった。
そして、冴子にその重荷を背負わせたくない、と言う気持ちも。
当の冴子の方は、むしろ気にしていない。それは当事者であり、何よりも松宮の特性を知っているからでもあり、また代々伝わる気質もあった。
そう言う意味では、昇蔵は真面目で繊細、尚且つ責任感が強かったとも言える。
もっと正確に言えば、縛られていた。『松宮の血』に。
それが、後々の仇となる。
*
その頃、冴子の側近くで身の周りの世話をしてくれている女性は、キヨの他にもう一人いた。その女性は佳代(かよ)と言い、冴子より少し歳上の姉のような存在で、10歳になる娘を連れて住み込みで働いていた。
佳代の母は、元々は田宮家で働いていた女中で、彼女も娘の佳代を連れ、住み込みで働いていたが既に亡くなっている。
佳代は一度結婚して田宮家を離れたが、夫を戦争で失い、産まれたばかりの娘を連れて戻って来ていた。が、田宮家も戦争でなくなってしまったため、冴子が松宮家に呼び寄せた、と言うのが経緯である。
佳代の娘は沙代(さよ)と言い、冴子は『沙代ちゃん』と呼んで妹のように可愛がっていた。年齢的に言えば親子と言っても良い。二人が楽しげに話している姿を見るにつけ、昇蔵の顔は浮かないものへと変わった。
「……あの子が本当に私たちの娘だったらなぁ……」
ある日、冴子が淹れた紅茶を飲みながら、昇蔵がふと洩らした。
「沙代ちゃんの事ですか?」
カップから顔を上げ、冴子が問う。
「……ああ……」
昇蔵の感じている重圧を、冴子は痛い程にわかっていた。それは昇蔵の責任ではないのだが、自分の分と二人分の重石を背負ってしまってもいる。
「……わたくしが言うのもおかしなものですが、松宮の家の事は仕方のない事……なるようにしかなりません。でも、もしそれとは別に、あなたが子どもを望むのであれば……」
そこまで言った瞬間、昇蔵は派手に音をたててカップを置いた。冴子の口がとまる。カップを置いたその姿勢のまま、昇蔵はまるで彫像にでもなったように固まっていた。呼応したように、冴子の全てもとまる。
「……すまない……」
気まずい間の後、小さく呟いた昇蔵が立ち上がった。引かれるように冴子も立ち上がる。
「……あなた……わたくしは……」
「……言うな……!私はその意見は受け入れない、と言ったはずだ……!」
会話を全て断ち切り、昇蔵は冴子を残して部屋から出て行った。後ろ姿を見送り、崩れるように座り込む。
「……お父様……あなたは昇蔵さんに、何と言う残酷な呪縛を……」
ここで言う『お父様』とは、もちろん冴子にとって実父である松宮瑛一郎を指している。父が自分たちのすり替えなど思いつかなければ、昇蔵がこれほどまでに苦しむ事はなかったはずだ、と。
「……お父様だとて……本来なら松宮家の行く末など成り行きに任せるしかない、とお思いでしたでしょうに……」
父が、自分のためにそうしたのだとわかっていても、いや、わかっているからこそやり切れない。
昇蔵にしても、自分を心から大切に思ってくれているからこそ、あれほどに板挟みになっているのだ。それを知っているからこそ、の憂い。
飲みかけのカップに残る、冷めた紅茶の表面を見つめてぼんやりとしていた冴子は、食器を片づけようと、ゆっくりと立ち上がった。
「………………!」
だが、突然、初めての感覚に襲われる。目眩に平衡感覚を失った冴子は、その場に崩れ落ちた。
書斎にひとり籠もっていた昇蔵の意識は、収拾がつかない思考世界に浮遊していた。だが突然、キヨと佳代が叫ぶ声に呼び戻される。
「何事だ?」
扉から顔を覗かせた昇蔵に、慌てふためいた佳代が駆け寄って来た。
「だ、旦那様!旦那様!……奥様が……!……冴子さまが……!」
聞いたが早いか、昇蔵は駆け出していた。
「奥様!冴子さま!」
さっきまで二人でいた私室に飛び込むと、キヨが冴子に呼びかけている。
「冴子!冴子!…………キヨさん!先生を……!」
抱え起こした昇蔵が叫び、キヨがあたふたと立ち上がろうとした時。
「……冴子……!」
冴子の手が微かに動いたかと思うと、昇蔵の手を押さえた。
「……大丈夫です……急に立ち上がったので、目眩がしただけで……少し休めば治りますわ……」
「……しかし……!」
「……大丈夫です……」
キヨと佳代は、どうしたものかと二人を見つめてソワソワしている。
「……大丈夫です……本当に……」
「……わかった。……少し様子を見て、おかしいようなら先生に来てもらおう……」
そう言って、昇蔵は冴子を抱き上げた。キヨと佳代が慌ててベッドを設える。
「……申し訳ありません……ご心配を……」
「……いいから眠りなさい」
横になった冴子の手を取り、付き添う昇蔵の後ろで、キヨと佳代は目配せをして静かに退室した。
冴子の懐妊がわかったのは、それからすぐの事である。
昇蔵と冴子は、共に31歳であった。
*
数ヶ月後、冴子は無事に男児を出産した。
かつてない程に喜んだ昇蔵は、父・瑛一郎の名から字をもらい、『陽一郎(よういちろう)』と名付けた。
「これからの時代は、特に広い視野を持ち、どんな事にも対応出来る能力が必要だ」
そう考えた昇蔵は、幅広い知識や見聞の場を与えようと、ありとあらゆる教育と経験の機会を設けた。そんな昇蔵の期待に応えるように、陽一郎は砂が水を吸収するように成長して行く。
皮肉な事に、後にその事が昇蔵と陽一郎の間に亀裂を生む事になるのである。
~つづく~