DOLL〜底辺1〜
はじまりは──?
不幸は煤のようにこびりつくのに
幸は吹けば霞んで行く砂のようで
*
ここに来た時、私は20歳。
家族がいなくなった私を拾い、数年間養ってくれた金持ちの夫妻が亡くなったのを機に全てを清算し、ひとりで旅に出たのだ。養父母が残してくれた金も底をつくと言う頃、働き口を探していたところに、このサロンのオーナー代理だと言う男に声をかけられた。どうやら、この顔がお気に召したらしく、『美しい少女の世話係にならないか』と。
正直、どんなに美しかろうと、自分のものにも出来ない女にどれほどの興味を持てると言うのか。しかも、世話の内容を聞けば、ほとんどお預けの状態だ。それくらいなら、まだ普通に場末の酒場ででも働いた方がマシだろう。
乗り気でない私に、男は窺うようにこう言った。
『ならば、とりあえず少女たちに会ってみないかね?』と。
自信ありげな物言いに、少しの興味も引かれなかったと言えば嘘になる。怪しい気配、不信感を拭えないまま、私は男の言う通り少女たちに会ってみることにした。
連れて行かれたのは、広大な敷地に経つ豪奢な館。金持ちの道楽であることは容易に想像出来ていたが、まさかこれほどの規模を誇るとまでは考えていなかった。
私は男に誘(いざな)われるまま、薄暗く細長い部屋へと足を踏み入れた。男が壁の一部を動かすと、そこには小さな覗き窓。どうやら、隣の部屋を覗くためだけの隠し部屋らしい。
恐る恐る、その小窓を覗き込む。
「……………………!」
すると、そこは光が散りばめられたような空間。華やかな室内には、部屋の装飾など霞むほどに美しい人形たちが飾られている。一体一体、姿形は違えど、それぞれに形容しがたい美しさだった。
「……あれが少女たちですよ。きみは、あの中のひとりを担当することになるでしょう」
「……あれが人間……!?」
断るはずがない、と言うような、男の鼻に付く言葉も気にならないほどの驚き。その反応に満足したのか、男は薄ら寒いほどの笑みを浮かべた。
「……余程相性が悪ければ仕方ありませんが、きみが気に入った子の担当にしてあげますよ……如何かな?」
いやらしい物言いに鳥肌が立つ。
けれど、私はもう一度室内を見回した。ひとりひとり、確認するように。
ブロンド、ブルネット、ブラウン、プラチナ。ブルー、グリーン、ブラック、ブラウン、レッド……ありとあらゆる色彩。自身が宝石であるかのような少女たち。その中からひとりを選べ、と言うのは至難の業だ。
だが、その時、一番隅っこに座っているひとりの少女に目が止まった。
(……………………!)
陶磁器のように白い肌、ハニーブロンドの巻き毛、淡い空を映したブルーの瞳。他の子たちも同じように座っているのに、何故かその子だけがポツンと寂しげに見える。それでいて、内側から光を放っているかのような。
「どうやらあの子が……レベッカがお気に召したようですね。あの子は売れっ子になりますよ」
「……レベッカ……」
目ざとい男は私の様子を見逃さず、畳み掛けるように囁いた。心の内を読まれているようで癇に障ったが、もはや自分の心が決まっていることに気づいてもいた。
「……お返事は?」
もう一度、『レベッカ』を見つめる。淡い光に包まれた姿を。
「……やります」
男の方は見ずに答えた。
*
働くことを決めると、同僚となる他の男たちと共にすぐに研修に入った。
ドレスの着付け、ヘアケア、メイク。この辺は養父母の家で培った多少の知識があり、特に問題なくこなせた。講師も感心してくれる程度には。一番、重要な仕事は、彼女たちの全面的なケア──フィジカル面とメンタル面の総合的なメンテナンスと説明される。
これは若い男にとって、もはや拷問にも近い内容だった。
端的には『愛でる』と言う表現が一番しっくり来るかも知れない。『少女たちの危ういまでの美しさを、花のように匂い立たせなければならない』のだ。ここで難しいのが、決して『女の色香にしてはならない』と言うこと。つまり、彼女たちの肌を見て、実際に際どいところまで触れながら、ギリギリのところで踏み止まらなければならない、と言うことだ。
今までにも、数多の男が耐え切れずに破滅して行ったと言う。少女を連れて逃げようとした者、最後の一線を越えて処分された者……単純に喜べるような仕事でないことは明白だった。
売春とは違い、少女たちが客に売るのはあくまで夢の時間のみ。その美しく儚い外見だけで、価値あるものにならなければ意味がないのだ、と。
「では、少女たちが成長した時は?」
誰もが抱く当たり前の疑問なのだろうが、訊ねたのは私だけだった。だが、用済みとばかり、場末の売春宿にでも売られるのではないか、と誰しも思わない訳がない。
「成長したら? 成長したら成長したで、需要があるのですよ。もちろん、待遇的には少女たちと変わらない。……ああ、いずれ客の重要がなくなった時の心配も不要です。それまでに彼女たちは、自分たちの生涯を賄えるほどの利益を出しているのですから」
一体、どれほどの道楽なのか。その言葉を完全に信用した訳ではなかったが、とにかく研修を終えた我々は、それぞれの少女たちの担当を割り当てられた。
初めて面と向かったレベッカは、近くで見てもソバカスひとつ、ホクロひとつない滑らかな肌にハニーブロンドが烟り、アーモンドの花びらのような淡い唇、透き通るブルーの瞳の美少女だった。
挨拶をすると、じっとぼくを見上げて来る。手に触れても嫌がる様子がないことで、どうやら合格となったらしい。
それからの日々は、最新の注意を払いながら極上の花を育て、しかし果実は食べられない……そんな生活。それでも、レベッカを美しく咲かせることは喜びでもあった。時には困った客もいたが、概ね平和に年月は過ぎて行った。
そんなある日、サロン内の一部のメンバーの間で妙な噂が立った。オーナーがこのサロンを閉じ、新たに真っ当な商売を立ち上げると言うのだ。
このサロンは、完全に非合法とは言えないが、合法とも言えない。貴族や金持ちなど、身分のある客で占められていることから、半ば緩く許されている部分も多く、言わば『境界線ギリギリ』のところで運営されていることは確かだ。逆に言えば、現状維持をしていれば、敢えてコトを大袈裟にする理由もない。
けれど──私は考えた。
もし、合法的にしろ非合法的にしろ解体が行なわれるのであれば、少女たちは然るべき機関によって安全に保護されるだろう。それならば、いっそその方がいい。だが、己の意思で働いているスタッフはそうは行かないはず。となれば、身の処し方を考えておくべき時が近づいているのかも知れなかった。
『レベッカと離れる』
いつかその日が来ることはわかっていた。このままでいられるはずもない。ならば、早いうちにこの館を去ること──それも選択肢のひとつとして、視野に入れておくべきなのだろう。
そう思っていながら決意を固められずにいた矢先、客のひとりがレベッカを連れて逃げる事件が起きた。
レベッカの元に足繁く通っていた若い男は、見るからに生真面目そうで、サロンの客にしては珍しいタイプだった。何故、このサロンに来たのか、それ自体が不思議に思えるほどに。そのため、悪い印象は全くないが、生真面目さ故の、ある種の危うさを持っているようにも感じられた。
大方、レベッカの境遇に情けをかけたのだろう──その予想は外れていなかった。その心意気に免じて、私もせめてもの情けをかけた──つもりだった。しかし、男は受け入れなかった。ならば、そのまま見過ごす訳には行かない。私はそう言う立場にいるのだから。まして、この男がどんなに誠心誠意、レベッカに心を尽くしても、彼女の今後は保証されない。端から見れば、レベッカは得体の知れない少女なのだ。それを由緒ある家に招き入れるなど不可能に近い。周りからどんな扱いを受けるか、手に取るようにわかった。
あの館で生涯過ごすか、強制的に然るべき者に保護されるか──どちらにしても、その方がリスクは低い。
私はルールに則り、彼を殺した。
レベッカを取り返し、再び元の生活へと戻した。同時に、いつ何が起きても逃げられるよう準備はしていた。あまりにもサロンの行き先が見えず、いつ別れても悔いのないよう、今まで以上にレベッカに全てを注ぎ込みながら。
そして──決断の日はやって来た。
ここに来るキッカケとなったオーナー代理の男。あの男がオーナーを裏切り、このサロンを非合法だと申し出たと言うのだ。確かに売春ではなくとも、未成年の少女に客の相手をさせている、と言われれば否定は出来ない。言い方によっては良い方へも悪い方へも、いくらでも持って行ける。
客の手前、遠慮していたものの、内部告発が大々的に報じられては調査しない訳には行かない。そうなれば、大掛かりな摘発が入ることになるだろう。しかも、間の悪いことに、レベッカを連れ出した客──アンドリューがここに出入りしていて、しかも行方不明と言う事実も付随している。
そして何より、私には他人には言えない過去があった。
私は、ここを去る決意を固めた。レベッカの未来……その足手まといにならないために。
*
夜も更けた頃。客を送り出した後、レベッカがケーキを食べ終わるのを見計らい、私は話を切り出した。
「……レベッカ……今日はきみに話があるんだ」
いつもと変わらない目で私を見上げるブルーの瞳。目の前に跪き、見つめ返す。
「……レベッカ……今日でおわかれだ。……ぼくはここを辞めて遠くに行く。今までありがとう。きみに逢えて良かった」
一瞬、言葉の意味を考えるように首を微かに傾げた。
「……きみなら新しい担当もきっと良くしてくれる。……元気で……」
ブルーの瞳が拡大する。だが、その瞬間、目を見張ったのは私の方だった。
「……レベッカ……!」
感情も、声も、何もかもを表さないように教育されているはずのレベッカの瞳から、まるでダイヤのような粒が零れ落ちて行く。何年も傍にいながら初めて見る涙、初めて目の当たりにした哀の感情。
(……別れを惜しんでくれるのか……こんな私との……)
それだけで十分過ぎた。そっと頬に手を添え、額に口づける。
「……幸せに……」
頬に添えた私の手を、弱々しい力が握り締めた。驚いて顔を見下ろすと、涙を零したまま微かに首を左右に振る。
「……レベッカ……?」
花びらのような唇が、雨粒に打たれて震えるように動いた。
── イ カ ナ イ デ ──
そう言っているかのように。
こんなにも……他人などいくらでも切り捨てられるはずの自分が、切り捨てて来たはずの自分が、こんなにもか弱いものに縛り付けられる。けれど、もう共にいることは叶わない。
「……ありがとう、レベッカ。その気持ちだけで十分だ……」
そっと手をほどき、立ち上がろうとした時、両手の細い指が私のシャツの胸元を掴んだ。しきりに首を振り、縋りつく瞳。心が揺れない訳がなかった。
それでも、ここに留まることは出来ない。まして、連れて行くことなど出来ようはずもない。レベッカを連れていては、逃げるどころか普通の旅すら困難だろう。
もし、彼女を連れて行けるとしたら、行き先はたったひとつしかなかった。
「……レベッカ……私は罪人(つみびと)なんだ……もう、きみと共にいることは出来ない……」
それでも離そうとしない手。振り解くことなど容易いはずなのに振り解けない指。連れて行きたい愛おしさと、手放さなければならない愛おしさの天秤が、心の中で激しく揺れる。
「……ならば……本当にぼくと一緒に来てくれるかい……?」
悪魔の選択が天秤を揺らし、言葉にしてはならないひと言を洩らしてしまった。撤回しようと、咄嗟に手を振り解こうとした時、胸の上にふわりと感じた重み。もたれかかったレベッカの、それは返事──。
わかってしまった。
私の言ったことの意味を、全て理解した上でのレベッカの返事なのだ、と。私が罪人だと知って、尚──。