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かりやど〔伍拾四〕
『 も う も ど れ な い 』
*
張り裂けた方がマシだろうか
引き裂かれた方がマシだろうか
*
朗と夏川が、ふたりで向かい合うのは久しぶりの事であった。
「……実際のところ、昇吾さまは美鳥さまを愛していらしたのでしょうか……?……もちろん、ひとりの女性として、と言う意味ですが……。……そして、美鳥さまは昇吾さまを……あのお二人を端から見ていると、その判断は非常に難しいものに感じました」
美鳥と昇吾──ふたりの関係。夏川が疑問に思うのは、朗にも当然の事と理解出来た。
「……昇吾は……美鳥を何よりも誰よりも愛していた、と思いますよ。……そして、美鳥も然り……ただし、それはいわゆる、男と女の愛、ではない……でしょうね……」
朗が穏やかに目線を下げる。
美鳥と昇吾を、幼い頃から見て来た夏川ではあったが、それでもふたりの関係性については確証は持てていなかった。
逆に言えば、ふたりが愛し合っていたとしても何の不思議もない。むしろ、あれほどに近しく育てば、惹かれ合うか完全に兄妹化するか、両極な結果に絞られる気さえする。
「……それでも、もし朗さまの立場の男性であったり、もしくは昇吾さまに想いを寄せる女性であったら、あのふたりの様子を見ていたら、普通はヤキモキしそうな気がするのですが……」
そんな夏川に、朗も慎重に言葉を選んだ。
「……確かにぼくも、全く妬いていないか、と訊かれれば、それは100パーセントない、とは言い切れないかも知れません。それくらいに、昇吾と美鳥の間にある空気は甘くて、そして濃い……何より、近い。けれど、ぼくは美鳥と一緒じゃない時の昇吾の事も知っていますから」
「……どう言う事です?」
「……昇吾は良く家にも遊びに来てたんですけど……その時も、美鳥から良く連絡が入ってたみたいで……少し離れたところで電話を受けてる昇吾を見たら、何て言うのか……彼女とかと話してる顔じゃないんですよ。ひたすら甘いって言うか、本当にトロけそうな顔で……見てるこっちが恥ずかしくなるような……何か嫌な言い方ですが、性的な願望を全く含んでいなくて、ただもう可愛くて堪らない、みたいな……」
それを聞いて、夏川にも昇吾の様子が容易に想像出来た。
「……わかるような気がします」
普段、美鳥といる時の昇吾は少し違うが、美鳥の事を話す時の昇吾は、まさにそんな感じであったからだ。
「その顔を見た時に、恋の愛おしさと……うまく言えないんですけど、命の存在の愛おしさ、の違いと言うのか……その違いを、ぼくは初めて知った気がするんです」
数秒、夏川の瞬きが止まる。
「……それで、面白いんですよ。列(れつ)が美鳥の写真を見せてくれって、どんなに昇吾に頼んでも、絶対に見せないんです。それだと、そんなに他の男に盗られたくないのか、とか、どれだけ独占欲強いんだ、とか思うじゃないですか。でも、そう言う訳でもない」
「何故、わかるんです?」
夏川は不思議に思った。何の気なしに訊ねると、朗は少し困ったような、照れたような顔をする。
「……ぼくも、かなり後になってから知ったんですけど……高1の夏、昇吾がぼくを松宮家に誘ったのは……その……どうやらぼくと美鳥を逢わせるのが一番の目的だったらしいんです……」
「………………!」
さすがに夏川も驚いた。
「……知った時は頭の中が真っ白でしたよ。美鳥がぼくを気に入るとか、それ以前の問題でしたから。……だって、ぼくから見たら、美鳥は大財閥の令嬢で、しかも一人娘……跡取りですよ?それをそんな目論見で、しかも昇吾の独断で……何考えてるんだ、って思いました」
朗は、心底、困った様子で答える。
夏川も思わず苦笑した。てっきり、仲の良い従兄弟同士、男同士、共に過ごした方が楽しいからであろう、と考えていたのだ。もちろん、朗が言うには、それも目的のひとつではあったらしいが。
「まあ、その時、美鳥はまだ中1で、そんな風に気持ちが動くかどうかはわからないし、ぼくの方もわからないだろうから、とりあえずのキッカケとして、気楽に付き合ってくれ、なんて言われて……まして、ぼくは昇吾と見かけがそっくりですからね。兄以上の気持ちにならないかも知れない、とも言ってましたし……」
乱暴な話にも聞こえるが、考えようによっては昇吾は相当な策士だ、と夏川は笑いを堪えた。
「……朗さまは、まんまと昇吾さまの策に嵌まった、と言う訳ですね?」
夏川の言葉に『まいりました』と言う風に頷く。
「……朗さま……昇吾さまと朗さまの、美鳥さまに対する気持ちで一番違うところ、ってどこでしょうね?……おふたりとも、美鳥さまを愛している事に変わりはない……だけど、違う……その明確な違いとは……」
「……昇吾とぼくの違いですか?……簡単です」
朗は少し下を向き、口元を緩めた。
「昇吾と美鳥は、まだ男であるとか女であるとか、そう言う性の概念が関係ない時に……ただ、そこにある『命』の存在として出会った。ぼくと美鳥は、男と女、として出逢った。それだけの違いです。だけど、その違いは果てしなく大きくて、その違いを埋める事は決して出来ない……永遠に、ね」
そう言ってから、朗は思い出したように付け足す。
「もちろん、埋める必要もありませんけど」
夏川は黙って聞き入っていた。
「もっと細かく言うなら……そうですね……」
朗は少し考える様子を見せた。
「……昇吾は、あの美しい鳥が本当に本心から望む事であるなら、どんな事でも受け入れられる男です。もしも、大空を羽ばたいて、どこまでも飛んで行きたいと望むならそれを見守り、無事を祈る。もしも、羽を休める暖かい場所が欲しいと望むなら、自分の全てを犠牲にしてでも、その場所を与えて包んでやる。そして、美鳥がもし、本当の意味で昇吾を望むなら……自分の気持ちなど全て押し込めて、生涯、美鳥だけを守るでしょう……」
「……例え本心では、美鳥さまを女性としては愛していなくても……?」
夏川の問いに頷く。
「……ぼくにはそんな真似は出来ない……」
言いながら首を振って、目を瞑り──。
「……ぼくはあの美しい鳥を、自分だけのものにしておきたいんです。この腕の中で守りたい。この腕の中にずっと閉じ込めておきたい。傍にいて欲しい。そして、自由でいても構わない……ぼくが触れられるところにいてさえくれるなら。……飛び立つ鳥を黙って見送り、ただ待つ、なんて、ぼくには到底出来ません。もちろん、美鳥がどちらを幸せと感じるのか、どちらを選ぶのかは別です。だけどぼくは、一部しか手に入れられないのなら、いっそ全てから手を引くことを選ぶでしょう」
そこまで言い、朗は瞑目を解いて夏川を見つめた。
「……昇吾は美鳥が自分の手から飛び立っても構わないんです……美鳥が幸せでさえあるなら……でも、ぼくは違います。ぼくは、最後にこの手の中に残るものは、あの鳥だけでいいんです」
そのひと言に、『全てを知っている』朗の想いが全てこもっていた。
そうであればこそ、夏川の心は揺れていた。
(……朗さまに……全てを……『今の』全てを話すべきなのか……)
美鳥が自分から話していない事実を。美鳥の身体の、今現在の状態を。
夏川は、さんざん迷った挙げ句、春さんには美鳥の現状を打ち明けた。昇吾のように、突然失うよりは良いのではないか、と判断しての、苦渋の決断であった。
結果として、春さんのショックは当然大きかったものの、美鳥も最善の努力をすると誓った、と言う言葉に一縷の希望を見出だした。何とか、いつも通りの日常を送れているのは、その希望があるから、なのである。
だが、朗には──?
そして、美鳥がそれを良しとする、とは到底考えられなかった。
「……先生……?」
考え込んでいる夏川を、朗は不思議そうに見つめる。
「……いえ……思いもしなかった話をお聞きして……驚きました。まさか、昇吾さまにそんな目論見があったなどと……」
結論は出ず、夏川は自分の考えの方を逸らした。医師として、患者の家族への告知や説明は、それなりに経験して来たつもりではあったが、それでも辛い事に変わりはない。
「……人の命、運命とは本当にわからないものです……。思いもかけずに生き延びる事もあれば、逆に命を落とす事もある……。特に大きな予兆もなかった人、充分過ぎるほど注意していた人が、不意にいなくなってしまう事が……」
「……先生……?」
呼びかけられ、夏川は我に返った。
「……それは……確かに、昇吾のように……」
核心に迫られそうになり、夏川は出してしまいそうになった言葉を飲み込んだ。
「……少し涼しくなって来ましたね」
「……はい……冷えると良くないので、美鳥を連れ戻して来ます」
「……お願いします……」
立ち上がった朗を見送ると、夏川はため息をついて両目を手で覆った。
*
昇吾の墓のある場所。
遠目に見た朗は、美鳥の姿が見えない事に驚いた。
「……美鳥……!?」
急いで近づく。
「………………!」
すると、墓石の上に両手を重ね、額を伏せている美鳥の背中が目に入った。
「……美鳥……!」
呼びかけると、その声に反応したらしい身体がピクリと動く。ゆっくりと持ち上がった頭が振り向き、駆け寄る朗の方を向いた。
「……朗……?」
脱いだ上着で美鳥を包む。
「……ダメじゃないか……!……こんなところで……こんなに冷えて……!」
そのまま冷えた身体を抱え上げた。
「……戻ろう……もう、いいね?」
小さく頷き、美鳥が朗に凭れる。
「……ごめんなさい……昇吾と話してたら……」
消え入りそうに囁く声。
「……うん……わかってる……。……でも、あんまり心配させないでくれ……」
「……ごめんなさい……」
元々、細い美鳥ではあったが、こんなにも頼りなげに感じたのは、初めてのような気がした。目が見えなかったあの頃でさえ、これ程ではなかったのではないか。
言い知れぬ不安。
その不安の正体はわからないのに。
腕の中のぬくもりと重みだけが、唯一、今、確かなものであり、だが、その確かなものさえ、朗には消え入りそうに感じられていた。
美鳥を抱えた朗が戻ると、ニュースを見ていた夏川から黒沼の情報がもたらされた。
「……原因不明の不調で、黒沼が救急搬送されたらしいですよ。確かではありませんが、精神科系の病院らしいです。恐らく、復帰はないでしょう」
朗の腕の中で美鳥が反応した。
「……朗……大丈夫だから……降ろして……」
そのニュースを最後まで見ると、美鳥は先程までの弱々しさなど嘘のように、妖しい微笑みを浮かべた。
それから、食事の支度をしている春さんに、
「ごめんね、春さん。ゴハン、明日ちゃんと食べるから……」
そう言い残し、部屋へ戻って行った。
*
その夜、朗はなかなか寝つけないでいた。
(……恐らく、黒沼はもう終わりだろう。……と言う事は、美鳥の復讐はこれで終わったんだ……。……これからは、身体の事を第一に、身体的にも、精神的にも、穏やかに暮らしてくれる……今度こそ、昇吾が、先生が、春さんが……そしてぼくが望んでいたように……)
そうであるはずなのに、何か胸の支えがなくならない。美鳥には、もう復讐すべき相手はいないのに。
(……だが、昇吾もいない……)
ふと、不安が過る。
ベッドから起き上がると、美鳥の部屋の前に立った。そっと扉を開け、室内を窺う。
暗闇の中、目を凝らすと、ちゃんとベッドに入っているようで、特にうなされている様子もない。ホッと息を吐き、扉を閉めようとした時、何かはわからない勘、のようなものが動きを押し留めた。
「………………」
静かに中に入り、美鳥の枕元に立つ。次第に暗闇に慣れた目が、布団に潜り込んでいる膨らみを認めた。だが、何故か急激に湧き起こる違和感。
「……美鳥……?」
起こしてしまう事を覚悟で呼びかける。が、反応はない。
「……美鳥……?……眠っているのか……?」
もう一度、呼びかけ、そっと布団をめくって中を覗く。
「……美鳥……!?」
布団の中で、自分で自分を抱きしめて小さく丸まり、固く閉じた身体。
「美鳥!具合が悪いのか!?」
朗の声に反応した身体が、正確には肩が大きく上下する。
「………………!」
その動きを見た瞬間、朗は反射的に美鳥を抱え起こして抱きしめた。途端に、シャツの胸元が熱く濡れて行くのを感じる。そして微かに洩れる声。
「…………ふ…………」
美鳥が固まっていたのは、懸命に嗚咽を堪えていたから、である事を、朗は瞬時に理解した。
「……美鳥……堪えなくていい……」
「…………っ…………」
やさしく背中をなでてやると、それでも緩めようとしない。
「……美鳥……もう、我慢しなくていいんだ……我慢する必要はない……全て、終わったんだ……」
その言葉が合図であったかのように、小さな身体が激しく震え出した。
「……うご……昇吾……昇吾……」
堰を切ったように、昇吾の名前を呼ぶ。
「……昇吾……昇吾……昇吾……昇吾……昇吾ぉ……」
その言葉しか知らないかのように。
思えば美鳥は、昇吾の死から一度も泣いていなかった事を、朗はまざまざと思い出させられていた。ずっと、この時まで堪えていたのだ、と思い知らされる。
(……もっと気をつけておくべきだった……)
朗は悔やんだ。悔やんでも始まらないが、悔やむしか出来なかった。
そうしている間にも、限界まで抑え込まれていた、美鳥の中の昇吾、が一気に溢れ出す。その様に、朗は圧倒された。
それでも朗は、ただ待った。美鳥の小さな身体を抱きしめながら。
泣き疲れるまで。
眠りと言う休息が、美鳥から迸る意識を連れ去るまで。