月待ちの宵〜草(くさ)の章〜
~月待ちの宵草~
「……ここは……?」
女は気づくと、宵の草原(くさはら)に立っていた。
見上げるまでもなく、目の前には見事な月。こんなに大きく、美しい月は見たことがない、と思うほどに。むしろ紛い物ではないか、と疑うほどに。
「……何で私、こんなところへ……」
自宅の部屋で、ついさっきまで亡くなった夫を偲んでいたはずなのに、と思いながら首を傾げる。
「……これは夢なの……?」
つぶやいた瞬間──。
「何故、ここに来たのです?」
何もない、誰もいないと思っていたところから、突然に浴びせられた言葉に硬直する。
「ここは貴女が来るところではありませんよ」
振り向くと、いつの間にか人影が佇んでいる。本能的な慄きは一瞬で、仄暗い中、目をこらした女が目を見開いた。
「……あなた……!」
信じられないものを見た、と言う表情を浮かべた女の口から、まるで呼吸のように洩れる。それもそのはずで、ついさっきまで偲んでいた相手──夫に瓜ふたつの男が自分を見下ろしていたのだ。
「……あなた……?」
そうつぶやいた夫──いや、夫と同じ顔の男は、納得したように頷いた。
「……あなたには……私がご主人の姿にみえるのですね……納得が行きました」
「あなた……!何を訳のわからないこと言ってるの……!?……生きていてくれたなら、何で……!」
憂いを含んだ湿度の高い眼差しで女を見、男は睫毛を翳らせる。申し訳なさそうでいて、哀れを映しながら。
「……私は貴女のご主人ではありませんよ。私の姿は、貴女が望む相手として映るのです」
女の目が訝しんだ。
「……どう言うこと……?」
「……言葉の通りです。私は相手が……貴女が真に会いたいと思っている人の姿として、貴女の目に映るのです」
男の顔を見つめたまま、女の目は全く動かない。理解を超えたことを言われ、懸命に脳内で反芻していた。
「……何にせよ、ここに長く留まってはいけない……貴女には、まだやらなければならないことがあるのでしょう?」
女が息を飲んだ。男に確信を突かれ、動揺を隠そうと無言を貫く。半分くらいは、言葉を出せなかったのもあるのだが。
(……この人……何でそんなことまで知ってるの……?)
恐る恐る、目を見上げる。すると、夫の顔に知らない男の顔が薄っすらと重なり、それが男の本当の顔なのだと理解した。
「……あなたは誰なの……?」
男は答えない。女には、男が言い淀んでいるように見える。
「……じゃあ、あなたはここで何をしているの……?」
質問を変えてみると、男は睫毛の影から視線を向けて来た。その目を見るに、さっきより輪郭がはっきりしている。男本体の姿が濃くなっているのだ。
「……私はここで月を待っているのです」
「……え……?」
おかしなことを言う男だ、と女は思った。月ならさっきからあんなに大きく出ているではないか、と。
「……待っているのは満月ではない、ってこと……?」
女の問いに寂しげに微笑むその顔から、既に重なる夫の顔は希薄になっている。それでも女は、微かに浮かぶ夫の面影に目を凝らした。
「……あれは……あそこに見える月は本当の月ではないのですよ。貴女が見ているのは、月が反射して映した姿……そして、私の顔がご主人に見えたのも、月が貴女の心を映し、投影させていたからなのです」
「……よくわからないわ……」
眉をひそめる女に、男はさっきより幾分はっきりと笑いかけた。
「……それでいいのですよ」
女にはますますわからない。
「……何故、あなたの姿の方が濃くなって来てるの?」
諦めて質問を変えてみる。
「……タイムリミットが近づいているからです。早く貴女の場所に戻りなさい」
「……待って!あなたは何故月を待っているの?」
女は何故か、それを知りたいと思った。本物ではなくても、本物より見事な月があるのに、それではダメな理由を。
「……月が……私が探している……私を待っている花の姿を……その居所を映してくれる瞬間を……その刹那を待っているのです」
不思議な答えには違いないが、女は既に現状を受け入れつつあった。
「……それは……あの月には映らないの?」
故に、当たり前のように訊ねる。
「……本当の月しか、花のいる場所を知らないのです。そして、月が現れても、私のタイミングが合わなければ……迎えに行くどころか、姿を見ることすら適わないのですよ」
女には全く理解出来なかった。だが、彼がその『花』に逢わなければならないこと、何より逢いたいのだ、と言うことだけはわかった。
「……あなたの名前は何て言うの?」
「……私には名はありません。……ただ、周りのものは『草(そう)』……と呼びます」
「……草……」
女が確認するように、己の口の中でつぶやく。やがて、思い定めた顔で男を見つめた。もう、夫の姿が完全に消えている男の顔を。
「……最後にお願いがあるの……」
「……何でしょう?」
「……もう一度だけ、あの人の姿を見せて……」
縋る声が微かに震える。ほんの僅かの間、女を見つめ返した男が睫毛を伏せ、左手を掲げた。
「……あっ……」
掲げた男の掌から、光のような、水のような、不思議な揺らめきが立ち昇り、水鏡のように歪んだ何かを映し始める。
じっと見つめていると、ゆらゆらと定まらないそれが、やがて完全に人の形を成した。
「……あなた……」
見慣れていたはずなのに、懐かしく感じる微笑み。優しく見つめる男の顔は、紛う方なき夫のものであった。
「……あなた……私、必ずやり遂げるわ……」
夫の顔をした男が、その言葉を真に理解したのかは女には全くわからない。それでも、女の目には確かに夫が頷いたように思えた。──が、その直後、一瞬のうちに夫の姿は掻き消えていた。
その姿が浮かんでいた場所に歩を進め、満足気に瞑目した女の口元がやわらかく緩む。
「……見えましたか?」
男──草が問うた。
「……ええ。ありがとう。草……あなたも早く逢いたい人に逢えますように……」
女の言葉に、男が微かに微笑んだ──ように感じた時、一瞬にして女の視界は一面の暗闇になった。
*
女が目を開けると、そこは自宅のリビングだった。仕事から帰り、夫の写真を眺めているうちに、いつの間にかうたた寝してしまったらしい。
「……いけない……ちゃんと顔を洗って寝なくちゃ……明日は大事な……」
言いかけて、ふと何かを思い出しかけた。
「…………?……何か夢を見ていた気がする……何の夢だったかしら……?」
思い出そうとするも、記憶の扉が開かない。まるで、そこにだけ鍵がかかっているように。
「……まあ、いいわ。……明日は大切な日だものね」
写真の中で笑う夫の顔をそっとなでる。
「……あなた……私、必ずやり遂げるわ……」
夫の写真に誓いながら、前にも一度、同じ言葉を言ったことがあるような気持ちに囚われた。手を額に当て、記憶の扉を抉じ開けようとする。
「……何だろう……この感じ……?」
しばし身動きひとつせずに考え込んでいると、雲が晴れたのか月灯が射し込み、女の顔を照らした。窓の方に意識が傾く。
「……そっか、カーテン閉めなくちゃ……」
ノロノロと立ち上がり、窓際のカーテンに手をかけた時──。
「……わあ……!」
すぐ眼前に、淡く、それでいて清冽に輝く月の姿。思わず窓を開けてみる。
「……すごい綺麗……!」
思えば、夫が亡くなってから月を眺める心の余裕さえなかった。それを、たった今、思い知り、月のように目を輝かせながら見つめる。
「……ウサギが餅つきしていてもおかしくないわね」
──そう、ひとり言をつぶやいた、その時。
「……え……何、今の……?」
女が見間違いかと目をこすった。浮かぶ月に、得も言われぬ美しい花の姿が映った──ように見えたのだ。しかも、さらにそこに花よりも美しい女性の横顔が重なり、溶け合うように消えて行くのが。
「………………」
一瞬の名残りを追うように、女の目が月を見つめる。焼き付けるように。忘れないように。──けれど。
「……あの人かしら……草は彼女に逢えたのかしら……」
無意識につぶやくも、
「……今、私、何を言ったの……?」
突然、我に返り、再び首を傾げる。
「……“そう”って誰だったかしら……?」
いくら考えても思い出すことは出来ず、諦めた女は窓を閉め、大切な明日のために眠りについた。
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