魔都に烟る~part15~
クラーク邸に着くと、何事もなかったかのように周囲は静まりかえっていた。
レイとローズ、そしてヒューズの三人は、警戒しながら屋敷内に入り息を飲む。あちらこちらに使用人たちが倒れているのだ。
ふと見ると、クラーク夫妻も壁に凭れ掛かるように座り込んでおり、レイが静かに近づき覗き込む。
「……息はある。気絶しているだけのようだ。……ヒューズ、後を頼む」
「はい、セーレン様」
夫妻のことをヒューズに託すと、レイはローズを促して奥へと足を進めた。皆、例外なく意識を失っているようで、屋敷内に動いている人の気配はない。
しかし。
奥へ奥へと進むにつれ、次第に禍々しい気配が満ちて行くのを感じる。肌に纏わりつくような、目の前が眩みそうな空気。自分の意思とは裏腹に、ローズの足が先に進むことを拒む。
「……大丈夫ですか?」
ローズの背中にレイの腕が回され、やはり感情の読めない声音で問う。
「……ええ」
この不快な空気の感覚は、ローズにとっては嫌と言うほどに覚えのあるものだった。それでも進まなければ、解決の糸口も見えない。必死に足を前に出そうとする。
━と、奥まった一室。
閉ざされた扉の隙間から洩れ出してくる、妖気にも似た気配。ローズの目には、その空気の流れさえもがドス黒く見える。
背中に回されたレイの手に力がこもるのを感じる。そのまま歩を進め、彼は空いている方の手で取っ手を掴んだ。
一瞬、レイが息を止めたのを感じる。しかし、次の瞬間には、躊躇わずに扉を開け放った。
(………………!)
勢いよく流れ出して来る、重く、澱んだ空気。押し流されそうになるローズを片腕で支え、レイが逆らうように真っ直ぐに立つ。
広い部屋の向こう側、正面に“そいつ”は立ち、こちらを見ていた。二人が来ることを予想していたかのように。
この事態になってから初めてであろう。まともに対峙する敵を、瞬きもせずに見つめる。発している、その禍々しい空気からは想像もつかない姿を。
濃いブロンド、整った目鼻立ち、レイと同じような黒い服、黒いマントを身に纏うその男の瞳は、妖しく魅惑的な青い光を放っていた。
その口元には、二人を嘲笑うかのような薄笑い。
ローズは身震いしそうになった。
その男━━因縁の相手の姿が、何故か、どこか、レイに似ているなどと感じる自分が可笑しくなる。
「初めまして、と言うべきなのか……いや、やはり久しぶり、と言う方が正確でしょうね、ゴドー伯爵」
「……え……」
男が放った意表を突く言葉に、ローズは驚きを隠せなかった。
(この二人は……会ったことがあるの?)
二人を交互に見遣るローズの様子を、男は面白いものでも見るかのように眺めている。
「私の刻印は打ち消されて無効化しているようですね。さすがゴドー伯爵……だが、と言うことは……」
その言葉に、ハッとしたように男の方に視線を戻したローズは、これ以上ないくらいに睨み付けた。
その視線を受け、男はローズに向けた目を細め、口元はさらに笑みを増す。
「少なくとも、ゴドー伯爵もあなたにとっては……」
「……やめて……」
ローズが掠れそうな声を絞り出した。その声が男の嗜虐性を煽ったのか、目がさらに狂暴な光を帯び、勿体ぶった口調で続ける。
「……私と同列の存在になった訳ですね……」
「……やめて……!」
ローズの揺れる瞳を満足気に見つめながら、勝ち誇ったように━。
「……姉上」
「やめて!」
悪意以外には感じられない男の目を見据え、渾身の力をこめてローズは叫んだ。
「……ガブリエル……あなたに“姉”などと呼ばれる筋合いはないわ!……汚らわしい……あなたを弟なんて思ったこと、私は一度もない!」
息も継がずに一気に言葉を放つ。呼吸が乱れて肩が波打った。
二人のやり取りを見ていても、全く動じる様子のないレイであったが、ローズの腰に回していた腕に僅かに力をこめる。
「……あなたが認めようと認めまいと、私たちの関係が姉弟であることは変えようがありませんよ。例え片親しか同じでなくとも……ね」
冷たい視線をローズに投げ、余裕の体で続ける男に、
「……ならば、何故!」
激しく反応したローズが、カッと表情を険しくして叫ぶ。
「……天使の名を持つくせに……どうして……」
震える手。無意識がレイの服の裾を掴ませた。
“ガブリエル”と呼ばれた男は、ローズの質問には答えず、ただ口元を歪める。
動かないまま対峙した三人。だが、目に見えない空気だけが、互いの激しい闘いの余波を伝えていた。
「あれだけの刻印を無効化したとなれば、いくらあなたでも相当に力を消耗したでしょう、伯爵?」
挑発するように問う男に、相変わらずレイは無言を貫いている。この揺らぎない静けさは一体どこから来るのか。ローズは不思議に思わずにいられなかった。
「何故、何も答えない?口が利けない訳でもなかったはずだが?」
レイの横顔を見上げても、その表情には何の変化もなかった。が、レイが口の中で微かに何かを呟き、時折、歯をカチカチ鳴らしていることにローズは気づく。
その様子に、良くレイが何かを呟いていることをも思い出し、ローズは本能的に押し黙った。
澱んだ空気の中、レイの周囲だけが、次第に霧が晴れるように清浄な色に変わって行く。
それをガブリエルが感じたのか、ローズには判断がつかなかった。が、先に動いたのはガブリエルの方であった。