社内事情〔26〕~唯一無二~
〔片桐目線〕
*
昨日、珍しく根本くんに誘われた。
「じゃあ、朽木も誘って飲みにでも行くか」
おれがそう提案してみると、根本くんが真剣な顔で、
「いえ、あの……」
言いにくそうに、しかし他者介入をハッキリと拒否する答え。
何か込み入った相談でもあるのかと思い、ゆっくり話せるようにと空いてる翌週末を提案した。今日の夜は、軽く専務と打ち合わせの予定が入っていたからだが。
*
何より、根本くんとの話の前に、おれには片づけておかなければならない問題があった。
赴任の内示の件を里伽子に話すこと。『内示』とは言っても、おれの赴任は決定事項と同義だ。
つまり、これからどうするか、も話し合わなければならないと言うこと。
今のR&Sの問題が片付いてからであるにしても、里伽子にだって抱えている仕事や都合がある。早めに話しておくにこしたことはない。
赴任のことを考えるたびに、里伽子の顔だけでなく藤堂と坂巻さんの顔がおれの脳裏に過る。
正直、今現在おれの私生活は、ほぼ里伽子に支えられている状態なのだ。もちろん、特に頼んだ訳でも何でもなく、しかしそれに甘んじている、と言う状況。
里伽子にも仕事があり、当然、プライベートもあるのに、その上おれの面倒まで見てくれている今の状態が長く続けば続くほど、里伽子の負担だけが増えて行く。
週末には、里伽子は料理をまとめて作り置きし、それをおれの分まで冷蔵庫に入れておいてくれるのだ。いつでも食べられるように、遅くなっても軽く食べられるように、と。
しかも、昼間、おれが半分仕事しているような状況の中、掃除や洗濯までしてくれる。自分の用事は平日の夜のうちに済ませてまで、だ。
それならば、いっそ一緒に住めば良いのではないか、と考えなかった訳ではない。
一緒に暮らせば、少なくとも移動の負担はなくなる。何より、今よりも長い時間、里伽子と過ごせるようにもなる。毎日、里伽子の顔を見て眠れる。それは確かにその通りだ。
だが、おれは迷っている。
結婚するならともかく、この状態でただ一緒に住んだりしたら、いくら移動の負担を減らすため、などと言い訳をしても、結局は里伽子に家事をやってもらうためだけにそうしたようになってしまいそうで。
そんな状況を何とかしなければ、と考えていたところへ、今回の内示だ。
これは、もう、ひとつのチャンスと考えて動くしかない。
夜、専務との打ち合わせを終え帰宅。里伽子が用意しておいてくれた食事を済ませて、話を切り出そうとすると━。
「課長。先に休んでてください。ちょっと済ませてしまいたいことがあるので」
……いつもの如く、あっさりと言われた。
里伽子は自分がやると決めたことを全て終わらせるまで、絶対におれの傍には来てくれないのだ(泣)。この徹底ぶりは、まあ、おれにも責任があることなのだが。
里伽子とつき合い始めた頃、おれは……要は張り切り過ぎたのだ。
週末など、洗い物をしてくれたり、テレビを観ている里伽子にちょっかい出したり、一度掴まえたら、朝どころか昼近く、里伽子が空腹で不機嫌になる直前まで離さない、と言うような。
お陰でこの体たらくだ……。
何しろ里伽子さまは手強い。こうなったら、もう、ただひたすら待つしかないのだ(泣)。
そうして、待ちながらイライラしているおれは、里伽子がようやく寝室に来てくれた時には、自分の責任は棚に上げ、大抵、不貞腐れている。
しかし━。
『今井里伽子』と言う女は、いい歳して不貞腐れるなど始末に負えないおれの扱い方も絶妙だった。いや、単におれが脆弱なだけなんだが。
不貞腐れたおれが、背中を向けて寝たふりをしている場合。微妙に背中に体温を感じるように、自分の背中を当てて来る。
不貞腐れたおれが、里伽子の方を向いて寝たふりをしている場合。スルリと、そしてやんわりとおれの腕と胸の空間内に納まるように入り込んで来る。
それがまた、如何にもベッタリとくっついて来る感じではないところが絶妙なのだ。
そして、「絶対に負けるか!(何にかは定かでない)」と気負っていたはずのおれは、フワリと立ち昇る里伽子の甘い香りに鼻腔をくすぐられ、あっさりと白旗。いそいそと自分から吸い寄せられて行く。
……アホなくらいわかりやすい力関係。もう、いいんだ……。
「まず、真っ先に話さなければ」などと意気込んでいたおれは、今夜も飽きずに同じ行程を経て、当然の如く……負けた……完膚なきまでに。
里伽子の寝顔を見下ろしながら、しっかりと抱え直す。━と。
「……何かあったんですか?」
いつの間にか、目を開いた里伽子がおれの顔を見上げていた。
「……すまん。起こしたか?」
おれの問いに、
「……寝てません」
……などと少し不満気。
「さっき、呼んでも全然反応しなかったぞ」
おれが笑いを堪えながら、からかうように言うと、
「……誰のせいですか?」
……思い切り上目遣いで返された。
「……おれか……」
思わず苦笑いが洩れる。
それにしても、つくづく里伽子には隠し事は出来ない、と思い知らされ観念する。
「……今回の件が片付いたら、なんだが……」
おれの言葉の続きを黙って待つ気配。
「赴任の内示が出た……」
一瞬、里伽子の身体に力が入った。
里伽子を抱くおれの腕にも、知らず知らず力がこもる。
「……ついて来て欲しい」
微かに息を飲む気配。
おれたちの状況に於いて、これは実質的なプロポーズと同じだ。赴任の帯同を求めると言うことは。
「……返事は今でなくていい。実質的にきみを休職させることになってしまうし、仕事の都合もあるだろう」
即答で断られる恐怖から逃れるように発したおれの言葉を、里伽子は黙って聞いている。
「すぐには無理で、後から追いかけてもらう状況になるかも知れない……そもそも、現状では不可能かも知れない。……だが……」
いちいち心の緩衝材になる言葉を挟む自分が情けなくもある。━が。
「きみなしの生活なんて、もうおれには考えられない」
「……………………」
「それでも、もし、きみが一緒に行けないと言っても、おれにはきみしかいない。きみ以外、考えられない。だから、もし無理であるのなら、その時は……」
おれの脳裏に藤堂の顔が過る。藤堂が坂巻さんに言えなかった言葉と共に。
「待っていて欲しい」
再び、里伽子の肩に力が入った。
「年に数回しか会えなくなるだろう。だが、おれには他の選択肢は考えられない」
おれの言葉が、少なからず里伽子を縛ることになろうとも、言わずにはいられなかった。おれには、藤堂たちのような選択は出来ない。
「……きみにも都合があることは承知の上だ。だが……考えてみて欲しい」
数秒の逡巡の後。
「……はい……わかりました……」
「……うん……」
里伽子の返事を聞き、おれはもう一度彼女の身体を抱え直して口づけた。
もう、すぐ目の前に迫っているものになど気づきもせずに。
~社内事情〔27〕へ~
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