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かりやど〔七〕

 
 
 
『 も う も ど れ な い 』
 
 

 
 
想いを遂げて後悔するのと
想いを遂げられずに後悔するのと
想い過ぎてひっそり佇むのと
 
選べるものなら
どうしたい?
 
 

 
 

 翠(すい)が堀内建設社長である堀内の紹介を受け、小半(おながら)や隅田(すみた)、副島(そえじま)を相手に談笑している間、朗(ろう)は後ろをついて回り、上辺だけの微笑を浮かべ、挨拶を交わすだけで精一杯であった。
 ともすれば、己を置いて抜けて行きそうになる意識を必死に押し留める。
「……定例会だけではなく、今度、改めてお食事でもしながらお話ししたいですね」
「ありがとうございます。ぜひ……」
 外まで見送りながらの小半と隅田の言葉。翠が笑顔で答えるのを、遠くの音のように聞きながら、朗は車を発進させた。
 窓の外を眺めていた翠が、不意に、無言で運転している朗に視線を向ける。
「……朗……何かあったの?」
 心臓を掴まれたかのような感覚。早鐘のように打つ鼓動。顔の側面に、翠の視線を痛いほど感じる。
「……すみません。帰宅したら……」
 やっとのことで答えた朗に、翠は頷くように睫毛を伏せ、流れて行く景色へと視線を戻した。
(もっと早くに話しておくべきだった……)
 心の中に、嵐のように後悔の念が渦巻く。夜の街に溶け込むように翳りを帯びた朗の目。
 隠そうとして隠せぬまま、朗が運転する車は夜の道を走り抜けて行った。
 

 
 帰宅したマンションのリビング。既に変装を取り去り、シャワーまですっかり浴びた状態でふたりは向かい合った。
 わざわざ、ふたり掛かりで出席したにも関わらず、結果的に何の役にも立たなかったこと──それも、朗にとっては不本意なことに違いない。だが、今はそれよりも堀内承子のことが、朗の心に重く圧し掛かっていた。ふたつが相乗効果となり、なかなか話を切り出すことが出来ずにいる。──と。
「……で?何をそんなに気にしてる?」
 座り込んで俯いたまま顔を翳らせる朗に、薄いシャツを纏っただけの翠がソファに沈み込みながら訊ねる。
「……隅田の婚約者、つまり堀内の娘のことです」
 言い淀んでいた朗が、漸く重い口を開いた。
「……?堀内承子(ほりうちしょうこ)、のこと?」
「……はい」
 翠が不思議そうな顔をする。
「……二年前のことを憶えていますか?……その……黒川玲子(くろかわれいこ)の件を……」
 少し考える様子を見せた後、翠は瞬きをとめて朗に視線を戻した。
「……それがどうかした……?」
「……あの頃……堀内承子も仕事仲間のひとりでした。彼女は玲子とも仲が良かったので、当時の仲間たちと三回忌の焼香に行こうと……」
「連絡があったの?」
「……ええ……」
「それで連絡先を変えたりした?」
「……そうです」
 組んだ手を握りしめ、目を瞑った朗が頷く。それでも、ただ朗を見据える翠の目に変化はなかった。
「それの何が問題なの?何を気にしてるの?」
「ぼくは彼女に顔も名も知られています。万が一、顔を合わせた時に、あのくらいの変装でやり過ごせるとは思えません」
 朗の言葉に目を丸くした翠は、次いでクスクスと笑い出す。
「何だぁ。そんなこと気にしてたんだぁ」
 無邪気に言う翠の顔には、不安の色は微塵もなかった。
「翠、笑い事じゃ……」
 朗の方が困惑を隠せずに窘めようとする。──と。
「ちょうど良かったじゃない」
「……え……?」
 予期せぬ返事。
「わざわざ連絡して来るってことは、少なからず朗に好意を持ってるんでしょ?好都合じゃない」
 情報処理が追いつかずに脳内が真っ白になった朗は、数秒経っても言葉が出て来ない。
「……そんなことある訳が……」
「堀内承子をオトせば、こっちにとっては面白い展開になる」
 朗の反論はあっさりと流された。
「……何を言って……大体、隅田と婚約している身なんですよ、彼女は……」
「だからいいんじゃない。これで私が隅田にちょっかいかける、と……」
 息を飲む朗に、翠はふわりと笑いかける。
「……うまく行けば、簡単に堀内建設を内部から分裂させられる。黒川莞二(くろかわかんじ)の時みたいに」
 事も無げに言い放つ翠の顔を、朗は魂を抜かれたように見つめた。
「何、深刻な顔して。二年前みたいなことをやれって言ってる訳じゃないのに……あんなこと朗には無理だって、もうわかってるよ。だから、オトすだけでいいって言ってるのに」
「……彼女がぼくに好意を持っているなんて……そんなことある訳がない……!」
 頭(かぶり)を振って否定する朗に、翠は笑いながら沈み込ませていた身体を起こした。微動だにしない朗の前に立ち、屈み込んで顔を覗く。
「……じゃあ、確かめてみよう」
 楽しげに提案した翠の目を、瞬きも忘れて朗が見つめた。
「もし、堀内承子が朗に興味なさそうなら、この話はなかったことにしていいよ」
「……確かめるって……どうやって……」
「そんなの簡単だよ。堀内承子の前に姿を見せればいい……朗と私がふたりで」
 翠の硝子玉のような瞳が、透けるように朗の中を通り越して行く。何を見ているのか、何が見えているのか、朗にはわからない世界。
「明日にでも、さっそく……ね」
 そう言うと、翠は朗の膝の上に滑り込み、両腕をするりと首に回して頭を持たせかけた。
「……黒川玲子みたいな女じゃないといいけどね」
 気だるげに翠が呟く。身動きひとつしない朗の耳を、やがて翠の寝息がくすぐり始めた。
「……そんなことが……」
 呟いた朗の肩から、眠ってしまった翠の片腕が滑り落ちる。
「……きみなら……どうする……?」
 翠を抱えたまま、朗は返らぬ返事を待ち続けていた。
 

 
 翌日、翠たちは堀内承子の先回りしていた。もちろん翠は夏川美薗としてではなく、敷島みどり、として。
「この道筋にいれば、必ず堀内承子と遭遇する」
 調査員からの報告では、ここが一番確率が高く、尚且つ、ふたりがいたとしてもおかしくない絶妙の場所、だと言う。
「朗……もう少し楽しそうな顔出来ない?」
「……無理です」
 溜め息をつきながら返された朗の言葉に、翠の目が妖しく光った。何かを企んでいる悪戯っ子のような顔。
「そんなこと言うと……」
「しっ!翠、来ましたよ」
 翠が何かをしでかす前に牽制した朗の視線の先に、まだかなり遠目ではあるが、こちらに向かってひとりで歩いて来る女の姿が見える。
「あれが堀内承子?」
「……そうです……翠……報告書の写真をちゃんと見てませんね……」
「先入観を持たない方がいいと思っただけだよ」
 言い訳に聞こえなくもない理由を最もらしく述べたが、そこには感情の『か』の字もこもっていない。
 翠は朗の身体の陰に入り、承子からは見えにくい位置に立った。それなりの往来の中ではあるが、恐らく彼女は朗を認めるだろう、と確信して。
「………………!」
 案の定、承子は朗の手前で歩みを止めた。その目は驚きに見開かれ、身体全体が硬直している。その段階で、朗が承子の存在に気づいた『フリ』をするのだ。
「……小松崎くん……」
 無理に笑おうとする顔。朗の胸が疼く。罪悪感に耐えながら会釈したものの、それ以上は言葉が出て来ない。
「……こんなところで奇遇ね。……買い物?」
「……ええ……」
 朗は俯き加減で答えるのが精一杯だった。──と、その時。
「……お友だち?」
 不敵さ、嫌み、邪気、空虚感、全てを排除した自然な声が響く。今の翠を知っている人間にとっては、不自然なまでの自然さ。
 そして恐らく、『女の声であったこと』に承子が反応を示した。
 陰から顔を見せた翠が、朗の顔を見上げ、次いで承子に会釈しながら笑いかける。無邪気に。
「……昔の……バイト先の同僚で堀内さん」
 囁くような朗の説明を受け、翠は笑顔をグレードアップさせた。
「そうなんだぁ。はじめまして。敷島みどりです」
 満面の笑みに圧倒されたのか、ぎこちない動きで承子が会釈する。
「……はじめまして……堀内承子です」
「堀内さん……よろしく。あ、せっかくですし、良かったら一緒にお昼どうですか?今から食べに行くとこなんですけど」
 唐突な提案に、朗が翠の顔を見遣った。承子も驚いた顔で立ち尽くす。
「……いえ……あの……これから用事があるので……」
 消え入りそうな声。
「そうですかぁ……残念。じゃあ、またの機会に」
「……はい……ありがとうございます。……お邪魔してごめんなさい」
 言葉少なに言うと、承子は逃げるように立ち去った。
「……朗に好意あり、確定、だね」
 小走りに去って行く後ろ姿を見ながら翠が洩らす。
「……何故、そう思うんです。たったあれだけのことで……」
「……自意識過剰じゃないのはいいけど、あんまり鈍いのも鼻に付くよ。それとも認めたくない?もしくは関わりたくないから逃げ腰?」
 ズバリと指摘され、朗は口ごもった。痛いところを突かれて俯く。
「さて、結論が出たとこでゴハン食べてこ。お腹空いた」
 それだけ言うと、翠はさっさとレストラン街の方へと歩いて行く。
 その後ろ姿を眺める朗の気持ちは、重く厚い雲に覆い尽くされたまま、晴れることはなかった。
 

 
 ──その夜。
「……さっそく、小半と隅田から食事のお誘いが来たよ」
 携帯電話を見ながら翠は楽しげだった。
「間を空けないところはさすがですね」
「朗も一緒に……って言ってるよ。初回のポイントも押さえてる」
 クスクス笑ったかと思うと、すぐに挑戦的な目に変わる。
「でも、ここは使えるチャンスだよね」
「……チャンス?……何のです?」
 訝しげな朗に笑いかけ、テーブルの上に紙切れを一枚置いた。朗が不思議に思いながら手に取ると、それは承子の近時のスケジュール表。外出の予定が全て書き込まれている。
「……これは……」
「私たちと今日会った場所に、堀内承子が次に行く予定は三日後。朗はそこで、また彼女と遭遇する、ってこと」
 驚いた朗が翠の顔を見つめる。
「それで彼女を食事に誘う、と。朗がひとりなら乗ってくるだろうから」
「……誘ってどうするんです。話すようなことは何もありませんし、第一、翠のことを訊かれたらどうす……」
「手のかかる遠縁とでも言っとけばいいよ。……それで、私は同じ日に隅田と食事に行って……」
 遮られた朗の言葉の続きは、呼吸と共に飲み込まれた。
「まずは女……つまり私が隅田と一緒のところを目撃させる……堀内承子に、ね」
 口元に満面の笑み。しかし、その目は空虚な硝子玉のように透明で何も映していない。
「黒川玲子みたいな女には通用しない手だろうけど、今日会った印象だと……堀内承子になら揺さぶりになるかな」
「……小半はどうするんですか……一緒なんでしょう?」
「うーん……まあ、彼には途中退場してもらおうか」
 楽しそうに笑いながら、事も無げに言い放つ。
「一体、どうやって……」
 朗の疑問に、翠は笑うだけだった。
「そんな顔しなくても、それ以上のことを朗に望んでないから大丈夫だよ」
 言いながら膝の上に滑り込む。いつものように。
「それとも、今度は彼女の気持ちを成就させてあげる?」
 するりと腕を絡み付け、間近で顔を覗き込みながら訊ねる。言葉に窮する朗。
「彼女の望み通りにしてあげれば?」
「……何を言って……」
「お堅いね、朗」
 翠は妖しく微笑みながら朗に口づけた。押し付けられるやわらかい唇、薄いシャツごしの身体。頭の中にまで熱がこもり、何も考えられなくなって行く。
 しなやかな指が襟元から侵入して来るのを感じた朗は、翠の首筋に唇を這わせながら、シャツのボタンを外して行く。全てを忘れるように。記憶を塗り潰すように。
 
 その後のことは、よく憶えていない。
 
 
 
 
 
 
 
 

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