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里伽子さんのツン☆テケ日記〔7〕

 
 
 
 金曜日の朝。私は重い心と身体を鼓舞しながら出社した。

 当たり前だけど、米州部は既に皆フル回転状態。私が入室した時、朽木くんに何か話していた片桐課長が、ちょうどシマを離れようとしているところだった。きっと専務のところに行くのだろう。

 昨日のことを思い出して落ち込みそうになる脳ミソに活を入れ、私は目の前の仕事に集中した。

 結局、昼休み前になっても片桐課長は戻って来ない。別に昨日のことを社内で話せる訳ではないのだけど、姿が見えないだけで何となく気持ちが上がらない。

「里伽子先輩。私たち先に食事に行きますね」

 松本さんからふいに言われ、洩れそうになったため息を飲み込む。

「いってらっしゃい。私はもう少ししたら行くわ」

 松本さんと沢田くんを見送り、私はパソコンの画面に目線を戻した。今日からしばらく、北条くんと顔を合わせなくていいことだけが救いに思える。

 そうしてしばらくすると、やっと片桐課長が大部屋に入って来たのが目の端に映った。思わず、目で追う。

 シマに戻った途端、朽木くんが課長に何かを話しかけている。課長はそれに頷いて電話をかけ始め、私はその姿を見ただけで妙に安心し、席を立って社食に向かった。

 少し遅いお昼を済ませて海外営業部に戻る途中、社食に向かうところらしい片桐課長がこちらに歩いて来ることに気づく。どうしよう。何か言った方がいい?それとも、いつも通り素知らぬ顔して挨拶だけする?

 心の中で葛藤したけど、ちゃんと結論なんか出せる間はなくて。

「お疲れさまです、片桐課長」

 結局、いつも通りの挨拶をすると、

「おつかれ」

 課長もいつも通り返してくれた。

 そのまま通り過ぎよう、と思ったのに、つい、私の目は片桐課長の姿を追ってしまった。一瞬だけ、だけど、視線が絡み合うのを感じる。

 止まりたがる足を叱咤し、私はそのまま営業部に戻った。

 今、私に向けてくれた課長の目は、昨日の夜、最後に私に向けてくれた目と同じだった。━そう、昨日の夜。

 ゴクリと息を飲み、私はインターフォンを押した。

 少し待っても反応がない。やっぱり、まだ帰っていないのだろうか。どうしよう……焦りに追い立てられる。

 もう一回だけ、と押し込む。

 やっぱり、帰っていない……と諦めかけたその時。

「はい?」

 受話器を無造作に取ったのがわかるような音と、不機嫌そうな声。帰宅されていた、と言う安堵より、こんな時間に非常識だよな……と自分に落ち込み、声が出て来ない。何か言わなくちゃと焦っていると、「……今、開けます」と課長の声。

 何て説明しようかと焦っているうちに、『カチッ』と言う音がして目の前の扉が開く。

「……今井さん……」

 一瞬の間の後、信じられないものでも見たように驚いた課長が、目を見開いて私の名前を呟いた。

「……片桐課長……あの……あの……夜分に申し訳ありません」

 慌てすぎて情けなくて、ちゃんと言葉が出て来ない。

「……っ……いったい……」

 課長も驚きで言葉が出て来ないみたいだった。そりゃ、そうだよね……。

「……どうした?こんな時間に……。それよりも、よく、ここが……」

 そこまで言って言葉をとめたと言うことは、こないだ食事に行った時に教えてくれたことを思い出してくれたのだろうか。でも今はそれどころじゃない。

「……申し訳ありません、課長……あの……」

 必死で言葉を発しようとする私に、

「とにかく、入れ」

 そう言ってくれた。

「……はい……失礼します……」

 扉を支えてくれてる課長の腕をくぐるようにして、私はソロリソロリと玄関に足を踏み入れる。靴を揃えるために課長に背を向けた時、何となく視線を感じ、この変な格好を何て説明すればいいのか脳内フル回転だった。

 通してくれたリビングでテーブルに散らかった書類を見て、私は「やっぱり」と申し訳なさで頭がいっぱいになる。

「……あの、すみません……まだお仕事中……でしたよね……」

「いや……すまない。さっき帰って来たばかりで散らかってるけど……」

 課長は無造作に置かれた書類を掻き集め、揃えてテーブルの端に置きながら、私をソファに促してくれた。やっぱり帰って来たばかりだったんだ。本当に申し訳なくて情けなくてどうしようもなかった。

「……あの……いえ……申し訳ありません……私の方こそ、こんな時間に……。もしかしたら、まだお帰りじゃないかも、とも思ったんですけど……」

 答えながらソファに腰かける。でも、バッグを胸の前から離す訳にいかないのも辛い。しかも、こんな時間に訪ねて来るなんて……何て女だ、と思われるだろうか。

 項垂れていると、課長がマグカップに入れたあったかいコーヒーを渡してくれた。

「……ありがとうございます……」

 あったかいコーヒーを一口含むと、何だか安心できて小さくホッと息を吐く。

「……何があった?」

 同じようにコーヒーに口をつけた課長は、私が一息ついたのを見計らったように訊いて来た。一瞬「うわ、どうしよ」と焦ったけど、何にも説明しない訳にもいかない。本当のことは言えないけど。頭の中で必死にストーリーを構築する。

「……あの……今日、友だちと食事をしてたんですけど……」

「うん」

「帰り際に事故か何かで電車が止まってしまっていて……駅まで行ってから知ったんですけど……」

 私の言葉に、課長は「ああ」と言うような表情。たぶん電車の事故のことは知っていたんだろう。

「そのせいなのかわからないんですけど、何か大騒ぎになっていて……ちょっと……とばっちりを……」

 ウソくさいその説明に、一瞬だけチラッと私の格好を見た課長は、ひとり納得したように頷いて、すぐに「……怪我は?」と訊いてくれた。

 私は首を振り、縋るように課長の顔を窺う。

「……ブラウスのボタンは弾け飛んでしまうし、スカートはスリットが……仕方ないので……」

「それでスカーフで隠して来たのか」

「……はい……」

 完全に「怪しい雰囲気丸出しだ」と言われているのがわかり、上目遣いのまま顔を下に俯けた。

「……この格好じゃ電車も乗れないし、そもそも電車は止まったまんまで動く目処が立たないと言われて……だからタクシーもすごい人で……」

 そこまで話したところで、課長が眉をしかめているのに気づき、いたたまれなくなって来る。

「この間、課長がマンションのことを教えてくださったのを思い出して……ここまでなら歩いて近かったものですから……申し訳ありません……」

 すごく言い訳がましいと自分でも思った瞬間、課長の顔が厳しく強張った。

「それにしても、危ないじゃないか。駅員に言って保護してもらえば良かっただろう」

 うわわ、そう来ちゃったか。

「……声をかけようと思っても、事故の対応でそれどころじゃなかったみたいで……」

 く、苦しい言い訳……と思った瞬間。

「……いくら近いったって、おれはその格好で夜道をここまで歩く方がどうかと思う。……第一、おれがまだ帰っていなかったらどうするつもりだったんだ。そういう時は駅で保護してもらってからおれに電話して来い」

 課長にしては珍しいくらいの強い口調。やっぱり怒ってるよね……こんな時間にいきなり訪ねて来るなんて。

「……すみません……。最初、電話も考えたんですけど……まだ社にいらっしゃるかとも思って……」

 しどろもどろになってしまった。課長を誤魔化すなんて、やっぱり私にはムリだろうか……でも言えない。言えないよ……。そう思った私に、課長はさらに強く言い放った。

「それこそ、おれが帰っていなかったらどうするつもりだったんだ」

「……はい……」

 仕事以外では、今まで私が聞いたことがないくらいに言葉尻が強い。迷惑かけてるんだから仕方ないけど、課長に本当の理由を言えないことが苦しくて、ただ俯くしかなかった。

「……すまない……言い過ぎた。でも、これからは気をつけて欲しい。今は何が起きるかわからないご時世なんだ。連絡さえくれれば迎えに行けるから」

 私の様子がよほど憐れだったのか、課長は声を和らげてくれたけど。私だって、まさか自分がこんなことに遭遇するなんて……。

「……はい……すみませんでした」

 私はもう、そう返事するのがやっとだった。

「うん」

 そう言って立ち上がった課長は、私の頭を優しくポンポンと叩いて奥に歩いて行った。課長の気配が遠ざかると、ホッとするより心許ない気持ちが強くなる。マグカップを握りしめ、私はガックリと項垂れた。

 少しして奥の扉が開く音が聞こえ、同時くらいに課長が私を呼ぶ声。

「今井さん」

 顔を上げて声の聞こえた方を見ると、課長が目で私を促す。

「……合うかわからないけど、これ。とりあえず、着てみて」

「……はい……ありがとうございます」

 立ち上がってマグカップとバッグを置き、扉のところで服を受け取ると、課長は入れ代わるように部屋から出て後ろ手に扉を閉めた。

 その部屋は課長の寝室。玄関に入れてもらった時も思ったけど、寝に帰るだけ、と言っていただけあって、確かにあまり生活感がないような気がする。

 課長が貸してくれた服を見ると、白いシャツと細身のジーンズ。きっと、私でも何とか着れるものを探してくれたに違いない。急いでリビングに戻らなくちゃ、と手早く着替える。

 扉を開けると、課長は目を手で覆って天井を仰いでいた。すごく疲れてるみたい。それなのに、こんな面倒かけて……。

「……課長……すみません……ありがとうございました」

 私の声に振り返った課長は、

「今井さん、髪の毛」

 上から羽織ったシャツの間に、慌てて着替えた私の髪の毛が挟まれた状態なのに気づいて教えてくれた。

「……あ……」

 脱いだスーツをソファの上に置き、両手で髪の毛を持ち上げて引っ張り出す。

 ふと、視線を感じて課長の方を見た━その時。

 私の方を見ていた課長の表情。私が社内でも見たことがないような、何が起きているのかわからないくらいの凄まじい顔だった。思わず全身を震えが走る。

「……課長……?」

 私の呼びかけに、ハッとしたように表情を少し緩めた。

「……ああ……ごめん。明日のことを考えてて、つい……」

 そう言ってくれたけど、それでもまだ、その表情は固かった。課長の心の内を想像してしまった私の顔も、作った感満載の微妙な笑顔になってるに違いない。

 早く失礼しなくちゃ。そのことで頭がいっぱいになった。

「……あの、課長、すみません。洗面所をお借りしてもいいですか?」

「……あ、ああ……こっちだ」

 急いで化粧だけ直して、とにかく、課長のお家から出なくちゃ。……って言っても、元々、そんなにコッテリ化粧しているワケではないのだけど。

 リビングに戻ると、課長が寝室から出て来たところだった。手に何かを持っている。

「……車で送って行く。……行こう」

 その言葉で、車のキーを取りに行ってくれてたらしいことがわかった。でも、いくら何でもそこまでしてもらえない。課長は明日だって朝早いはずだ。

「いえ、そんな。着替えをお借りしたので大丈夫です。そろそろ電車も動いているかも知れませんし、ダメでもタクシーなら、もう……」

 私がそこまで言った瞬間。

「……いくら着替えたからって、あからさまに男物の服を着た女をこんな時間にひとりで帰せるわけないだろう。しかも、ちゃんと電車が動いているのかすら定かでないのに……!」

 初めて聞く、その激しい言葉の調子に、私は驚きのあまり硬直した。こんな課長を見るのは初めてで、怖くて、こんなに怒らせてしまった自分が情けなくて……泣きそうな気持ちになる。

「……行くぞ」

 目を逸らしながら言い、私を玄関の方に促す。

「……は……い……」

 私は震えを堪えながら返事をするのが精一杯だった。

 エレベーターで地下駐車場に降りると、課長は助手席のドアを開け、乗るように私を促した。とにかく反論せず、逆らいもせず、これ以上、課長の逆鱗に触れないように黙って乗り込む。

 私が車内に脚を入れ込んだのを確認すると、課長はドアを閉めて運転席に回り込み、静かに車をスタートさせた。

 何をしゃべっても怒らせてしまいそうなのが怖くて、車内では話しかけることも、お詫びやお礼を言うことも出来なかった。ただ黙って下を向いていたけど、初めて乗る課長の運転は、静かで、丁寧で、そして優しかった。私の知ってる課長の印象、そのままに。

 お互いにひと言も声を発さないまま、直に私のマンションに着いた。課長はいつものように入り口まで送ってくれたけど、やっぱり怖くて顔を見る勇気がない。それでも、お礼だけはちゃんと言わなくちゃ、と、私は下を向いて目線を下げたまま頭も下げる。

「……今日は本当に申し訳ありませんでした。……ありがとうございました」

「……うん」

 課長の声はいつもの声に戻っていたけど、私はまだ課長の顔を見れないでいた。震えるな。自分に言い聞かせる。そしたら次の瞬間━。

 私の視界に映るのは課長のシャツだけになり、鼻腔は課長の匂いだけになった。

 課長にふんわり優しく、身体を閉じ込められている自分。この間みたいに身動きできないような力じゃない。でも、物理的な力ではなくて、私を逃がさない、何か不思議な力に囚われているような気がした。

 私が逃げないのを確認していたのか、課長はしばらく、じっと私を掴まえたまま黙っていた。少し経って私の頭上に降って来たのは。

「……さっきは声を荒げたりしてすまなかった」

 とても後悔しているような声。課長の心臓の鼓動が大きくなったのを感じる。

「……だけど、おれはそんなに心臓が強い訳じゃないんだ。頼むからあんまり心配させてくれるな。何かあったらおれに連絡して来い。……頼む。そうしたら、必ず、おれが……」

 課長はそこで言葉を止めたけど、でも、何を言おうとしてくれているのか、たぶん私はわかったと思う。

 さっき課長があんなにも怒ったのは、あんなにも声を荒げたのは、こんなに迷惑をかけた、と言うことではなくて。北条くんにも指摘されたように、私の危機感のなさだったんだ、と。

 ━心配させるな。

 課長のその言葉が、全てを語ってくれているような気がした。

 ━必ず、おれが。

 ……守ってくれる。この人は、必ず、私を。

 私は唇が震えるのを堪え、

「……はい……」

 そう答えるのがやっとだった。

「……うん」

 そのまま数分。課長が大きく息を吸いながら、私を掴まえていた手を放す。

 今度は課長の目を見ることが出来た。優しい目。いつもと変わらない穏やかな。

 私は会釈してマンションの中へ入った。

(……バカだ、私。北条くんではダメな理由に、今、気づいてしまった)

 部屋の灯りを点けて窓を開けると、いつもと変わらずに課長がこちらを見上げている。顔は見えないけど、そのまましばらく見つめ合う。課長からも私の顔は見えていないはず。そのことを今日は感謝した。━だって。

 涙が止まらない。何年ぶりだろう。涙なんか流したのは。もしかしたら十年単位でないかも知れない。

(この人は、物理的な意味だけではなくて、私の心も守ってくれていた)

 いつの間にか……知らないうちに、こんなにも課長に依存していた自分の心に、今ごろになってやっと気づくなんて。

 しばらくして、帰って行く課長の車を見送りながら、私はまだ止まらない涙をそのままに立ち尽くしていた。

 世間では花金の夜。

 寄り道する気力もなかった私は早々に帰宅し、早めに眠る態勢を整えてしまう。いつ、寝オチてもいいように。

 でも、いざベッドに入っても、なかなか眠れなかった。疲れているのに。もう眠ってしまいたいのに。

 ━と、携帯電話に着信が入る。

(もう!こんな時間にお母さんかしら。それとも兄さん……はさすがにないか)

 急ぎではないだろうけど、一応、確認しようと手に取る。

「……え……」

 片桐課長からだった。こんな時間に……って、たぶん、やっと社長たちから解放されて家に帰れたに違いない。

『大丈夫か?』

 たった、ひと言。

 だけど、今の私にはそれだけで充分だった。

『はい。大丈夫です』

 きっと、これだけでわかってくれるだろう……課長は。私らしい、くらいは思うかも知れないけど。でも、また泣きそうで、これ以上は言葉が出て来ない。すると、すぐにまた着信。

『おやすみ。また明日』

 明日は逢える訳じゃない。でも『また明日』と、それだけで大丈夫だ、って課長はわかってくれたんだ。今の私を。

『はい。おやすみなさい。お気をつけて』

 そう返事をして、今度こそ、私は眠りについた。
 
 
 
 
 
~里伽子さんのツン☆テケ日記〔8〕へ つづく~
 
 
 
 
 
 
 
 

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