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社内事情〔39〕~約束と契約~
〔片桐目線〕
*
里伽子の肩を抱きながら、仄暗い天井を眺める。この時を、この感覚を、記憶に、身体に刻みつけるように。
皮肉なことに、里伽子はついさっき、おれにしがみつきながら、初めておれのことを名前で呼んでくれた。
(こんな最後の最後、って時になって……)
覚悟を決めたとは言え、こうしているとやはり心が揺らぎそうになる。手放したくない気持ちに。いっそ、このまま時が止まればいいとさえ思う。
果たしておれは、里伽子を手放して、彼女に触れもせず、しかも間近では見つめることすら出来ない、ただ遠くから眺めるだけの生活に戻れるのか。僅かに目に映すだけに留めなくてはならず、業務上の会話や時効の挨拶しか交わせない生活に戻れるのか。
━そして、いつか。
里伽子がおれではない他の男を好きになり、その男のものになるのを見ても平静でいられるのか。おれではない誰かに、おれに向けていたのと同じ表情を向け、幸せそうに笑う里伽子を見ても。笑顔で本心から……いや、例えば上辺だけであろうと、祝福することが出来るのだろうか。
……いや、そもそも見ていられるのか、すら危うい。
出来る、出来ない、ではなく、やらなくてはならないことはわかっていても。自信が揺らぐ。どうしようもないくらいに不安が押し寄せて来る。正気でいられる自信がないくらいに。
知らず知らず、身体中に冷や汗が滲む。
こんなにも自信が揺らぎ、呼吸困難になりそうなほどの焦りを感じたことは未だかつてなかった。
思わず息を飲んだ時━。
「……課長……」
ふいに里伽子がおれに呼びかけた。
「……起きてたのか……?」
バカのひとつ覚えのように訊ねるおれに、
「……寝てません……」
上目遣いで答える里伽子。
またいつもと同じようなやり取り。
『身動きひとつしなかったぞ』
そう言おうとして言葉を飲み込んだ。また返されるのは目に見えている。それに、これも今日で最後だ。
「……おれのせいだな」
代わりに、苦笑いしながら自分で自分に突っ込む。
そして、結局また、里伽子の呼び方は『課長』に戻ってしまっていた。と言うか、あの一回だけが特別だったのだろうか。苦笑いに、さらに渋みまで加わる。
おれのそんな心境など知るはずもない里伽子は、腕にもたせていた頭を少し上げた。
「……お話ししたいことがあります」
珍しく改まった口調で里伽子が言う。
だが、この時、おれの中には危険信号が点った。
(聞くな……!)
おれの中で、もうひとりのおれが叫ぶ。
今、里伽子の話とやらを、里伽子の声で聞いてしまったら、決意したことが、断腸の思いで決めた覚悟が、全て揺らいでしまう。おれは直感した。いや、直感と言うより、むしろ確信に近かった。
「いや……すまないが、先におれの話を聞いてくれ」
その不思議な確信が、瞬間的におれにそう答えさせた。里伽子に反発されるかも知れないことは承知の上で。
「……はい」
だが里伽子は、拍子抜けするほどあっさりと順番をおれに譲った。お陰でおれは、何て話し出すか考える余裕もない。
「……里伽子……おれは……」
最初の一声を勢いで放ってしまえばいいものを。情けないことに、迷いと言うヤツはこんなところに出るものらしい。おれは息を吸い込みながら目を閉じた。
「……おれは……きみとの約束を守れない……」
全てを吐き出す思いで言葉を放ったおれの腕の中で、里伽子はピクリとも反応せず、声も発さない。目を瞑ったままのおれには、今、里伽子がどんな顔をしているのかもわからない。見るのが怖かった。
「……どの約束ですか?」
思わぬ里伽子の返しに、驚いて目を開く。彼女の肩を抱く手に、震えそうなくらい力が入った。
「……どの……じゃない。全て、だ。きみと約束したこと全部、守れなくなった」
難攻している契約の時でさえ、こんなに緊張しない、ってくらいに自分が緊張しているのがわかる。そもそも、おれはほとんど緊張などしたことがない。自覚したことがなかった。
里伽子と初めてふたりきりで食事をした時。
里伽子と初めて夜を過ごした時。
里伽子に赴任の帯同を求めた時。
おれが「これは緊張している状態だ」と思えたのは、全て里伽子が関わっていることだけだった。
言うべきことを、とにかく言えた安堵感と、里伽子からどう返されるのかと言う恐怖感。
……今さら恐怖など感じる必要もないのに。
むしろ里伽子に愛想を尽かされてしまえば話が早い。スッパリと切り落とされてしまえば、これ以上、おれは何も考えなくて済む。この際、その後でおれが自分を立て直せるのか、なんてことは二の次三の次だ。
なのに、まだ里伽子の返事を待っている。心を炙られるような気持ちで。
トロ火で焼かれるような時間に耐えかねたおれが、もう返事などいらない。一方的に里伽子を切り捨てた男に成り果てればいい。それで全てが終わる。そう考えた瞬間。
「……そうですか。それはそれで仕方ないですね」
おれの胸に頭をもたせながら、里伽子は平然と言い放った。
(……え……?)
おれの予想を遥かに超える返事に耳を疑い、里伽子の顔を見遣る。
「……でも、まあ、課長と約束したことなんてほとんどありませんから……」
里伽子が何を言っているのか、おれにはさっぱりわからなかった。彼女がどう言うつもりでいるのか。
「……里伽子……?」
おれの困惑を読み取ったのかはわからない。だが、里伽子はスッと身を起こし、普段と全く変わらない表情をおれに向けた。
「……課長のお話って言うのはそれだけですか?」
「……それだけって……」
完全におれは混乱していた。
里伽子はおれの言わんとしていることを理解出来ていないのか?あれだけ回転の速い里伽子が?
それとも、理解した上で、おれとわかれることなど大したことじゃない、と言っているのか?
それならそれで話が早いのに、何故かおれの方が衝撃で呆然とする。
「……ならば、今度は私の方の話を聞いて戴けますか?」
里伽子はやはり同じ調子で訊ねて来た。
「……何を言ってるんだ……!」
おれは今、どんな顔をしているんだろう。泣きそうな顔か?苛立ってる顔か?驚いてる顔か?どっちにしても、ひどく情けない顔をしているだろう。だが、おれの目を真っ直ぐに見つめる里伽子の顔には、哀しみも、狼狽も、怒りも、何もなかった。
「……里伽子。おれが言ってることをわかって……」
「……私は破られたら困るようなことを、課長と約束した憶えはありません」
「……何……?」
里伽子の表情は、本当に全く変わらなかった。自分の方がおかしくなっているのかと思えるほどに。
「ですから、課長が私との約束を守れなくなったからと言って、少しも状況は変わりません。このままです。何か問題がありますか?」
再びの想定外の返し。
「里伽子、そうじゃない。そう言うことじゃないんだ……おれが言ってるのは、もうおれはきみとは……」
「……課長と約束した憶えはありません」
きっぱりと言い切る里伽子に、おれの心の方が限界だった。
「里伽子!おれにはもう、きみを守ることは出来ない!もう、一緒に生きて行くことは出来ないんだ!」
勢い余ってぶつけた言葉。━その瞬間。
「私が課長と結んだのは永久的な……一生をかけた『契約』だけです」
里伽子の視線と言葉を浴びたおれは、石になったようにフリーズし、脳内では必死に言葉を探していた。そんなおれに、里伽子は容赦なく次の一撃を放つ。
「課長を信じて全てを契約に差し出したのに、課長の都合だけで一方的に破棄するなんて、私は認めることは出来ません」
……営業の立場からすると、最高に痛いところを突かれた。仮にも営業課長の看板を背負ってるおれが言われるとは。
確かに、あの時おれが里伽子に言った言葉は『約束』とは言えない。ニュアンスから言えば、契約を結ぶ懇願、だ。その小さな穴を、里伽子は絶妙に突いて来た。
「もし、どうしても破棄すると言うなら、違約金、一生かけて払って戴きます」
里伽子は確実におれの上を行ってる。ぐうの音も出ないほどの正論で詰められた。
だが、だからと言って、ここで折れる訳には行かない。
「……頼む、里伽子……わかってくれ……今日のことで、ヤツらは集中的にきみを狙って来るかも知れない。きみにもしものことがあったら……おれにはもう耐えられない……」
━瞬間、ドン!と言う音と共に、胸元に激しい衝撃。
「……く……ふっ……!」
握りしめた両手を、里伽子がおれの胸に思い切りぶつけて来たのだ。肺から強制的に押し出された空気で噎せそうになるのを堪える。
「……っ……どうして……!」
俯いておれの胸に拳を当てたまま、里伽子は声を絞り出した。
「……どうしてもっと皆を……私を信じて頼ってくれないんですか……!」
ひと言も口に出せず、おれはただ里伽子を見下ろす。
「そりゃあ、課長から見たら……課長がひとりでやった方が確実かも知れません……。でも、どうしてそこまで、ひとりでやろうとするんですか……全部を背負おうとするんですか……」
「……里伽子。おれは、昔の自分の失敗を自分で拭わなければ……」
「でも、この事態に於いて、社員は全員巻き込まれているも同然……もう一蓮托生なんです」
返す言葉がなかった。
「もう課長ひとりの問題ではないんです」
何も返せないまま、無言の時が過ぎて行く。
里伽子の言い分はもっとも過ぎて、それについて、おれが返せる言葉はひと言も出て来ない。だが、理屈じゃない。正論だけでは覆せないことがある。それを里伽子にわかってもらわなければ……おれが必死の思いで口を開こうとした時。
「……どうしても、と言うならば、課長の望み通り、今、この場で契約を破棄しても構いません。……ただし……」
里伽子が顔を上げ、その瞳が真っ直ぐにおれの目を射抜いた。
「課長との契約を解消した、と言う事実だけで、相手が納得する訳がないことはわかってますよね?」
「………………!」
また痛いところを突いて来る。
「向こうにとっては、私の存在の意味するところは変わらないでしょう。もし、課長の言うように私に何かがあったとしても……」
やめてくれ……!
「課長は課長として、普段の交渉と同じように社にとって最善の方法を取ってくださるんですね?」
やめてくれ、里伽子……!
「そうしてくださる、と約束してくれるなら、私は今、この場から去ります」
そう言い、里伽子はおれを押し遣って離れ、シャツを纏う。
「……里伽子……何をする気だ……」
「……帰ります」
里伽子は無表情に言い放った。
「……待て。今、何時だと思ってるんだ。もう電車も……」
「タクシーを掴まえます。もう、課長に心配して戴くには及びません」
その言葉で、おれの頭に血が昇る。
「……何を言ってるんだ!例え、ただの同僚だとしても、こんな時間にひとりで帰せる訳が……」
「だからタクシーを掴まえます」
「里伽子!」
おれが後ろから掴まえると激しく抵抗する。おれはもう、どうしていいかわからなくなっていた。
「里伽子!いい加減にしてくれ!」
思わず声が大きくなる。その時、ほんの一瞬、里伽子の顔がクシャっと歪んだのが見えた。一度だけ見たことがあるその顔。その表情がおれの胸に突き刺さった。
里伽子がその表情を浮かべるのは、おれが身勝手な気持ちを抱いて彼女と相対する時だけ。おれが彼女の気持ちを見ていない時だけだ。
……そう。わかっていながら目を逸らしていたんだ、おれは。
おれは皆を、里伽子を心配するフリをしながら、本当は自分が耐える自信がなかった。単に怖かっただけだ。
里伽子と事実上はわかれたとしても。そんなことをしたところで何も変わらない。変わる訳がない。上辺だけ里伽子との関係を解消しても、流川に対する緩衝になどなるはずもない。
もし、里伽子に危害が加えられるようなことになれば、おれは間違いなく平静でなどいられないだろう。いつもの『営業課長・片桐 廉』でいられるはずがないことは明白だ。
ただ、おれが、里伽子を守れなかった時の言い訳にしかならない。逃げているだけだ。おれは。
力づくで里伽子を抱きしめた。
「……里伽子……すまない……おれは……」
「もっと皆を……私を信じてください……」
里伽子が震える声で言う。彼女は、この期に及んでも情けないおれを、当たり前のようにストンと受け入れてくれた。
「……誰よりも信じている」
おれの声も震えそうになる。
「……課長の力に及ぶ訳じゃありません……でも……ひとりで背負わないでもっと頼ってください……」
「……きみが傍にいてくれるだけで、100万の味方を得るより心強い」
おれの背中を抱きしめる、里伽子の手のぬくもりを感じる。
おれは、おれより小さなこの手に、何よりも守られていることを感じていた。
「……里伽子……」
息がとまるほど、里伽子を強く抱きしめながら、この手を必ず守り抜いてみせると新たに心に誓った。
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