課長・片桐 廉〔4〕~初ランデヴー編③
どうやら、お互いに触れられたくなかった感が強い名前の話題は通り過ぎた。
その話が終わった後は、今井さんが運ばれてくる料理に顔を緩ませるのを見るたびに、何だかおれまで幸せな気分をお裾分けしてもらっていた気がする。
女性にとっては料理の魅力が最強なのか、酒の力も手伝ってか……会話もそこそこ進む。今のところ問題なく。……たぶん。
「今井さんは、何かスポーツやってた?」
「……そうですね。試しも含めたら、片っ端から手を出しては性に合わないものは切り捨てて行く感じで。身体を動かすのは嫌いじゃないです」
やっぱり。運動神経、良さそうだもんな。見た目からして健康的だし。
「性に合わないスポーツって?」
「団体でやる球技とか、あんまり合わなかったですね。テニスは少しは続きましたけど……バスケとかバレーボールは競技そのものよりもチームプレーが面倒で」
何となくわかるような気がして、笑いを堪える。それにしても『切り捨てて』って表現が今井さんらしい。
「課長も何かスポーツされてました?」
「おれも今井さんと少し似てるかもな。あちこち手を出してはやめたり、また始めたり。でも、まあ、ワリと頑張ってたのは水泳かな」
おれの言葉に、今井さんは「やっぱり」と呟いた。
「何で?おれ、いかにも水泳やってたように見える?」
「はい。肩とか広背筋の感じとか……」
広背筋と来たか。何ともマニアックな返事が返ってきて、堪えた笑いが洩れそうになる。
「普段、服着てる状態でわかるの?スーツなのに」
広背筋なんて見えるか?と、おかしくて、つい突っ込んでみると、
「はい!初めてお逢いした時に、すぐわかりました」
楽しそうに答える。6年もの歳月を経て、自分の予想は正しかったと証明されたことでスッキリした、と言うところだろうか。
「泳ぎは今でも行きたいくらいだけど、なかなか行けないな、これが。大学時代に水球にも誘われて、何回かやったけど “死ぬ!” って思って断念した」
おれの話にコロコロ笑う。こんなに笑う子だったんだな、と知って正直驚いた。……ま、社交辞令8割だろうが。
「でも、腕の感じとか……何か武道っぽいことされてたのかな、とも思いましたけど」
……鋭い。これは思わず焦る。これじゃあ、おれに限らず他の奴らもどこまで過去を読まれてるかわからんな。
「……当たり。ま、武道っても空手とかはちょこっとだけど。ボクシングもパート部員みたいな感じでやったことあるな。剣道と弓道はおれとしてはかなりやってた方。今井さんじゃないけど、ひとりで出来る弓道が一番頑張ったかな」
「奇遇ですね。私も弓道はやってました」
その答えに、思わず今井さんをじっと見る。彼女なら袴姿が似合いそうだな。と言うか、着物が似合いそうだ。
「へぇ。今井さんなら様になりそうだな」
「う~ん……どうでしょう?」あまり本人には自覚はないらしい。
「下級生に憧れられたりしなかった?」と訊いてみると、
「あ~そう言えば、弓道やってる時、やたら下級生の女の子に声かけられたかも……」
やはり思い当たる節はあるらしい。
やっぱりな。彼女は同性からも憧れられたりするような感じに見える。ただ、本人が相手にするかどうかは別問題として。そう考えてまた笑いそうになる。
「他には?」
「他ですか。スポーツって言うか、ワンシーズンだけチアやらされたり……」
「ぐっ……!」
笑いを誤魔化そうとワインを含もうとしたところで、おれは派手にむせた。
「課長!大丈夫ですか!?ワインが気管支に入ったんですか!?」
おれは口元を押さえながら、背中をさすってくれる彼女にやっとのことで「大丈夫だから」とだけ答える。
まさか、彼女のチアリーディング姿を想像しかけたなんて……とても言えない。
「あ、でも、あと水泳もやってましたよ」
「ぐふっ……!」
「え、あ、課長……!」
ようやく咳き込みが治まり、気を取り直すように話を続けてくれた彼女の言葉に、再び、おれは咳き込んだ。
どこまで学習しないんだ、おれは!いちいち想像するな!
心配そうに背中をさすってくれる彼女に、むしろ罪悪感すら感じて、まともに顔を見れない……。いかん。
おれは深呼吸して、脳内沈静化に努めた。
よし。もう大丈夫だ。何でも来い。
そう気合いを入れ直したおれに、別方向からの複合キックが炸裂した。
「課長の剣道とはちょっと違いますけど、棒術を少しだけやったり……」
……もう、絶対に変な想像はしない!
「なぎなたとか……」
…………絶対に口答えもしない。
「フィットネスボクシングとか……」
………………絶対にケンカを売るのはやめとこう………………。
「あ、あとスポーツとも武道とも違いますけど、日舞やってました」
いきなりの方向転換。
おれの脳内に、また良からぬ想像が……いや、違う!
今井さんの着物姿がリアルに浮かんだ。まろやかで、凜とした姿が。
その脳内映像は本当にリアルで、もう想像しない、なんて決心なんか簡単に吹っ飛ぶ威力だった。
「日本……舞踊?すごいね。何でやろうと思ったの?」
「弓道を始めた時に……着付けも含めて、着物での動きや所作に慣れた方がいい、って勧められて……ま、道着と着物じゃ全然違うんですけど」
なるほど。彼女の立ち姿や座り方、姿勢やモロモロの仕草に女性らしさが溢れているのは、それが大きいのかも知れない、と納得する。
「……似合いそうだな……」
思わず口から洩れた、今度こそ純粋な感想を呟いたおれを、眉間に弱冠のシワを寄せた今井さんが見つめる。
「……課長。何を想像されてます?」
「は……え……?……何を……って?」
……って、何で邪な想像にむせた時は疑いもしないで心配してくれて、純粋な感想の言葉には警戒心を丸出しにするんだ!納得が行かないぞ!!
おれは心の中で叫んだ。
最初から冗談だったのか。そんなおれの様子に彼女の口角が小さく持ち上がる。おれはその瞬間を見逃さなかった。
……おれの反応を見て楽しんでるな。完全に遊ばれてるぞ、おれ。
今井さんは、おれの返答など待っていなかったかのように、さらにそのまま話を転換させる。
「陸上もやりましたよ。今でもたまにジョギングしたりはしますけど。短距離はそこそこ学内ではいい線行ってて……」
「……そうなんだ」
おれは余計な言葉を言わないように、返事が警戒心丸出しになる。
「最高で100メートル12秒くらいでした」
「……………………」
……何かヤラかして逃げても捕まりそうだ。
いや、おれも学生時代、結構脚は速い方だった。確かマックスで11.7くらいは出せたと思う。……が、今、走れるのかは自信ない。
今井さんはそんなおれの、もう既に隠そうにも隠せなくなっている表情を見ては楽しんでいるかのようだ。
くっそー。5歳も歳下の女の子に翻弄されるなんて。
それでも。
料理を食べては幸せそうに笑い、話してはコロコロ笑い、いたずらっぽい笑みを浮かべながら、おれの反応を窺っては楽しそうに話している(ように見える)今井さんを眺めているのは悪くない気分だった。
こんな時間を持ったのは何年ぶりだろう。
いや、ヘタしたら初めてなのかも知れない、と考えたところで、自分を「寂しい、つまらない男だな」と考えて苦笑いになる。
今井さんは、他の奴らや、例えば坂巻さんや松本さんら女性の同僚といる時はこんな感じなんだろうか。どうも社内でのイメージしか浮かばない。
藤堂の話からも、当然、浮かばない。どうも藤堂の場合は、今井さんにやり込められている印象しか浮かばない……って、おれもか!と自分で突っ込む。
だが本当に、こんなに印象って言うのは違って見えるもんか、と言うくらいに。
━もっと見ていたい。
おれが、そんな願うべくもないことを漠然と思い浮かべた時。
「片桐さま。お料理のご注文はこれで最後でございます。あとはデザートになりますが、如何致しますか」
スタッフは、しっかりとオーダー時の今井さんの様子を覚えていたようで、確認を入れてくれた。
「今井さん、どうする?何か追加する?」
おれの質問にほんの一瞬、間をおいてから、「……いえ、大丈夫です」と答える。
「本当にいいの?ウチに着いてから『お腹減った~』なんて思っても遅いよ?」
そう突っ込んでみても、ちょっとムキになったように「大丈夫です……!」と退かない。
その反応に『頑張ってる感』が滲み出ているのが、どうにもおかしくて、そして何だか可愛くて、つい心の中で吹き出す。
「じゃあ、デザートを変えてもらったら?少し多目に変えてもらえるよ」
おれの言葉に、否定の返事をしようとしたのが表情でわかる。おれは有無を言わさず、スタッフに彼女の分だけ盛り増しのデザートをオーダーした。
「お飲み物は何になさいますか?」の問いに、
「おれはホットコーヒーで。今井さんは?」
「……課長と同じで……」
めちゃくちゃ上目遣いで答える様子がツボだ。
おれが必死に笑いを堪えていると、スタッフがニコニコと顔を緩ませながら戻って行く。
その後、デザートが運ばれて来るまでの間、彼女のリアクションはわかりやすく『いつもの今井さん』だった。彼女がどのくらい食べるのかは知らないが、恐らく食べっぷりを見られるのが嫌だったのだろう。
そして━。
運ばれて来たデザート盛り増しバージョンは、おれの想像を遥かに超えていた。おれは甘いものを食べないワケでもないが、もしおれがこれを食べたら間違いなく胸をヤラれる、ってレベル。
さすがに、これはヤバかったか……おれは焦った。……が。
「課長。課長は良かったんですか?こちらにしなくて……」
「いや、おれは大丈夫。その分、結構、パン食ったから……」
イタリアンはパンが美味しい場合が多い。おれはワインに合わせてかなり食べていたので、食べるのはもう充分だった。
「……じゃあ、お言葉に甘えて、いただきます」
そう言って、再び、手を合わせた今井さんは、黙々とデザートを食べ始めた。美味しそうに、幸せそうに。
……それは見事な食べっぷりだった。見ていて気持ちがいいくらいに。おれは見ているだけで胸がいっぱいになったけど。
「本当に何でも食べるんだ?」おれの質問に、
「はい。余程、激辛とか激甘とかでなければ、甘くても辛くても何でも戴きます」
美味しそうにモグモグ食べながら答える。少しはご機嫌が戻ったようだ、とホッとする。
……と言うか、何でご機嫌取ろうとしてるんだ、おれは。
すると、ふと、手を止めた今井さんが真顔になった。
「……今井さん?」
何か胸に不安のようなものが過ったおれは、彼女の横顔を見つめる。
じっと考え込んでいるかのような数刻の後、彼女は躊躇いがちに声を発した。
「……片桐課長……あの……」
「ん?」
今井さんにしては珍しく言いよどんでいる。
ゆっくりとおれの方に顔を向けながら「……あの……あの時……」と小さな声。
「……あの時?」問うおれに、
「……いえ、すみません。何でもないです」と答え、視線を前方に戻した。
おれに向かって放った『あの時』と言う言葉。
この時のおれは、いつのことを言っているのか、何のことを言っているのか、まるでわかっていなかった。
いつもと違う今井さんの様子に気づいていながら、そのまま素通りしてしまったことを、後々、おれは後悔することになる。だからと言って、この時に追及していれば良かったのか、と問われれば、それは何とも言いようがないのだが。
今井さんの様子を不思議に思いながらも、その後は普段の様子に戻ったことで、おれは油断したのだと思う。
再び食べることに専念しだした彼女は、大量のデザートをペロリと平らげてケロリとしていた。恐らく、メニューを追加しても大丈夫だったに違いない。……が、コーヒーまで含めて料理を全て食べ終える頃には既にいい時間になっていた。
今井さんが化粧室に行っている間、おれは今度の合同企画のことを考えていた。
今井さんの見解は恐らく間違っていない。企画室がどう出てくるか。もしかしたら、今度こそ公の場で藤堂と論議出来るのかも知れない、なんて考えると気持ちが高揚して来る。
━藤堂。
おれはきみを営業として育てたかった。おれの元で。きみなら、おれより余程いい営業になったはずだから。
だが、それを潰したのは、他ならぬおれ自身。
あの時のおれには、他に方法が思い浮かばなかった。焦りが、不安が、そして恐れが、おれの思考力を狭めていて。
きみを守る方法を他に考えつかなかった、おれの責任。
だからこそ。
今度の企画で、きみの本当の力を見てみたい。そのためにはおれも容赦はしない。全力で潰す気で行く。
ふと、気づくと、いつの間にか化粧室から戻って来ていたらしい今井さんが、仕切りの傍に立ったままおれの顔を凝視していた。声を発することも、瞬きすることも忘れたように。
「……すみません、お待たせしました」
やっとのことで出したような声。
「……よし、帰ろうか」
おれが笑いかけると、少し引き攣ったような笑顔を浮かべて頷く。いかんな。また怖い形相になっていたらしい、と苦笑い。
頼んでおいたタクシーに店の前から乗り、今井さんの家の場所を告げる。週末の夜は少し交通量が多いようだ。
「今日はつき合ってくれてありがとう」
「……とんでもないです。こちらこそ、素敵なところに……ありがとうございました」
小さく会釈をしながら答える彼女の髪の毛が揺れ、また、フワリと甘い香りが鼻孔を突く。
そのまま無言の時。
狭いタクシーの中で触れ合うほど傍にいる、そのむず痒いような落ち着かない感覚。
早く、彼女の家に着け……心の中で祈る。
「そろそろですけど……どの辺りですか?」
「あ、次の信号を左に入って、最初の角を……」
運転手の問いかけに今井さんが答える。
もうすぐ終わる。もうすぐだ。おれは心の中で繰り返した。
今井さんが住んでいるのは5~6階建てくらいのマンション。その3階だと言う。マンションの向かいにタクシーを待たせて入り口まで送る。
「課長。今日は本当にありがとうございました」
「いや、おれの方こそ楽しかったよ」
「私もです」
彼女の笑顔に心が鈍りそうになる。振り切るように、終わりの言葉を発しようとした瞬間。
「……あの……課長……」
また今井さんが、さっきのように何か言いたげな視線をおれに向けた。
その目差しが。その表情が。
おれの心を狂わせた。
振り子の針が、傾いてはいけない方向へと揺れる。
おれは血流が全身を駆け巡るのを感じながら訊き返す。
「ん?どうした?」
「……課長……私……」
どうにも歯切れが悪い。今井さんにしては本当に珍しい。
そんな彼女の顔を見つめていたおれは、自分でも思いもしなかった言葉を発していた。
「……また誘っていい?」
思わず、そう言っていた。言ってしまってから気づき、息を飲む。
何かを言いよどんでいた今井さんも、同じように息を飲んでおれの目を見つめた。だが、それはほんの一瞬。
「……はい」
まさか承諾されるとは思っていなかった。彼女ならいたずらっぽく笑って濁すだろうと。
その読みがはずれたことで、取り返しのつかないこの行動が抑止されることはなくなってしまった。
おれはこの後、その後悔を長く抱え、そして迷うことになる。
そんなこととは知らずに。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
おれの方を振り返り、会釈しながら、彼女はマンションの中に姿を消した。
3階だと言う彼女の部屋に灯りが灯るのを確認し、おれは待たせていたタクシーに乗って帰宅した。
窓からおれの姿を見送る視線を感じながら。
~課長・片桐 廉〔5〕へ続く~
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