里伽子さんのツン☆テケ日記〔3〕
「ん……おいしそう」
美味しそうなメニューを見ているのは楽しい。でも、あんまり課長を待たせちゃ悪いよね。
迷いながら課長を目の端で確認すると、にこにこしたまま私の方を見ている。もしかしたら待たされることに慣れているのかな、なんて考えていると。
「今井さん、先に飲み物だけでも決めよう」
課長がそう言ってドリンクのメニューを開いた。
「ビールにする?イタリアンだしワインにする?それともカクテルでももらう?」
課長のその言葉に、慣れているのだ、と確信する。
「課長は何を飲まれるんですか?」訊いてみると、
「おれは何でもいい派」と笑いながら即答。
それなら私もコダワリは大してないし、何でもいい旨を返すと、ちょっと拍子抜けしたような顔をして、
「……じゃあ、おすすめのワインでももらおうか」と言って、お任せでワインをオーダーしてくれた。
「さて。料理はどうしようか。おすすめのコースにする?それともアラカルトで頼む?」
まだメニューとにらめっこしている私に、課長が辛抱強く訊いてくれる。でも自分の中では、さすがにタイムリミットだった。
「……こちらのお店で課長のおすすめはありますか?あと課長がお好きなメニューとか」
苦肉の策『人まかせ』。かなり得意技だ。
「おれは雑食で何でも食べるから。おすすめはスタッフに訊くといいよ」
……って、あら、アテがはずれたわ。困る……。
「……じゃあ、本日のおすすめコースで」
この「じゃあ」は何だろう?って思ったけど、とりあえずの即答。
課長は微妙な表情で何か言いたげな様子だったけど、頷いて、ワインを持って来てくれたスタッフの人にオーダーしてくれた。
すると、オーダーしたのに、まだしつこくメニューを見ていた私は、あるメニューに目が吸い寄せられ、
「あ、これ美味しそう」口の中で呟いていた。
……つもりだったのに!
「何?一緒に頼む?」
えっ!?
課長が間髪入れずに訊いてくれたもんだから、事態を把握する間もなかった。
うっそーーー!!!
つい、この口が……この口が……。
声が洩れ出てしまっていたらしい!!私のバカバカバカ!!!今日は気をつけなくちゃ、と考えていた傍からこれだ。
自分のアホさに気づいて後悔しても手遅れだった。慌てて「いえ、食べ切れないと困るので」と誤魔化す。
実は私、たくさん食べなくても大丈夫ではあるのだけど、普通に食べたらかなりたくさん食べれる方だと思う。だけど、いくら何でも、初めて一緒に食事をする上司の前でそんな姿は晒したくない。
「じゃあ、あとでお腹に余裕があったら頼めばいいよ」
課長の言葉にウソくさい笑顔を浮かべ、「はい」と素直に頷いておくことにした。
ワインを注いでくれていたスタッフの人がクスっと笑いながら、「かしこまりました」と言って去って行く後ろ姿を見てほっとする。
それから落ち着きを取り戻すべく、改めて店内を見回してみると、やっぱり素敵なお店。課長は普段、こーゆうお店を使うんだ。
そう考えて、はっと気づく。
ま、ま、ま、ま、ま、まさか、デートで使ってるとかっ!?
勝手に接待で使ってると思い込んでいたけど、プライベートで使ってる可能性だって無きにしも非ず。課長のプライベートのウワサなんて聞いたことないけど、でも、もしかしたら……。
……って、いや、そんなはずないよね、と思い直す。いくら何でも、デートで使ってるお店に、部下とは言え他の女を連れてくるようなことをヤラかす課長とは思えない。やっぱり接待だ、うん。
すると、私の脳内妄想なんか知るはずもない課長が、
「とりあえず、乾杯しない?」
そう言って、私の方にワイングラスを差し出した。
「あ、はい」
冷えた白ワインが注がれたグラスを、課長のグラスに下側から軽く当てる。透明感のある細い音がとても綺麗。……本当はワイングラスは鳴らさない方がいいんだろうけど。
「おつかれ」
「お疲れさまです」
ワインの向こう側で、課長が優しく笑っているのが見える。課長といると、何だか自分の心の中を全部見透かされてる気がして……落ち着かない気持ちのままワインを含んだ。
「ん……おいしい!」
私がまた駄々洩れに言葉を洩らすと、課長が嬉しそうに笑っていて。
……と。急に課長が真顔になった。
「今井さんは説明会には一回しか出ないだろうけど、大まかな話を聞いてどう思った?」
あ、一応、それも本当に理由のひとつだったんだ。……ってか、切り替え、はやっ!
「……う~ん……正直言うと、あまりに大まか過ぎて何とも言えないところなんですけど……」
まず前置きから言っておくことにする。だって内容に関しては、本当によくわかんないんだもの。
「うん」
課長は真剣な顔で、私に話を促すかのように顎の下で手を組んだ。
「永田室長からの話は、私たち営業側の反応を確かめている、と言うか、試しているように感じました。その反応を見て、たぶん藤堂くんに営業側の懸念を払拭させようとしているんじゃないか、と」
課長は、いつの間にか仕事モードになった怖い顔でじっと私の言葉を聞きながら、
「何で、そう感じた?」
と突っ込んでくる。突っ込まないでほしい……本当によくわかんないんだってば。でも、何か答えなくちゃ。
「え……って、いや……何となく……じゃなくて」
う~……「何となく」じゃ到底かわせそうにない。説明会の時の記憶を必死で手繰り寄せる。あの時、私、何を感じたっけ?
「あ、えと。永田室長が話してる間に、藤堂くんと雪村さんがすごい聞き取りって言うか書き取りって言うか……してたんですよね。あれって……」
課長の顔をチラ見しながら、
「雪村さんが企画室に異動になったタイミングで、元々、営業サイドだった藤堂くんと他方からの目線を絡ませて検証するためなのかな、って。今までの企画ってかなりの率でポシャってますから……」
そこまで話して、持ちネタというか記憶は尽きた。どうしよ……こんなんで大丈夫だろうか。課長の顔色を窺う。
顎に手を当てて考え込んでいた課長は、私の上目遣いに気づくとすぐに表情を緩めた。
「ごめん。なるほど、と思って。……仕事の話はこれくらいにしとこう」
解放されてホッとしたその時、ちょうど最初の料理が運ばれてきた。
「おいしそう」また口から出てしまった呟きに、スタッフの人が嬉しそうに笑いかけてくれる。課長までがおかしそうに私の顔を見てる気がするんだけど。……何故なの。
「いただきます」と手を合わせ、気づかないフリをして戴くことにした。
……うわ、まだ見られてる気がする……見ないでよ~。何か私、おかしなことしてる!?してるの!?と焦りながらひと口。
「おいしい……!」
課長の視線のことなんか、一気に忘却の彼方へ飛んでくくらい美味しい。私の様子を見ていた課長が、笑いながら手を合わせて食べ始めた。
「ん。うまい」
「ですよね」
美味しいものは共通な幸せ。思わず顔を見合わせて笑顔になる。
それからは少しずつ世間話に変化。
「今井さんのご家族はどんな感じ?お父さん、仕事は?」
課長はまず私の家族のことを訊いてきた。うわ~……あんまり話したくないけど……仕方ない。話題の取っ掛かりとしては定番だしな~。
「父は公務員です。母は昔は働いて……いたのかな?働いてたところが想像できない人なんですけど。今は主婦ですね」
……課長の顔がどこか意外そうになったのは何故なの?……ま、いっか。
「もう、3人兄弟の真ん中なんで放任に近くて。そのくせ、しょっちゅう、入れ替わり立ち替わり連絡くるから……あ、父からは全然なくて助かるんですけど」
面倒くさいことに、母と兄と弟はしょっちゅう連絡してくるのだ。父は言わなくても理解してくれるタイプで、その辺が私には助かる。
「3人兄弟の真ん中か……構成的にはどんな感じ?」
面白そうに訊いていた課長が、興味津々という感じで突っ込んできた。
「兄と弟がいます」
私の答えに、妙に納得したようにクスッと笑う。……何故なの。
「……課長のご家族は?」
よし、それなら、と逆質問してみる。
「おれん家?親父は普通の会社員。お袋は今井さん家と同じで今は主婦だな」
へぇ~意外。課長のお母様なんてバリバリお元気そうなイメージでいたわ。
すると、さらに続けて、
「そして実は、おれも3人兄弟の真ん中。だから、何となく真ん中の感じはわかる」
などと、課長がニヤニヤしながら言う。思わずびっくり!
「課長、真ん中なんですか?え、え、課長、構成は?」
「何と、おれも兄貴と弟に挟まれてる」
ええーーー!ホントにーーー!?と思いながら、
「ええーーー!すごい奇遇ですね」
そう言ってから「……これって奇遇って言うのかな」と自信がなくなる。脳内を日本語の意味の成り立ちが駆け巡った。
「でも、おれと違って女の子ひとりなら大事にされたんじゃない?男3人だと本当に放ったらかしだけど……」
そんな私に、口元に笑いを浮かべながら課長がよくあるひと言。でも、ウチに限ってはとんでもないわっ!
「全然っ!です。もう、名前からして適当、って感じで……」
子どもの頃から自分の名前はイマイチ好みではなかった。別に大嫌いってほどでもないけど、何だかイマイチ。だから、ただの呼び方の記号と思って気にしないようにしてたのよね。
「“里伽子”って名前が?……何で?ご両親、どう言う意味でつけたの?」
課長、ぐいぐい突っ込んでくるから、仕方なく、昔、親から聞いた意味を説明する。
「何かよくわからないんですけど。お伽噺に出てくる里って言うか……心の故郷(ふるさと)のような……みたいな。人の帰り着く場所になるように……とか何とか……」
『お伽噺に出てくる里』って段階で、何か私とは違う気がしてならない。しかも『人の帰り着く場所』って何なんだろう。
「あんまり本人が、そのイメージない感じになると、ちょっと……」
私の脳内なんか知らない課長は穏やかに笑って、
「いい名前じゃない?音(おん)の響きも今井さんに似合ってる。……と、おれは思うけど……」
そんな風に言うし。思わず上目遣いで課長を見ながら訊いてみた。
「じゃあ、そう言う課長は……」
その時、一瞬、課長の表情が強張ったように感じた。何か悪いこと言っただろうか……って考えていたら、みるみる表情が困ったような面白くなさそうな、微妙な感じになる。
たかだか名前のことなのに即答がなく、課長は明らかに言い渋っている様子。こんな課長、仕事では見たことないから不思議に思いつつ……あれ、そう言えば?
「……課長は……ん?あれ?……課長の……下のお名前って、何でしたっけ?」
そうだ。課長の下の名前なんて、私、覚えていなかった。……あ、私、アジア部直属の津島課長の名前もうろ覚えだ。こりゃ、まずい。
……って、あ、あ、あ、何だか課長の顔の強張りが増したような気がする。まずいまずいまずい!
ど、ど、ど、ど、どうしよ……と頭の中で必死に起死回生を計っていたら。
「……“れん”……かたぎり れん……」
課長が躊躇いがちに教えてくれた。
「……かたぎり……れん……」
確認するように名前を繰り返してみる。え、別に普通の名前だよね?それに、課長の方こそ音が合っている気がするけど。
「どう言う字を書くんですか?」
訊いた瞬間、課長の顔が……顔が……。ひぇ~。
私、課長にとっての地雷を踏みまくってるのかしら……。何でだろう?だけど、この状態で今さら撤回も難しい。
すると私の様子を憐れに思ったのかわかんないけど、課長は諦めたように「……广(まだれ)に兼ねる……」と小さい声で答えた。
「……广に兼ねる……」
確認するように繰り返したけど、『广に兼ねる』?……って、え、あの字だよね。別に本当に普通じゃない。もっと変な字かと思って身構えたのに。いや、変な字ってどんなんだ?と自分で突っ込む。
課長、何が気になってたんだろうか?
「……ああ!廉価とか廉売の“廉”ですね」と、懸命に明るく言った途端。
ひぇっ!!
課長の顔が……顔が……顔がぁ~~~……。さっきよりテンション下がってる!?
え~何で、何で~?何が気に入らないの~?
「……“れん”……“廉”……」
おかしな名前じゃないことを確認すべく、口の中で呟くと。
うわわ!課長の顔色が……さらにトーンダウンしてる!
と、と、と、とりあえず、褒めとくべし!
「課長にぴったりですね!」と必死のテンションマックス!
ぎょっ!!!
何、何、何なの!?課長、土気色になったわ。
わかんないよ~。何がいけないの?焦るわ。
「……課長?どうしたんですか?」
耐え切れなくなって思わず訊いた私に、
「……まあ、3人になったのは結果的だけど。男3人なんて、ほんとーーーに扱いがいい加減になるから。兄貴がいた時点で、おれの名前なんか付いてりゃいい、くらいの勢いで。安い扱いでおれにぴったり……」
な~んて、すごく面白くなさそうな様子で言う。
へ?何で、そんな風になるんだろ。私の名前より、よほど立派な意味じゃない?だって……。
そう考えて「あっ」と思う。
もしかしたら『廉価・廉売』が気になってたのかな。確かに名前の字を確認されたら、これを言うのが一番早いし、相手からの確認に使われる率も高いだろう。
でも、こんなの意味の一部でしかないのよ?
私なんか「『夜伽』の『伽(とぎ)』っ字ですね」なんて失礼なこと言われた経験まであるし。
「あの……广の“廉”ですよね?かどとか境めとか折りめの。……えと、でも、私のイメージする課長にぴったりですけど。だって『人として守らなければならない、とする行動の順序に反することがない』とか、『欲につられてけじめを失わない』『欲ばらない』『私欲がない』『未練がましくない』『いさぎよい』とか……そう言う意味ですよね?」
……課長がものすごく驚いた顔で、私の顔を凝視してくる。
え、まさか、自分の名前の意味を知らなかった……わけないよね。課長に限って。
━『廉』。
目を瞑って、頭の中にその文字と音と意味を思い浮かべる。
「……『見きわめる』『思い切りがよい』……そして、『自分ひとりの利益だけを考える気持ちを持っていない』……」
やっぱり、これって、課長じゃない?
「うん!やっぱり、片桐課長のイメージです!」
思った通りにそう言うと、課長は瞬きもしないで私の目を見つめた。
そうよ。課長の見極め力とか思い切りのよさ……『名は体を表す』なのよね。
しかも。
「清廉潔白の“廉”ですもんね」
そう言った私の顔を、目を丸くして凝視した課長は、苦笑いしてから吹き出して口元を押さえた。
何がおかしかったのかわかんないけど、私、今日は課長のいろんな顔を見ている。
でも、思わぬその表情はどれも、何だかとても可愛いわ。
~『ツン☆テケ日記〔4〕へ つづく~
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