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かりやど〔伍拾七〕

 
 
 
『 も う も ど れ な い 』
 
 

 
 
束の間でいい
 
この刻を
記憶の中で凍らせて
 
 

 
 

 美鳥の誕生日まで数日、と言う五月初め。
 
 三人で暮らしたマンションは、ちょうど更新月のある九月いっぱいで解約する事に決まった。あと四ヶ月ほどである。
 その間に、たまに一泊程度であれば、と言う夏川の許可も下りたが、意外な事に美鳥はそれほど行こうとはしなかった。
「……行ったら……思い出しちゃうから……戻りたくなくなっちゃうから……」
 理由を訊ねた朗に、美鳥はポツリと呟いた。
 弱気に強がっているその件を除けば、特に美鳥の様子が変わったようには見えなかった。夏川に対する態度にも、特に変化はない。少なくとも、表面上は。
 
 しかし、朗は気づいてしまった。
 
 夏川の様子から、見えない何かまでが感じられ、わかってしまったのだ。
 そして、言葉からも。
 
『……人の命、運命とは本当にわからないものです……。思いもかけずに生き延びる事もあれば、逆に命を落とす事もある……。特に大きな予兆もなかった人、充分過ぎるほど注意していた人が、不意にいなくなってしまう事が……』
 
 つい数日前、昇吾と自分の違いは何か、を訊かれた時、何気なく洩れたのであろう夏川のひと言が結び付いて。
 
 望まずとも気づいてしまったのだ。
 認めたくない確信を以って。
 
 このままでは、美鳥の時間は……美鳥と自分の時間は残り少ないのだ、と言う事実に。
 100パーセントの絶対、を覆す奇跡が起きない限り、あの鳥は自分の手の中から飛び立ってしまうのだ、と言う事実に。
 
 夏川は全力で対策を見つける、と約束した。美鳥も努力する、と。
 ならば己も、出来る事を、それ以上にする方法を追求するしか道はなかった。
 そして、そのために決意した事を、朗は美鳥の誕生日に合わせて実行する事にしたのである。
 
 そんなある日──。
 珍しく春さんから、ささやかながら美鳥の誕生会を前日の昼間行なう、と言う通達が出された。
「……何故、前日に?別に当日でも良さそうなものじゃないですか?」
 不思議そうに訊ねる夏川に、にこにこと嬉しそうに笑っていた春さんが、困ったような表情を浮かべる。
「まあまあ、先生ったら。当日、お嬢様はおふたりで…………三人でお過ごしになりたいでしょう?」
 一瞬の思案の後、夏川は春さんが言っている事の意味を理解した。
 
『美鳥さまは、朗さまと、そして昇吾さまと過ごしたいでしょう』と。
 
 春さんのその気持ちに、夏川の目元口元がほころぶ。
「……確かに、その通りですね。我々は、前日に目一杯お祝いさせて戴きましょう」
「はい!ごちそうをたくさん作りますよ」
 
 張り切る春さんの小さな身体が、夏川の目には何よりも頼もしく映った。
 

 
 前日の誕生会には、佐久田や本多、伊丹も呼ばれた。その他に、美鳥の存在を知っている看護師たちも数人参加。
 看護師たちは花と一緒に、手触りが良く、座り心地も良いクッションを、そして何と本多と伊丹もアレンジされた花を贈ってくれた。小規模ながらもあたたかい誕生会。
 瞳の色が映えるよう、美鳥は淡いオレンジ色のワンピースに身を包んでいる。その姿は華やかで、皆が目を細めた。
 
「ところで美鳥さま、おいくつになられたんですか?」
 そんな中、真顔で訊ねたのは佐久田である。
「……えっ!佐久田さん……ひどくない?」
 美鳥が不審そうな目を向けると、悪びれる様子もなくニコニコと笑っている。
「お小さい頃から存じ上げておりますが、あまり変わられた様子がないので」
「それ、もっとひどくない!?」
 間髪入れずに美鳥が突っ込むと、周囲から忍び笑いが洩れる。美鳥が少し膨れた瞬間、
「23歳、おめでとうございます」
 笑いを堪えた佐久田が、とびきり大きな花束を差し出した。
「……わあ……」
 美鳥の目が輝く。
 姿が隠れそうなほど大きな花束を抱え、美鳥は嬉しそうに微笑んだ。
「佐久田さん、ありがと!」
 その笑顔に佐久田の表情はメロメロである。
「おっと、忘れるところでした」
 そう言って、佐久田はもうひとつ小さな包みを差し出した。
「……なぁに?」
 花束を看護師のひとりに預け、美鳥は受け取った包みをその場で開けてみる。
「……わあ……!」
 中身は口紅。美鳥に似合いそうな色であった。
「ありがとう、佐久田さん」
 コンパクトを取り出した美鳥は唇を拭い、くるりと後ろを向いてその場で新たにのせる。
「……どう?」
「綺麗だよ、美鳥」
 朗が先陣を切ると、夏川も頷いた。
「良くお似合いです」
 美鳥を褒めつつ、佐久田を肘で突っつく。
「……相変わらず、気障だな、お前は。女性の心を掴む術を心得てる」
 嫌味ったらしく言う夏川に、
「本当にそうだったら、とっくに独身年数の更新は卒業してるぞ」
 少し不貞腐れたように返した。吹き出す夏川に、
「……そう言うお前は……」
 そう言って、目で催促する。
「おれか?おれは……」
 美鳥の前に進み出ると、促すように手を差し出した。美鳥が不思議そうに、その手の下に自分の両手を出す。
「……香水?」
 手の中に置かれたのは、美しくカットされた小さな瓶。包装など施さず、剥き出しのままリボンがつけられているが、それでも飾りたくなるほど絵になる形。
「……香りを確かめてみてください……」
 ほんの少し手首にのせ、香りを引き寄せた美鳥が目を見開いた。
「……これ……母様の……」
 夏川が頷く。
「……元々は陽一郎さまが大奥様に……冴子さまにプレゼントされたお気に入りの香りだったそうで……それを美紗さまもお気に召して、おふたりでお使いになっていた、と伺っています」
「……良く手に入ったね。……確か、日本には滅多に出回らないって……」
「……まあ、色々なツテで……本当は……どうしようか迷いましたが……」
 歯切れの悪い言い方に、過去を思い出させてしまうのではないか、と言う夏川の苦慮が窺えた。しかし、美鳥は首を振る。
「……ううん……嬉しい。……ありがとう、先生……」
 嬉しそうな美鳥に嬉しそうな夏川。その様子に、今度は佐久田が肘で突っつき返した。
「お前の方こそ気障の極みだ」
「……うるせ!」
 何だかんだで仲の良いふたり。抜群のコンビネーションに周囲が笑いに包まれる。
「お嬢様……わたくしからはこれを……」
 自分の事のように嬉しそうな春さんが、ふわりと美鳥の肩にやわらかいショールをかけた。
「……これ……」
 生地を縁取るように、そして両端一面に、目立たないが細かい刺繍が施されている。
「……春さんが……?」
「……久しぶりでしたので……あまり良い出来ではありませんが……」
 細かいものを見るのも大変であろう春さんが、ひと針ひと針施してくれた刺繍であった。一体、どのくらい時間がかかったのか……美鳥は泣きそうな顔で春さんに抱きついた。
「……ありがと……春さん……」
「23歳、おめでとうございます、お嬢様」
 春さんは愛おしげに美鳥を抱きしめる。
 思えば事件以来、こんな風に誕生日を祝う事などなかった。それどころではなかった、と言うのが正確なところではあるが。
「……ぼくは……当日、渡すから……明日まで待ってて」
 様子を見守りながら、朗が穏やかに言うと、美鳥が嬉しそうに頷いた。それを聞いた夏川と佐久田は、何故か嬉しそうにニヤニヤ笑っている。
「さてさて、王子は姫に何をプレゼントなさるのか?」
「そりゃあ、王子が姫に、ったらアレだろう」
 ダンディな見かけが台なしなほど、オヤジ丸出しで楽しげなふたりに、朗は爽やかに笑いかけ、
「おふたりには到底敵いませんが」
 一枚、うわ手の余裕を見せた。
 

 
 翌日、美鳥の誕生日当日も、晴天で暖かい日であった。
 
 昼近く、ふたりは春さんが作ってくれた弁当を持ち、昇吾に会いに出かけた。
「行ってらっしゃいませ。昇吾さまによろしく」
「うん。春さん、お弁当ありがと!」
 春さんの見送りを受け、ふたりはのんびりと歩き出した。
 施設の敷地内は緑が多い。ふたりに注ぐ五月の日差しはやわらかく、頬をなでる風は爽やかだった。
「……美鳥の季節だね」
 木々の葉を見上げながら朗が語りかける。
「……きみの瞳の色だ」
「……今は違うよ……」
 すると朗が首を振り、
「……ぼくはちゃんと憶えてる。変わる前の瞳も……きみと初めて逢った時の事も」
 そう言って、隣を歩いている美鳥の手を握った。一瞬、躊躇う気配を見せた美鳥の指に、自分の指をからめる。
「……繁みから飛び出して来たきみを見た時、森の精かと思った」
 しなやかな指が、自分の手を握り返すのを感じ、朗も力を強めた。
「……まさか昇吾自慢の可愛い従妹、だなんて思いもしなかったのが不思議なくらいだ。……きみの家の敷地内なのにね」
 思い出し笑いをする朗に、美鳥の口元が綻ぶ。
「……私は……こんなに昇吾にそっくりな人がいるなんて、ってビックリしたよ。夢かと思った」
「……ぼくが昇吾じゃない事は、その時にわかってた……?」
「もちろん、わかったよ。誰なのかはわからなくても、昇吾じゃない事はひと目で」
 驚く朗に、美鳥は当然、と言う顔で笑う。
「……だって……違ったもの……」
 何となく嬉しそうに、少し照れたように下を向く横顔が愛おしく、朗は更に手の力を強めた。
「そう言えば、こんな風にふたりで歩くの、初めてだね」
 朗の顔を見上げた美鳥が、嬉しそうに頷く。
 思えば、当たり前のデートなどした事がなかったと、朗は改めて思い起こした。手を繋いで歩くどころか、カフェにお茶を飲みに入る事も、映画や遊園地に遊びに行く事も。食事ですら、デート目的で行った事はない。
 美鳥は、十代の半分はベッドの上で過ごしたようなもので、しかも暗闇の中だった。その後は修羅の道に足を踏み入れ、別の意味で暗闇の中だった、と言って良い。
 
 以前、夏川が朗にチラッと洩らした話の中に、本当だったら、美鳥はもっと背も伸びていただろう、と言う内容があった事が脳を掠めた。
 父親の陽一郎は比較的長身で、母親の美紗も決して小柄ではなかった。確かに、成長期に寝たきりだった事が、影響していないはずはない。
 とは言え、朗の腕の中にすっぽりと納まる身体は、小柄で小ぶりながらシルエットはしなやかで、女性らしいやわらかさを備えている。少し細すぎる感もあるが、全体的なバランスで言えば抜群と言えなくもない。
(……一番、楽しいはずの時間を……)
 何事もなければ、過ごせていたはずの日々を思う。
(……過去を取り返す事は出来ない。……これから、埋めて行けばいいんだ)
 そのためには、夏川の言うように相当な努力が必要であろうが、既に覚悟の上であった。
 
 昇吾の墓の前に着くと、まずは掃除をして花を備える。しょっちゅう訪れているため、それほど汚れてもいないが、今日、備える花はいつもより大きな花束だった。
「……昇吾……私、23歳になったよ……」
 手を合わせながら報告する美鳥の横で、朗も手を合わせる。そして、心の中で報告した。自分の決意、を。その許しを乞う意味も兼ねて。
「……おめでとう、って言ってるだろう?」
 訊ねる朗に、少し寂しげな笑顔で頷く。だが朗には、昇吾のトロけそうに甘い顔が想像出来た。
 
 それから、暖かい陽だまりで、春さんが作ってくれた弁当を食べて談笑する。美鳥が疲れないうちに、二時間ほどで施設へと戻った。

 戻ってからは、暖かいサンルームでふたり、言葉もなく、ただ穏やかに外を眺めていた。
 朗の胸に凭れながら、遠くを見つめる美鳥の目は透き通り、何を見ているのか朗を不安にさせる。
 それでも、朗は既に決心していた。決して揺らぐ事のない決意を。ついさっき、昇吾に報告した通りに。
「……翠(すい)……」
 美鳥の身体に、緩く腕を回して呼びかけた。
「……ん……?」
 凭れていた美鳥が、顔を反らすようにして朗を見上げる。
「……前にお願いした、きみの隣の場所……昇吾が眠ってる場所の反対側の事だけど……もう、いいから……ぼくにはあの場所は必要ないから……」
 窓の外に目を向けながら言う朗を、その言葉の意味を考えるように見つめていた美鳥は、やがて静かに頷き、朗と同じ方向へと目線を戻した。
「……だよね……」
 呟いた美鳥の身体を、そのまま後ろから回していた腕で抱きしめる。
「……ぼくは、きみが入る場所に……きみと同じ場所に入るから、もう、あの場所は必要ない」
 朗の腕の中で、美鳥の身体が強張った。すると、抱きしめていた腕が、美鳥の身体の向きをゆっくりと変えさせる。
「……結婚しよう……翠……」
 向き合った美鳥を真っ直ぐに見つめ、朗が言った。少し見開いた美鳥の瞳が瞬きを止める。
 何の反応も示さない美鳥から離れ、正面にしゃがんだ朗が両手を取った。
「……美鳥……ぼくと結婚してください」
 そう言うと、返事も待たずにグリーンの石が輝く指輪を取り出し、美鳥の左手の薬指にはめる。
「……五月生まれの……ぼくの翡翠……」
 エメラルドと翡翠──かつての瞳の色に近い誕生石、そして、今の瞳の色の貴石。
 朗の顔と指輪を交互に見遣り、それでも美鳥からは何の言葉も出て来なかった。
 
 わかってしまったから。
 朗は知っていて、その上で言ってくれたのだ、と。
 全てを──即ち、ふたりの間には、もう僅かな時間しか残されていない事、を。
 
「……返事は?」
 しかし、朗も諦めなかった。
 以前、美鳥に公言したように。
 
『手離すのも、諦めるのも、あの時が最後だ』と。
 
 知っているのなら?──睫毛を伏せ気味に考えていた美鳥は、思い定めたように朗の目を見つめた。
「…………はい…………」
 翠玉からこぼれ落ちるひと筋の軌跡。
 
 微笑んだ朗は、美鳥の頬に触れ、そっと口づけた。
 

 
 それからの数ヶ月、一番大変な思いをする事になるのは佐久田であった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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