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課長・片桐 廉〔6〕~焔(ほむら)編

 
 
 
 終わりにするはずだった、終わらせなければならなかった、今井さんとの中途半端な関係。

 迷いを断ち切れず、自分を抑えられず、突発的に動いたことで、おれは自分で自分の首を絞めることになった。

 後悔、先に立たず。

 おれは週明け、自らをただひたすらに忙しい状況の中に追い込んでいた。

 今週は、特に金曜日から土日にかけて、専務との打ち合わせや同行も含めて予定がぎっしり入っている。その準備に追われていると、余計なことを一切考えずに済むことがむしろありがたかった。

 ━が。

 ふと、空いた間に、ふいに脳裏に浮かんで来るのは。

 今井さんの顔と声。立ち昇る、鼻腔をくすぐる香り。しっとりしたやわらかい唇の感触。抱きしめた身体のやわらかさ。耳をくすぐるように洩れる甘い吐息。

 それらが入れ替わり立ち替わりおれの眉間の辺りに押し寄せ、ともすれば気が狂いそうな感覚に襲われた。だから、それを振り払うように、また仕事に没頭する。

 延々、この繰り返し。

 今のおれには、専務の相手をすることすら救いになる。他を考えている場合ではなくなるからだ。

 こんな調子であと10日以上、果たしておれの命は保つのか。こんなことで、と思うようなことなのに、この状態に果てが見えない今、大袈裟とも思えなくなって来る。

 海外営業部の部屋は大部屋ではあるが、やはり今井さんと顔を合わせることはある。この時ばかりは、彼女のポーカーフェイスをありがたく思わざるを得ない。少なくとも表面上は、今までと全く変わりない様子でいてくれるからだ。

 それよりも、むしろ気になるのは北条の方。

 ヤツも何を考えているのかわかりにくいタイプで、もちろんその後、何度も顔を合わせてはいるが、全く前と変わった様子はない。だが、あの時の態度とひと言。あれが北条の本心であることは間違いないだろう。

 金曜日の夜は社長や専務と打ち合わせ、翌日、土曜日は泊りがけで同行と言う週の、今日は木曜日。

 おれにとっての決定打、とも言うべき事件が起きた。

 週末にかけての社長たちとの打ち合わせや同行に集中するため、木曜日は済ませておきたい他の仕事をひたすらに片づけていた。合間にちらりと見かけた今井さんに変わりはなく、北条とはすれ違った時に挨拶を交わす程度。

 夕方、また専務に掴まり、明日でいいような打ち合わせを何やかんや強いられ、帰りのタクシーまで同乗させられて。

 帰宅するなり上着を脱ぎ捨て、ネクタイをゆるめる。その状態で気分覚ましのコーヒーをセットし、翌日の資料を確認するためにソファに沈み込んだ。着替えてシャワーなんか浴びたら、そのまま眠ってしまいそうな気分だったから。

 大橋とのやり取りで作成した資料には、一部の隙もないようだった。おれが知る限り、同期で一番の切れ者は大橋だと思う。そうでなければ、あの専務の秘書は務まらないとも言えるが。

 ━と。

 いきなりインターフォンが鳴った。

 時計を見ると既に22時半を回っている。専務に掴まったにしては早く帰宅出来た方ではあるが……と言うことは宅配などの類いではなさそうだ。

(こんな時間に誰だ?)

 邪魔された苛立ちと連日の疲れで、居留守と言う考えが脳裏を過る。しかし、おれがいるのをわかっているかのように、さらにもう一回。

 仕方なく立ち上がり、無造作に受話器を取る。

「はい?」

 苛立ちを隠せない声は我ながら大人げない。

 すると、不機嫌なのを察知したのか返事がない。だが、何となく、人の息づかいのような気配を感じるところを見ると、いたずらではなさそうに思える。

「……今、開けます」

 仕方なしに玄関へ行き、扉を開けた。……と、そこに立っていたのは……

「……今井さん……」

 一瞬、自分の目を疑う。おれは目を見開いて固まった。

「……片桐課長……あの……あの……夜分に申し訳ありません」

 心底、申し訳なさそうな顔。

「……っ……いったい……」

 驚きで、それ以上の言葉が咄嗟に出て来ない。

「……どうした?こんな時間に……。それよりも、よく、ここが……」

 漸く出た次のひと言。しかしそう言ってから、前回、食事に行った時に電車の中からこのマンションを教えたことを思い出し、ひとり納得する。

「……申し訳ありません、課長……あの……」

「とにかく、入れ」

「……はい……失礼します……」

 今井さんは半分落ち込んだような、だが、半分は安心したような表情を浮かべ、扉を支えるおれの腕をくぐるように、恐る恐る足を踏み入れて来た。

 こんな状況でも、彼女はちゃんとしゃがんで靴を揃えていて……いや、重要なのはそこではない。

 リビングに通すと、テーブルに散らかった書類を見て声までが小さくなる。

「……あの、すみません……まだお仕事中……でしたよね……」

「いや……すまない。さっき帰って来たばかりで散らかってるけど……」

 無造作に放り出すように置いたものを掻き集め、テーブルの端に追いやる。

「……あの……いえ……申し訳ありません……私の方こそ、こんな時間に……。もしかしたら、まだお帰りじゃないかも、とも思ったんですけど……」

 彼女にしては歯切れが悪く、しどろもどろなのを不思議に思いながらソファに促す。よく見ると、彼女は奇妙な格好をしていた。

 彼女は、何もないのにこんな時間に男の部屋を訪ねて来るような女ではない。が、訳を訊く前に、とりあえずセットしていたコーヒーを渡す。洒落たカップなどないのでただのマグカップだが。

「……ありがとうございます……」

 受け取った彼女は、バッグを抱えたままコーヒーを一口含むと、安心したように小さくホッと息を吐いた。

「……何があった?」

 おれもコーヒーに口をつけ、彼女が一息ついたのを見計らって訊いてみる。一瞬、ビクッと反応したのを見逃さなかったが、そこは突っ込まずに彼女からの返事を待った。

「……あの……今日、友だちと食事をしてたんですけど……」

「うん」

「帰り際に事故か何かで電車が止まってしまっていて……駅まで行ってから知ったんですけど……」

 事故?そう言えば道路がやたら混んでいて、不思議に思った専務が運転手に尋ねていたっけ。確かに「列車事故の影響らしいですよ」とか何とか言ってたな。

「そのせいなのかわからないんですけど、何か大騒ぎになっていて……ちょっと……とばっちりを……」

 その言葉で、やっと彼女の奇妙な格好に合点がいった。

 彼女は部屋に入って、コーヒーを飲んでいる今もバッグを胸の前に抱えたままだ。しかも、何と腰回りに自分の大判のスカーフを巻きつけている。

「……怪我は?」

 おれが訊くと、彼女は首をふるふると振り、心底、困ったような顔をして上目遣いで窺うようにおれを見た。

「……ブラウスのボタンは弾け飛んでしまうし、スカートはスリットが……仕方ないので……」

「それでスカーフで隠して来たのか」

「……はい……」上目遣いのまま顔を下に俯ける。

「……この格好じゃ電車も乗れないし、そもそも電車は止まったまんまで動く目処が立たないと言われて……だからタクシーもすごい人で……」

 確かに、この格好で混んだ電車に乗るのは……考えただけで眩暈がしそうだ。

「この間、課長がマンションのことを教えてくださったのを思い出して……ここまでなら歩いて近かったものですから……申し訳ありません……」

 『歩いて』という言葉に、背中を冷たい汗が伝ったような気さえする。

「それにしても、危ないじゃないか。駅員に言って保護してもらえば良かっただろう」

「……声をかけようと思っても、事故の対応でそれどころじゃなかったみたいで……」

 彼女にしてはえらく弱々しい反論。だが。

「……いくら近いったって、おれはその格好で夜道をここまで歩く方がどうかと思う。……第一、おれがまだ帰っていなかったらどうするつもりだったんだ。そういう時は駅で保護してもらってからおれに電話して来い」

 思わず強い口調になる。何もなかったから良かったようなものだ。

「……すみません……。最初、電話も考えたんですけど……まだ社にいらっしゃるかとも思って……」

 今井さんが消え入りそうな声で言う。だが、万が一があった時のことを考えて気持ちが昂っていたおれは、また、つい、強い口調が出てしまった。

「それこそ、おれが帰っていなかったらどうするつもりだったんだ」

「……はい……」

 かつて見たことがないくらいにしょんぼりと俯いた今井さんに、おれは強く言い過ぎたと気づく。

「……すまない……言い過ぎた。でも、これからは気をつけて欲しい。今は何が起きるかわからないご時世なんだ。連絡さえくれれば迎えに行けるから」

「……はい……すみませんでした」

「うん」

 この時、まだ、おれは知らなかった。

 本当は、彼女がその騒ぎに巻き込まれたりした訳ではなかったと言うことを。

 この後、何分も経たないうちに、おれは、本当に自分自身を抑えられないくらいの真実を、自ら抉じ開けてしまうことになる。

 おれはしょげている彼女の頭を軽くポンポンと叩き、寝室のクローゼットへと向かった。とにかく、何か着がえを、と思ったのだが、彼女が着れるようなものがあるか。しかし、今の格好のままでは、おれの方が目のやり場に困る。

 季節柄、上に羽織るようなものもなく、仕方ないので白いシャツと比較的細身のジーンズを引っ張り出す。

「今井さん」

 寝室の扉から声をかけると、俯いてカップを握りしめていた彼女がこちらを向いた。

 落ち込んでいるのが手に取るようにわかる表情。ヘンな話、そんなに無防備な顔をされると、こちらの方がヤバい。

「……合うかわからないけど、これ。とりあえず、着てみて」

 おれの言葉に「……はい……ありがとうございます」と答え、カップとバッグを置いて立ち上がった。

 服を渡して入れ替わり、そのまま扉を閉める。と、同時に、

(あんな格好で夜道を歩くかっ!?)

 おれの正直過ぎる本心。

(本当にブラウスの胸元が丸見えだぞ!おい!!)

 ソファに座り、おれは頭を抱えた。あまりに危機感がなさ過ぎる。次いで、天井を仰いで目元を手で覆う。しっかり者だと思っていたのはおれの間違いだったのか!?

 すると、扉が開く微かな音とともに、小さな声。

「……課長……すみません……ありがとうございました」

 振り返ると、合うはずのない男物のシャツとジーンズを、カジュアルに綺麗に着こなした今井さんがおずおずと姿を見せた。

 こう言ってはナンだが、女性らしい格好とはまた違う、独特の色気が滲み出ている。これは……ヤバい。かなり、ヤバい。早いところ送って行かなければ。

 そう思いながら、ふと、気づく。

「今井さん、髪の毛」

 上から羽織ったシャツの間に長い髪の毛が挟まれた状態だった。

「……あ……」

 呟いた彼女は脱いだスーツをソファの上に置くと、両手を首の後ろに差し入れてフワリと髪の毛を持ち上げた。

 ━━━その瞬間。

 おれの視線は、彼女の首筋の辺り━ちょうど本人からは鏡でも見えにくい場所━に釘づけになった。

 おれはこの時、気づいてしまった。彼女の身に起きたことに。

 それが、結果的には秤の上で揺れていたおれの心を決定づけた。

 彼女の首筋に見えた、赤い虫刺されのような痕。

 それは━。

 間違いなく『印(しるし)』。

 男が女につける、マーキングの痕━━に違いなかった。

 それと同時に、その『印』をつけた相手にも。

(……北条……!)

 それは直感だった。あの時の、北条の挑戦的な目が脳裏に甦る。

 そう考えた瞬間、自分の中の血が全身を駆け巡り、全て蒸発するのではないかと思うほどに滾る(たぎる)のを感じ、おれは必死で自分を抑えようとした。

 それは、自分でも信じられないほどに燃え上がった嫉妬と怒りだった。

 どう言う経緯でこの事態になったのかはわからない。わからないが、彼女の説明は全部が本当ではないにせよ、半分くらいは事実なのだとは思う。

 恐らく『食事していた友だち』と言うのが北条で、何らかの理由でヤツから逃げ出した後、事故で列車不通の話を聞き、そのせいでタクシーに乗れなかったこと、は本当なのだろう。

 そう考えれば、駅で保護を求めずにおれのところに来たのは、ある種の緊急避難行動だったに違いない。

「……課長……?」

 今井さんの呼びかけでハッとする。不安気な目を向けて来る様子に、自分が相当恐ろしい形相をしていたらしいことに気づく。

「……ああ……ごめん。明日のことを考えてて、つい……」

 はぐらかすように濁すと、安心したように微かに笑顔になる。

(そんな無防備な顔をしないでくれ)

 おれは、未だに沸騰し続けて昂る気持ちを抑えるのに精一杯だった。

「……あの、課長、すみません。洗面所をお借りしてもいいですか?」

「……あ、ああ……こっちだ」

 彼女を案内した後、部屋に車のキーを取りに戻って立ち尽くす。やり場のない嫉妬と怒り。行き場のない気持ち。

 全ておれの想像に過ぎない。だが、限りなく黒に近いだろう、と思える。

 北条とのことは未遂なのか、そうではないのか。まさか、と考えただけで気が狂いそうだった。

 ただ、もし、万が一、未遂ではなかったとして。

 緊急避難として、男の部屋に逃げ込んで来るだろうか、とも思う。それこそ、然るべきところ、もしくは女友だちにでも連絡するのではないか、と。

 それに、いくら落ち込んでいる様子があるにせよ、あのくらいの状態でいられるものなのか。おれには計り知れないことなのだが。

 そう考えると未遂だったのではないか、と。……そう信じたい自分がいることも否定は出来ないが。

 それでも。例え、未遂だったとしても。

 どこまでかはわからない。が、北条が彼女に、彼女の肌に触れたことは間違いない。もしかしたら、おれが無理やり奪うように触れた、あの唇にも。

 想像しただけで、握りしめた拳に爪が突き刺さりそうだった。

 必死で気持ちを抑え込み、キーを手にリビングに戻ると、化粧を直していたらしい彼女もちょうど洗面所から出て来た。

「……車で送って行く。……行こう」

「いえ、そんな。着替えをお借りしたので大丈夫です。そろそろ電車も動いているかも知れませんし、ダメでもタクシーなら、もう……」

 彼女が言ったその言葉が、漸く抑え込んだ、だが、燻り続けているおれの気持ちを逆なでした。

「……いくら着替えたからって、あからさまに男物の服を着た女をこんな時間にひとりで帰せるわけないだろう。しかも、ちゃんと電車が動いているのかすら定かでないのに……!」

 おれの言葉の調子に、一瞬、ビクッとした彼女が怯えたような表情になる。

 ……わかっている。これは八つ当たりだ。彼女を、行き場のない自分の気持ちの捨て場にしてしまっただけ。彼女は彼女なりに、おれに対して申し訳ないと言う気持ちを表しているだけなのだ、とわかっていて。それでも。

 半分泣きそうな顔の彼女から目を逸らし、有無を言わさずに促す。

「……行くぞ」

「……は……い……」

 エレベーターで地下の駐車場に降り、彼女を助手席に促す。さっきと同じように、こんな状況でも、彼女はちゃんと脚を揃えてシートに収まった。

 こんなにも、彼女の一挙手一投足に意識を持って行かれる、と言う事実。自分を全て持って行かれる感覚。それはおれにとって、恐ろしいこと以外の何物でもなかった。

 そんなおれの心の内など知るはずもない彼女は、車の中で、終止、俯いていた。仕方ない。おれが怯えさせてしまったのだから。だが、そんな姿さえもが、おれの気持ちを昂らせる。助けが欲しいのは、むしろおれの方だった。

 お互い無言のまま、直に彼女のマンションに着き、いつものように入り口まで送る。

 おれと目を合わせようとしない彼女。俯いたまま、深々と頭を下げて言う。

「……今日は本当に申し訳ありませんでした。……ありがとうございました」

「……うん」

 頭を上げても俯いたままだった彼女の、その唇が微かに震えているのが見えた時。おれは考えるよりも先に、彼女を両腕で閉じ込めていた。

 この間のように身動き出来ないほどではない。本当にふわりと閉じ込めただけ。逃げようとすれば普通に逃げられる程度に。

 なのに彼女は逃げも拒みもせず、鳥籠の中の鳥のように、当たり前のようにおれの腕の中に収まっていた。

 それを確認し、おれは言葉を選ぶ。

「……さっきは声を荒げたりしてすまなかった」

 彼女は黙ったまま身じろぎひとつしない。

「……だけど、おれはそんなに心臓が強い訳じゃないんだ。頼むからあんまり心配させてくれるな。何かあったらおれに連絡して来い。……頼む。そうしたら、必ず、おれが……」

 ━守ってやる。

 最後のその言葉は飲み込んだ。

 だが、彼女は一瞬、小さく反応し、そして、小さな小さな声で、

「……はい……」

 答えながら頷いた。

「……うん」

 離したくない。彼女に触れたくて堪らない衝動。このまま自分のものにしてしまいたい欲望。鬩ぎ合う葛藤。

 それでも、触れない。これ以上。

 北条が触れたあとに上書きなどしない。彼女に触れるなら、ヤツの痕跡が全て消えてから、だ。決して上塗りなどしない。

 必死に自らと闘う。

 掴まえていた手を放すと、今度はしっかりとおれの目を見つめた彼女は、会釈をしながらマンションの中へと姿を消した。

 おれが窓を見上げていると、直に灯りが点り窓が開く。お互いに顔がはっきりと見えている訳ではない。それでも数秒、そのまま見つめ合う。……彼女が泣いているような気がしたのは、おれの気のせいだろうか。

 しばらくして、おれは何とか自分の気持ちを鼓舞し、燻った気持ちのまま帰宅した。
 
 
 
 
 
~課長・片桐 廉〔7〕へ続く~
 
 
 
 
 
 
 

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