薔薇の下で ~ Under the Rose 奇譚 ⑧ ~
【~Under the Rose~】 秘密で・内緒で・こっそり
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何故、見てしまったのだろう──。
*
夢か現実かもわからぬまま、いや、夢であって欲しい願望の中で、ただ呆然とその4文字を見つめる。
「……鏑木(かぶらぎ)……美雪(みゆき)……」
口に出したことで、『これは夢だ』と言う微かな希望自体が霧散してしまった。同姓同名であることを、100パーセント否定は出来ない。だが、クラスに一人、学年に一人はいる、と言う名ではないだろう。
(……何故、今になって…………何故、ここで……)
置きっぱなしのグラスが汗をかき、溶けた氷がカラリと音を立てる。
それが合図だったのか──まるで走馬灯のように、記憶が脳裏を駆け巡り始めた。
*
あの頃のぼくは、山際産業を破綻させようと画策していた。自分の目的を果たすためなら、何もかもを切り捨てても構わないとすら思いながら、手始めに山際と関係の深かった大企業──大垣リゾートを潰そうとしていたのだ。
復讐のために。
大垣の内部を探るために、ぼくは数多の女たちを使った。まるで使い捨ての道具のように……いや、『ように』などと面映ゆい。道具そのものとして、使い捨てた。
やさしく甘い言葉を囁き、毒そのものの甘美な蜜に誘い込み、官能の底なし沼に沈めて行く。ぼくなしではいられないようにした上で、最後には見捨てる。ぼくのために全てを投げ出した彼女たちを。
そこに罪悪感など微塵もなく、良心などと言うものは欠如していたと言っていい。
一体、いつからそうなってしまったのか。
初めから?
それとも?
それとも、どこかで変わってしまったのか?
10代までの自分を周りがどう見ていたのか、などと意識したことはない。ただ、意識せずとも、どう見られているか感じたことがない訳ではない。
とすれば、やはり結論はひとつしかない。
ぼくは、元々の要素はあったにせよ、変わった、のだ。
大垣リゾートを中核から崩すために、そして完膚なきまでに叩き潰すために、どんな手段を用いることにも躊躇いはなかったから。
当時、大垣社長の身辺を探るために、ぼくはまず公私ともに彼を支えていた秘書に近づくことにした。秘書と言えば聞こえはいいが、体のいい愛人だ。彼女は公私共に大垣を支えていて、大垣も彼女に入れあげていることはわかっていた。
その彼女に近づく足掛かりに選んだのが、当の山際産業の社長秘書だった。もちろん、こちらは本当に『ただの』秘書だ。彼女──渡辺美穂(わたなべみほ)に近づき、大垣の情報は粗方手に入れた。
手足として使うにあたり、美穂はまさにピッタリの女だった。
融通は利かない。お固く真面目で、逆に言えば、一度信じ込めばそこにも融通の文字は一切なしの一途人間だった。
そう──吉岡怜子(よしおかれいこ)のように。
つまり、取っ掛かりさえ掴めば、美穂を落とすのは容易いことだった。
あの頃、ぼくには根拠があってないような、絶対的な自信があり、それがさらに後押ししていたのは確かだった。
彼女がぼくの関心を引くために、ぼくの気持ちを繋ぎ止めるために、必死になる様を見ているのは快感ですらあった。
だからと言って、用がなくなった時に手放すことを躊躇ったりもしていない。他の女たちと同じように、いとも簡単に手を離した。必死で掴もうとする手を、縋りつく指をやさしくほどいて、真っ逆さまに堕ちて行く美穂を見送った。
見放されたのだ、などと気づかせもせずに。だから彼女は、ぼくのことを一切洩らさずにひとりで堕ちた。全てをひとりで背負い、そして全てを失って。
それがわかっていて、ぼくは美穂からの情報を元に、大垣が夢中になりそうな女を何人か見繕い、送り込んだ。もちろん、ぼくの言いなりになるように仕立ててから。
入れ替わり立ち替わり目の前に現れる自分好みの女たちに、案の定、大垣は目移りし始めた。結果、大垣の様子に気づいた愛人──宝田史恵(たからだふみえ)は、当然のことながら不信感を抱くことになった。
そのタイミングを見逃さず、ぼくが史恵に近づくと目算通りの展開に。
親子ほども歳の離れた男の愛人を続けていた反動なのか、史恵は始めのうち、自分よりも若いぼくにさほどの関心がないようだった。
だが、そこはそれ。
徹底的に彼女の自尊心をくすぐった。歳上の女性の大人であるが所以の知的さとエレガントを、そして彼女が如何に美しく有能な秘書であるか、を。
『悪い気はしない』程度の気持ちが、次第に膨れ上がって行く様が手に取るようにわかった。
「自分はこんな程度で終わる女じゃない」と。
大垣と築き上げて来たものが壊れ、怒りと野心が勝った時、史恵の心は大きく傾いた。そして、ぼくはその時を見逃さず、静かに微笑んで彼女に手を差し出し、彼女はその手を取った。
ぼくへと堕ちた瞬間に、彼女は本当に大垣を見限った。
そのことが、自分の運命をも狂わせるなどと知りもせず。
自ら堕ちて来た女を、ぼくは両手を羽のように広げて一旦受け止め、そして、安心し切ったところで放り出した。再び、奈落の底に向かって。
信じられない、と言う顔をしていた。だが、信じられなかったのは、むしろぼくの方だ。何故、突然現れたぼくなどを心底信用出来たのか、それこそ不思議でならなかった。
ぼくは端から史恵のことなど信用していないし、するつもりもなかった。ぼくに堕ちると言うことは、大垣を裏切ると言うことであり、そんな女を信用するはずもない。
だから、彼女が誰に何を言おうと、ぼくの存在が浮かび上がることなどないように行動していた。いや、そもそも、彼女に名乗った名を持つ男など、この世に存在していない。掴まれる尻尾などない。万が一、誰かが掴んだとしたら、それは端から切られるための蜥蜴のそれでしかなかった。
そして、大垣リゾートに引導渡し、業界最大手だった山際を落ち込ませた後、一番手っ取り早い方法として二人を共倒れさせたのだ。ぼくに対する美穂の恋情と、年寄りの大垣と若いぼくを秤にかけて、思いの外のめり込んで来た史恵とを。
ほんのひと言、美穂に洩らしただけ。
『しつこい女に言い寄られて困っている』と。
それだけで、事態は簡単に思い通りになった。美穂の言い分に、史恵はさぞかし困惑したことだろうし、史恵の言い分は、美穂の耳には届かなかっただろう。
ぼくは表舞台から姿を消し、それだけで目的はほぼ果たされた。
ただ、ひとつ、知りたかった真実を掴み損ねた以外は。
*
己が行なったことに躊躇いも後悔もなかった──はずだった。いや、今でも後悔はしていない。
だが、知りたくて知り得なかった『真実の欠片』かも知れないものを目の当たりにし、ぼくの気持ちは揺れていた。そう、これが『動揺』と言うやつなのかも知れない。
(……何故、薔子(そうこ)の資料に美雪の名前が……)
過去の記憶の海に溺れそうになりながら、目だけはその文字に釘付けになっていた。その、たった四文字に。
──と、その時、気配を感じて振り返った。
「薔子」
入り口に両手をつき、薔子が身体を支えるようにして立っている。瞬きの止まった瞳がぼくを見据え、呆然としているようだった。
「……京介……」
微かに震える声。
グラスを置いて立ち上がり、薔子の方を向いた。一瞬、慄いたように、僅かに身を引いた彼女に微笑みかける。かつて、幾多の女たちに向けた偽りの笑みを。
ゆっくりと近づいて行くと、彼女の心が逃げようとしているのがわかる。身体も共に。なのに、その場から動けないでいることが。
「……どうした……?」
ついさっき、ぼくが薔子の身体中に残した痕が、シャツの襟元から見える。ぼくはそれを見下ろしながら、目をそらすことすら出来なくなっている彼女の頬にそっと手を伸ばした。