「戦略ごっこ」ごっこ。
「戦略ごっこ」という本をパートナーさんや、取引先様からよかったので読んでみて!といわれてました。とはいえ、基本的に日本人の起業家系の実用書の本ってなんかずれていることが多くて、なかなか読んでみようという気がしない(これは私の経験則というか偏見です)。とはいえ、この本について「最高でした!」とか、「書いてることを誤読してる!」とかいろんな声が聞かれるので、酔っ払って早起きをした日に思い切って読んでみることにしました。
日本で出ている、起業家系で、学術系以外の所属や経験がないが書いた実用書が何故嫌いなのか、というのは「エビデンスで殴る」をするからです。学術系論文を血を吐きながら書いたことある人ならわかるけど、先行研究は、過去の人がおこなった偉大な功績で、それをつかって自己の理論の位置づけなどを確認して、自分の理論を作り上げていくための手法だとおもっています。
ところが、学術系以外の本は大概「○○は間違ってる!海外の論文では○○はダメで××といってるから、こうしましょう」というロジックなことが多くうんざりする。その論文だって、筆者が都合のいいように切り取ったでしょ?みたいな気分になるんです。いや実際そうだし。
で、問題の「戦略ごっこ」なんですが
こりゃダメだ。
言ってる内容よりも、「この理論と証拠が自分の現場で当てはまるか考えよう」って言ってるのに、自分は海外の論文を1行にも満たない長さで引用してるというのがほんとにげんなり。結局この人のX(元twitter)のプロフィールをみると未顧客理解って名前にはいってるので、結局のところ「未顧客理解」を売るために、うん、まあそいうことなんだとおもう。
序章をざくっと読んだ感じだと、「お前らはプルーフベースで動いてない。しかも適用できるとおもった理論はお前の場合に適用するか考えていない。だから私の理論である未顧客理解というのをつかえば通用する」かなと。これ単なる「断言+批判→自分のやってることに誘導する」ってよくある「戦略ごっこ」そのものじゃないかなって思うんだけど……あれ?ななんか私の読み方間違ってるのかな。
ともかく一番嫌だったのが論語を盲目的に引用してご都合的にあてはめしていること。論語って日本だと盲目的にありがたがられてるけど、キリストが生まれる前の紀元前500年ぐらいという2000年以上前にかかれたテキストで、それ自体が弟子が100年以上後に編纂したものなんです。そんなこと一切かいてないけど。それがなんで「現代日本のビジネス」に通用するのかが一番大事であって、そこを書かずに「孔子もこう言ってる」ってつかうのこそダメだこりゃなんです。今度、お札になる渋沢栄一の「論語と算術」だって決して「論語がこうだからこうしろ」とはいっていない。まったく。
よし、折角だから私なぐってみよう。
たとえば、本書の9P(Kindle版なのであしからず)より。
口語訳はこんな感じらしい
そもそも、ビジネスやマーケティングの文脈におとしたのが適切かの検討をしてないじゃん。この本は後半の「自分の知っている知識や経験の範囲内であれこれ思案するだけでは、独りよがりで近視眼的なマーケティングになってしまう」ことに力点を置きたいらしいのです。その言い換えって何故成立するのか一切触れていないところで砂上の楼閣立ててる感じなんですよ。
だいたい、この原文について安田登先生の著作を読んでいれば置き字である「而」に注目をするはです。「而」というのは日本だと置き字として読まない、意味の無い文字だけど実はこれは「時間の経過を表す単語」というのは「身体感覚で『論語』を読みなおす。」という本に書かれていることです。
「思而不学則殆」つまり、思うということこと考えをしつづける時間の経過が必要であることをいっています。そうおもうと意味が少しずれてくるのではないかと。つまり考えている→時間の経過がある→考えが固まってあぶない、なんだけどもしかしたら、孔子はそういうことに時間がかかってはじめてわかることをいってるのではないかと思う。つまりそういうことをやって経験してみて初めて分かるということを重要視してるではないかと。
こうやって複数の全然関係ない知識をつなげて、理論を発展していくこそ学術的な面白みであって、決して自分の正しさを証明するためのものではないことを強くいいたいことが本稿の主張です。
なのに短絡的にご都合で自分の理論の補強のためにつかってる本書こそまさにその「戦略ごっこ」であって私は、序章と目次だけで読むのをやめていまこれを書いています。
ほんとやっぱり微妙でした。
おしまい。
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